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1.衛星的暴力 Satellitic Violence

 メディアによって伝えられる「いま」が、私たちの現実感覚やアクチュアルな世界像を支配するほどの力を持つようになったのはいつからだろうか。ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争、神戸の震災、そして世界貿易センターへの自爆テロ攻撃・・・。ことごとく破壊のイメージによって特徴づけられたこうしたニュース報道がマスメディアを通じて私たちの日常空間にリアルタイムで伝えられたとき、それがイメージとことばの複合体として私たちのリアリティを席巻してゆく力は、ほとんど情報の暴力とでもいうべき圧倒的なものであった。人工衛星を経由して世界に同時生中継されるこの天体的な規模での情報通信の構造こそが、局所的な現実を世界にむけて即時的に拡散させることを可能にした。現代のメディア・テクノロジーは、いかなる局地的な出来事も、それが生起した瞬間に、個人の身体的な経験という位相を脱して容易に汎世界的な人類の経験へと組み込まれる可能性をひらいたのである。しかも、そうした「現実」の即時的転移を受容する想像力が、メディア・テクノロジーの遍在を媒介にして現代人のなかに生みだされたことが重要である。「事件」は、CNNによって衛星生中継されることで自動的に遠隔地における現実を改変・支配するわけではない。そのときにはたらく人間の想像力の特性によって、メディアの映像と言語とが、ひとしなみに人間の「現実」を世界同時性の相のもとに組み立て直すのである。

 あらためて2001年9月11日を境に、もう一度確認しておかねばならない。むろん、つねに現実の暴力はリアリティの側にあり、人間の生活空間に向けて物理的(=身体的)に発動されるものである。だが現代社会は、暴力にかんする映像や情報の方が、逆に現実における「暴力」という概念を規定してゆく、という一種のパラドックスを構造的にかかえるようになった。死や暴力が、実体として私たちの社会空間から隔離・隠蔽されてゆけばゆくほど、死や暴力の「イメージ」や「表象」だけが現実に氾濫し、その情報的な蓄積が、私たちの社会の暴力のあらたな社会的源泉となってゆく、というプロセスである。暴力は、いまや暴力の存在を世界同時性の相のもとに可視化させることのできる唯一の権力となったマスメディアによって表象の領域に呼びだされることではじめて、ほんとうに存在させられる。もはや「リアリティ」という感覚や想像力自体が、メディアを媒介にして獲得される経験により強く依存し、そのことによって、物理的に発動された暴力を「現実」として想像できない離人症的な心性が広く一般の人々の内面を占めはじめた。ニューヨーク、世界貿易センタービルの崩壊をTV画面で凝視した世界中の人々はもちろん、実際にマンハッタンでこれを目撃した多くの人々ですら、この事態を「まるで映画を見ているように」感じたと証言した。この点で、メディア的傍観者と目撃者・当事者とのあいだに唯一違いがあるとすれば、異国の傍観者がいまだにこの光景を現実のヒリヒリとした質感のなかに組み込むことができずにいるのにたいし、ニューヨーク人はこれが映画ではなくほんとうに起こった出来事であることに打ちのめされ、彼らのリアリティ感覚と現実との恐ろしいずれを心底実感して失意と恐怖におののいている、という点だけであろう。

 このことは、かえって、メディア的リアリティの現代社会における席巻を印象づけるだけだ。世界同時性の条件のもと、日々送り込まれる衛星経由の映像とことばを、新たな世界意識の基礎として採用した現代人。その現代人が、そうしたメディア的安定の構造をくつがえす自爆テロという「現実」の侵入に直面し、うろたえ、かき乱された心意を、未熟で反動的な言語と行動によってふたたび自らの信奉するメディア的空間に攻撃的に投げ返そうとしているのが、いまの構図なのである。

