アレーナス、ハバナ、ニューヨーク
キューバの亡命作家レイナルド・アレナスによる自叙伝『夜になるまえに』の出現(原著1992年。邦訳1997年、国書刊行会刊)は、一つの文学的「事件」であった。政治権力による迫害を受けつづけた一人の作家が、アメリカへの亡命後、エイズと癌という二重の宿痾に侵されて自死のまぎわに完結させた47年の生涯の総括。その本は、奔放な想像力とたぐいまれな美的感性が「政治」と呼ばれる20世紀の暴力機構に翻弄されるときの痛みを全編にみなぎらせながら、一つの苛烈な生の軌跡を私たちに伝えていた。文学という実践が、それがまさに「美」や「真実」をめざす純粋な探求であることによって、二○世紀の全体主義的な政治過程のなかで強い弾圧の対象となってきた歴史を、アレナスの自伝ほどに痛烈に示したものはなかったのである。
十代で詩を書き始め、22歳にして長編小説『夜明け前のセレスティーノ』でキューバ作家芸術家同盟の賞を受けたアレナスの早熟な作家としての生涯は、けっして短かったとはいえない。30年近い文学的経歴の背後で生起した革命キューバをめぐる高揚と苦悩と抑圧の歴史が、アレナスの生涯に誰よりも深く鋭く刻印されている。青年時代の革命運動への心理的傾斜。首都での勉学。処女作の受賞。政府による出版拒否。男友達との性の冒険。精神的退廃(同性愛)を理由とする投獄。拷問。砂糖工場での強制労働。原稿の没収、破棄。亡命後はペンによるカストロ政権への徹底的抵抗。オリエンテ州の生まれ故郷の小村の貧しい幼年期から彼の文学的達成へといたる道のりにはほとんど無限ともいえる距離がある。その長い道程をアレナスはとてつもないスピードで走り去った。
そしていま、アレーナスの自叙伝を原作とする一本の映画が完成した。渾身の力作である。だが、このジュリアン・シュナーベル監督による『夜になるまえに』を、アレナスの波乱の生涯を描く伝記映画、と単純に定義して済ますことはおそらくできない。客観的に描かれた伝記映画の距離感のある語りと違って、この作品にはアレナス本人の肉声があまりにも強烈に響き渡っている。アレナスを演じるスペインの俳優ハビエル・バルデムのほとんど原作者に憑依したような熱演と、アレナスの諸作品からとられた詩的断片によるナレーションによって、この映画はまさに「自叙伝」という形式じたいを映像として再現する特別の緊張によって貫かれている。一人の作家の肉体的存在をこれほど強烈に感じられる映画もまた、稀有のことであろう。
映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の大ヒットで、キューバの音楽への熱い関心が巷では高まっている。キューバ民衆文化を無条件に礼賛する表層的な言説も多い。だが映画『夜になるまえに』は、そうした楽天的なキューバ観を木っ端みじんに打ち砕く爆弾でもある。20世紀後半の「革命キューバ」という体制が、革命に奉仕しない「純粋な文学」の実践を抑圧し、同性愛を資本主義的退廃として暴力的に一掃しようとした事実を告発する原作の精神は、映画にもただしく引き継がれているからだ。
しかもこの映画は、アレナスすら想像しえなかった、新たな歴史的展望へと私たちをいざなうだろう。亡命後ニューヨークで貧しい生活を強いられたアレーナスが、エイズの末期的進行と医療保険の不所持によって病院から追いだされるように帰宅する場面。タクシーに乗せられたアレーナスは、車窓を流れるマンハッタンの景色を眺めながら、ハバナの街の青春の痛々しくも輝かしい記憶に浸されている。その場面で、一瞬車窓を世界貿易センターのツインタワーがかすめる・・・。私は絶句した。キューバの政治に拒絶され、アメリカの資本主義にも疎外されて孤独の死を選んだアレナス。その姿に、崩壊し消え去ったツインビルのイメージを重ね合わせたとき、20世紀が何を生み何を失ったかを、私たちは深く思考するよう促されるにちがいない。
(『北海道新聞』2001年11月14日夕刊)
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