 とはいえ、今回の破壊的「現実」が、正真正銘の生活世界でおこった生身の「現実」であり、メディアが構築してきた仮想現実とそれが衝突している、というわけではない。むしろ、自爆テロの現実もまた、すでに完全にメディア化されたリアリティのなかにしかない。今回、破壊的「現実」は局所性を持ってはいたが、その破壊された局所(ニューヨーク)とは、世界同時性の仮構を成立させる世界の実体的な「中心」であって、メディアが現場生中継すべき「局地」ではないはずだった。これがアメリカという国家の受けたショックの決定的な原因でもある。メディア的辺境の光景によって侵入・占拠されたメディア的中心の衝撃と反動。ブッシュが宣言した21世紀最初のアメリカによる自覚的「戦争」になにか本質的にめあたらしい特徴があるとすれば、それは、この戦争が国家対国家ではなく国家対テロ集団の戦いであるといった戦争の対抗的な構造におけるものではおそらくない。ツインビルに向けられた意志なきTVキャメラによってはからずも世界中に同時中継されることになった攻撃と崩壊と死のイメージを、アメリカが自らの領土の内部に生起した事柄として「視覚的に」容認することができない、という理由こそ、この「戦争」の正義の裏にある深いアメリカ的無意識である。戦乱の瓦礫を映し出す許諾権を持つのは自分たちだけであって、彼らではない・・・。敗北の証としての瓦礫と死をつねに外部に想像しつつ、そのメディア的露出を支配・コントロールしながら世界の現実感覚を統御し、そのことによって自らの威厳と自己同一性を維持しつづけてきたひとつの国家の、それはあまりにも自暴自棄の、敵なき戦いの始まりなのである。いわばそれは、現代メディアが確立した世界同時性そのものをふたたび完全に奪還すべく企図された、一つの「世界」像の占有をめぐる、自家撞着にみちた不毛な戦いでもあることになる。

 人工衛星が可能にした、世界を同時的に俯瞰しながら現実に内実を注入するかのごときマスメディアの強力な機能を、あえて「衛星的暴力」と名づけてみる。それは、付随的暴力という意味ではなく、文字通り衛星規模の通信ネットワークを媒介とした暴力の発現形態の意である。世界の現実の表面はこの力によって精査され、塗り固められて、私たちの経験を規定し始めている。この暴力は、「出来事が生起した時間を全人類が共有する」という抑圧的な同時性の概念の了解のもとに、世界の現実を収奪する。しかも、人間の社会・文化空間を均質的に占拠しようとするこの暴力は、「報道」という領域をはるかに超えてすでに広範な社会空間に浸透してもいる。たとえば、自爆テロへの報復としてアメリカによるアフガニスタンへの空爆が本格化した2001年10月半ば過ぎ、一つの情報が伝えられていた。(それ自体テロ攻撃のターゲットとなった)アメリカ国防総省が、スペース・イメージング社の商業衛星イコノスのアフガン上空写真を、空爆開始以前に遡ってすべて買い占めたというのである。当時、ジャララバード近郊で誤爆による一般市民の犠牲が伝えられた矢先のこの出来事は、「衛星的暴力」が向けられる一つの社会領域をみごとに示した。地上に横たわる死体の影一つ一つを明晰に映し出すほどの解像度を備えた衛星からの詳細な地球映像が瞬時に入手可能となった現実は、そうした情報を誰が独占し、最終的に「世界」の像を誰が編集・管理・発信するかにかかわる権力闘争を、いやでもひきおこすからだ。これは、自らの軍事的行為の人道的逸脱を隠蔽する国家工作であるばかりでなく、衛星的な暴力によって現実が構成されてゆくという事実じたいを国家の行為が追認・証明している、という点できわめて現代的な出来事であったといえる。1)
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2.災厄の隙間の真空

 言説と表象の流通と現実創造に関わる世界同時性を保証するメディア・テクノロジー環境が技術的・文化的に完成したのはごく近年であるにしても、戦争や破壊のリアリティがすでに人間的経験の身体的位相をはるかに超えるものに変容していた事態は、20世紀半ば、第二次世界大戦期に亡命生活を送っていた一人の洞察力にすぐれた知識人によってすでに直感されていた。テオドール・W・アドルノの『ミニマ・モラリア』における「戦火を遠くに見て」と題された断章は、現代社会のようなマスメディアの衛星的即時性が実現されていないときに、戦乱の世界像がいかにして日常世界にもたらされ、それがどのような「現実」として感知されうるのかを批判的に考察する深い思考の軌跡を伝えている。アドルノはここで、空襲の報道のなかで飛行機を製作した会社の名がかならず言及されるという事実を例示しながら、産業・国家・宣伝の三者が一体となって、戦争を政治・経済的利害関係の場へと牽引してゆく事態に警鐘を鳴らしている。そして、もはや戦争が人間の肉体を投下する物量戦からはるかに機械的な形式へと変容したことを論じつつ、次のように述べている。

 第二次世界大戦はすでに完全に経験の埒外にある。(・・・)連続性や歴史や「叙事的」な要素を含まぬこの戦争は、新しい段階に入るたびに振り出しに戻るようなことを繰り返しているのだが、それと同じ理由から、戦いが終わったのちも、無意識に貯えられた確かな追憶の像をあとに残さぬのではないかと思われる。人間には刺激を防ぐ防護膜のようなものがあり、それに保護されて健全な忘却と健全な想起の間に持続が保たれ、経験が形づくられるのだが、戦火に伴う爆発の度ごとに随所でこの膜が破られてしまうのだ。生の様相はいつ果てるとも知らないショックの連続になり変ったのであり、ショックの合間には麻痺した空隙が大きく口を開いているのである。2)

 ここでアドルノが焦点をあてるのは、「戦争」という軍事行為を遂行する主体にとっての戦争概念やその物理的形式の変容ではなく、むしろ人間が戦争を経験することのメディア的な回路が決定的に変質したという側面である。現実の戦争が情報や宣伝や解説によって完全に隠蔽され、メディアを通じた表象と言説の総体として人間の現実感覚を占拠したのである。ここでアドルノがいう「爆発」とは、その意味で、むしろ日常空間へ侵入したニュースメディアという爆弾の炸裂のことであり、人間の経験の自然なリズムを破る報道の連鎖的爆発のショックが、経験を健全な記憶へと定着させる人間の意識(=「防護膜」)を麻痺させる。メディアを媒介に現実化したショックが現実を改変し、そうして更新された現実を日常意識の深みから精査しようとするまもなく、次のショックがメディアを介して運ばれてくる・・・。アドルノはさらにこうつづけている。

 戦闘中の戦車にニュース映画のカメラマンが乗り込んだり、特派員が最前線で戦死するという事実、操作誘導された世論と無意識の行動がごったになっているという現象、こうしたすべては経験の枯渇の形を変えた現れにほかならない。それを人間と人間を襲う災厄の間にひらいた真空の現れといってもいいが、この真空にこそまさに災厄の災厄たる所以がひそんでいるのである。いわば出来事の物化され凝固した写しが出来事自体に取って代わるのだ。人間そのものは巨大な記録映画の出演者になり下がり、しかも最後の一人にいたるまでスクリーンの上に駆り出されているために、この映画には観客というものがいない。3)

 メディアによって生みだされる現実の「写し」が出来事に取って代わり、その巨大画像のなかに地球上のすべての人間が動員されてゆく。主人公として、英雄として、あるいは敵役として、さらに無数のエキストラとして・・・。一人の覚醒した観衆をも許さない、メディア的暴力の発動をささえる自動化され矮小化されたこの想像力の短絡。アドルノの警鐘は、そのままツインビルの崩壊によって麻痺した現代人の意識の真空を照らしだす。自爆テロはハリウッドの外敵侵入アクション映画でいくたびも繰り返された紋切り型の破壊シーンへと人間の視覚的想像力を横滑りさせ、そのことによって、かえって機中に乗り込んで敵と戦い勝利するはずのアメリカと世界のヒロイックな「救世主」(シルヴェスター・スタローンであれブルース・ウィリスであれ)が不在であったことを現実に突きつけた。この英雄の不在こそ、アメリカがいまだに決して認めたくない、敗北の証である。報復は、事後的な「英雄の創造行為」にすぎない。だが重要なのは、多くのアメリカ国民のメディア的幻想の共有が、英雄がつねにハイジャック機に乗り込んで国民を救ってくれるという集合的無意識の水準にまで達していた、という事実であるだろう。そして、この幻想が浸透する世界の領土は広がっており、それが世界同時性に支えられたメディア的現実として、私たちの経験と意識の健全な階層を破壊し、麻痺させているのである。

 衛星的暴力を切り裂く批評的言説の拠点を見いだすことは容易ではない。だがそれは最終的には、第三者による社会的な言説空間のどこかにではなく、自らの内に探り当てるべきものである。世界同時性の抑圧に抵抗する固有の時間と場を、一人一人が自己意識の内奥に見いだすことではじめて、私たちの社会的言説がふたたび批判として組織される端緒もまたつくりだされる。リトアニア系移民の農民の子としてアメリカに生まれた特異な哲学者アルフォンソ・リンギスが、たとえばバリ島のビーチリゾートで書きつけた次のような断章のなかに、衛星的暴力の地球的浸透を自覚しながら、その権力のはざまに見いだされた意識の内奥の極小空間から、メディアに対抗する意識の拠点をつくりだしてゆこうとする意思を読みとることができる。

 バリ島のクタの正午、赤道直下、海抜ゼロ・メートル。これではまるで攻撃目標の座標設定のように聞こえる。大洋の上いっぱいに、空が燃え上がっている。空の青い蜃気楼に隠された人工衛星の中のロボットたちが、この惑星上のすべての動きを監視している。ビキニ環礁での15メガトンの原子爆弾の爆発のあとでは、345マイル離れたところでも、小動物たちの網膜が焼けているのが発見された。
 ぼくはシェルターを求めて、一本のガジュマルの樹に向かう。四方にひろがるその根が、露出した岩石のように砂丘を鷲づかみにしている。白い砂、波にこなごなにされた珊瑚虫の骨が、ぼくの脚の毛のしげみできらめいている。(・・・)数字と災厄でいっぱいの破れ変色した新聞紙が、波が砂の上に送ってくる熱風に舞い、砂丘を一気にかけのぼり、ついで責め苛まれた悪霊のようにぐったりと崩れ落ちる。4)
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3.政治言語の氾濫と横滑り

 9月11日の出来事に直面し、大統領としてブッシュが最初に行った演説のTV中継を、衛星画像を通じて世界中の人が注視した。この演説のなかに登場した一つの特別の形容詞を、世界同時性の領土に投げ込まれた徴つきの言葉として論ずることは可能かもしれない。「きょう、国民的な悲劇がおこった」と切り出したブッシュは、ツインビルに旅客機もろとも激突したテロリストの名も素性も同定することなく、それを「卑劣な=臆病な」(cowardly)攻撃であると断定し、それらの憶病者にたいするアメリカ政府の毅然たる報復の意志を演説全体にみなぎらせたのだった。

 この瞬間、「cowardly attack」という形容詞によって形容された「卑劣」で「臆病」な「敵」が生みだされた。アメリカ全土に、そしておそらく世界中に。この表現をブッシュの第一声のなかに聴き取った私は、瞬時にもう一つの近似した形容詞によって修飾されたアメリカのかつての敵を想起せざるを得なかった。いうまでもなく、真珠湾攻撃を「sneak attack」と指弾された日本人である。Sneakという形容詞は、いうまでもなく「こそこそした卑劣な」という意味を持つ侮蔑的な強い言葉である。この形容詞は、それが使われた直後から、真珠湾攻撃だけでなく日本人の性癖や性格そのものへの一般的な偏見をうみだす概念として強力な比喩効果を持ったことはよく知られている(それは潜在的には現在まで続いている)。今回のブッシュの第一声のなかで語られたcowardlyという形容詞は、その意味でsneakのたんなる言い換えに過ぎない。すでに歴史化されて特定の「敵」を名指すために留保されてしまったsneakという概念に代わって、ブッシュがあらたにさぐりあてた類義語がcowardlyであった、ということなのだ。テロリストを糾弾するために感情に任せて放たれるこうした安直な形容詞が、潜在的に発言者の差別意識を露呈していることはいうまでもない。どれほどテロリストの行為が許されざるものであろうと、形容詞の安易な使用は事態の意味を一元的に回収して終わる。そして結果として「アラブ人」は臆病で卑劣である、という集合無意識が社会全体にひたひたと満ち始める。事件直後、アメリカ在住のアラブ系住民が攻撃と差別の対象になったことがしばしば報道された。そうした動きを憂慮し、カリフォルニアの日系人のグループを中心に、異民族の強制収容という愚行を繰り返すなというデモがただちに組織されたことも伝えられた。Cowardlyという言葉が、真珠湾攻撃を形容した言語的記憶を媒介に、ただちに日系アメリカ人の抑圧の記憶を呼び覚ましたことを、この事実は如実に示している。政治言語が世界同時性のディスコースに投げ出されるということは、こうした歴史と記憶の表層的な氾濫をも意味していることになる。

 ブッシュによるcowardlyという形容詞の不用意な使用にたいし、メディアを通じてただちに反応したのは、現代アメリカにおけるもっとも鋭敏な批評家の一人スーザン・ソンターグであった。彼女の批判は、自らの帰属する国家の権力者にたいして、これ以上考えられないほど厳しいものであった。事件後一週間もたたず速やかに書かれ、『ニューヨーカー』誌(9月24日号、9月17日発売)のコラム「Talk of the Town」に掲載された無題の短い文章のなかで、ソンターグは9月11日の出来事を「現実の怪物的な投与」と呼び、出来事の苛烈なリアリティと、政治家やTVコメンテーターの繰り返す欺瞞的な戯事と言語的独善とのあいだの、驚くべき乖離を嘆きながら、次のように書いている。

 この事件が、「文明」や「自由」や「人間性」や「自由世界」にたいする「卑劣な」攻撃などではなく、自ら世界唯一の超大国とうそぶく国家への攻撃であり、アメリカがこれまで築き上げてきた同盟関係や行動の結果としてもたらされたものであるということを、みな忘れてしまったのだろうか? いったい何人の市民が、アメリカが現在もイラクへの空爆をつづけていることを知っているのだろうか?
 そして、もし「卑劣な」(cowardly)という言葉を使うのであれば、他人を殺すために自ら進んで命を捨てる人々にたいしてではなく、報復を受ける恐れのない上空高いところから殺戮を繰り返す人々にたいして使うほうが、はるかにふさわしいかもしれない。この言葉が、道徳的に中立な価値としての「勇気」の問題であるなら、火曜日の虐殺の実行者をどのように呼ぶにせよ、彼らはけっして「臆病者」(cowards)ではなかった。5)

 ブッシュの事件後第一声にあった「cowardly」という言葉に批判的主張の焦点を合わせた、自国の政府にたいするなんとも厳格で根底的な批判である。テロリストよりもアメリカ軍をより憶病者と断ずるかのようなこの発言によって、ソンターグほどの認知された第一級の知識人ですら、マスメディアや批評界の集中攻撃を免れえなかった。売国奴、非国民となじられ、体制に批判的でリベラル派とみなされていたはずの評論家たちも、つぎつぎと彼女に非難を浴びせた。だがいうまでもなく、ソンターグはここで権力者の資質を臆病と決めつけるような、人格的攻撃を行っているわけではなかった。大統領によるcowardlyという強い日常語の非歴史的・反倫理的使用が、メディア空間を一気に席巻し、味方(自己としてのアメリカ人)の正当性を確認し、敵(他者としてのイスラム)の否定的な差別化を促進させる「政治言語」としてまさに世界同時的に流通してゆく単純な二極分化の暴力を、ソンターグは正しく難じたにすぎない。そのために、彼女がブッシュによる「臆病者」という語彙の修辞的な差別効果を逆手にとってアメリカの軍事的態度を非難したことは、彼女の深い絶望と怒りの表明としても、理解できる。それは修辞的な挑発でもあったからである。だが人々は、すでにこの「cowardly」という政治言語のレトリック効果を相対的に受容することができなかった。ソンターグを指弾した人々は、まさにこの語彙を、文字通り、自らと自らの国家の尊厳を否定する、最大級の侮辱の言葉として受け取ることしかできなかったのである。

 一方で、TVというより大衆的なメディアにおいて、ソンターグの発言と表面的にはうり二つの意見が、ほぼ時をおなじくして発せられていた。9月17日深夜に生放映されたABCテレビのトーク番組「Politically Incorrect」において、コメンテーターとして登場したビル・メイハーは、質問者のやや挑発的な問いに、こう答えたのだ。

 「しかし、私たちこそ臆病だった。2000マイルの彼方から巡航ミサイルを発射すること、これは卑怯ではないか。高層ビルに激突する飛行機のなかにとどまっていること、これはけっして憶病者のすることではない」 6)

 字義通りにとれば、たしかに公共放送を通じて日常空間に投げ出される言葉として、文脈を欠いた危うい内容ではある。だがそもそも、このトークショーの行われた枠組みが、「政治的に正しくない」という風刺的なタイトルを与えられた、コメンテーターたちの毒舌で人気を博す、大衆的深夜番組であったことを考えれば、その文脈においてメイハーの挑発的な言辞がとてつもなく不穏当であったとも思われない。むしろ製作者も視聴者も、この深夜番組を通じて、社会の公正性や正論を気取る言説が「政治的に正しい」(Politically Correct)態度をかたくなに守ることで陥るとりすました硬直を、混ぜっ返し、笑い飛ばす批判意識を日常空間に確保してきたはずなのだった。メイハーは、大衆が共有するそうした「批評の日常的構造」のコードに即して、上記のコメントをおそらく発したにすぎない。だが、結果としてこの発言を許容する背景を、瞬時に愛国主義に燃えた国家とその国民は、すでにまったく失っていた。メイハーのTV発言は、ただちに視聴者の怒りを呼び、数万件ともいわれる抗議電話がABCテレビに襲いかかった。番組のスポンサーであったシアーズ社(巨大百貨店チェーン)とフェデラルエクスプレス社(宅配業の最大手)はただちに番組からの撤退を表明した。ABCテレビを所有する親会社であるディズニー社の社長も、メイハーの発言を支持しない旨の異例の声明を発表し、TV番組での失態が、親会社の本業である映画の興業成績やテーマパークの経営に響かないよう布石を打った。こうして番組は翌日から一時休止されることになったのである。

 2日後、メイハーは公に謝罪することを余儀なくされた。発言が舌足らずであったことをわび、アメリカ国家の勇気ある行動にたいする全面的な支持を表明した。彼が発言を取り下げることで、メディア空間をつらぬく一元化されたコンフォーミズムの「意志」は貫徹された。深夜の毒舌トークショーとは、所詮その程度の、疑似的な批評意識をコマーシャリズムの後ろ盾によりながら拡散させるだけの装置に過ぎなかったことが、あらためて露呈した。こうして世界同時性のもとに統合されたメディアの抑圧は、ジョークの文化批評としての本質をあっさりと扼殺するのである。

 ひるがえって、ふたたびソンターグである。彼女のコラムの趣旨が一見いかにメイハーの発言と類似していようと、この二者の批判的言説が立ち上がる言語意識の水準がまったく異なることを見逃してはならない。なによりもまず、ソンターグはいかなる誹謗中傷にあおうとも、圧力に屈して発言を撤回したりはしない。パブリックなメディアを通じて撤回してすむような予定調和的な公共性の地点から、そもそも彼女の言語は発せられてはいないからだ。ソンターグの、この強いノン・コンフォーミスティックな意志に貫かれた文章を『ニューヨーカー』誌上で読んだとき、ただちにもう一人の強靱な女性の論客の像が、私の脳裏をとらえた。ナチの迫害を逃れて1941年にニューヨークに渡ってきたユダヤ系の政治哲学者ハンナ・アーレントである。ニューヨークの知的環境に加わった彼女は、『パーティザン・レヴュー』誌と『ニューヨーカー』誌を主な執筆媒体として、全体主義をめぐる根源的な批評活動と理論的な著作活動を展開していった。アーレントの「イェルサレムのアイヒマン」が最初に掲載されたのは1963年の『ニューヨーカー』誌であり、ホロコーストに直面したユダヤ人の無抵抗に疑問を投げ掛けたこの文章は大いなる論争をまき起こした。まさにこの『ニューヨーカー』誌の論考がもとで、アーレントは多くの知識人からの厳しい攻撃にさらされることにもなったのである。

 カリフォルニアでの学生時代から、アーレントのニューヨークでの仕事を同時代的に吸収し、1959年にはそのニューヨークに定着して本格的な創作・批評活動を始めたソンターグにとって、アーレントの特別に論争的なポジションはつねに発言者としての一つの究極のモデルでもあった。学問的・批評的言説が社会に流通するときの錯綜した政治学のなかで、体制順応的な構造が批評の言語のなかに巣くう危険性をもっとも自覚的に回避しようとする態度が、アーレントをとりわけ論争的な場に誘い出した。その系譜は、まちがいなくいまソンターグに引き継がれているように思われる。そしてそのことを私にただちに確信させたのが、ソンターグの短い、しかし激烈な『ニューヨーカー』誌のコラムだったのである。

 しかも、ソンターグの文章が掲載されたコラムの歴史が、一つの興味深い論点を示唆している。この文章が載った「Talk of the Town」というコラムは、1925年の『ニューヨーカー』誌の創刊直後から続く古いコラム欄で、ここにはダイナミックに活動する街に題材を求めた断章的ルポルタージュの数々とともに、悪意のない冗談や大衆的風刺の掌編が継続的に掲載されてきたことで知られている。その意味で、いわばこの欄は、『ニューヨーカー』誌における「政治的に正しくない」批評空間を保持する、一つの装置であったことになる。それは、雑誌のけっして中心的な論説を代表するものではなかった。だがむしろこうした小さなコラムにおいて、ニューヨークの文化的・文学的エスタブリッシュメントは、そのジェンティール(品のいい、常識的な、ときに偽善的)なリベラリズムを表明してきたのだった。この欄は、雑誌の公共メディアとしての包容力と寛容性を公式に保証する、多様性の避難所であったことになる。だがいうまでもなく、ある時点で、それは言論とメディアの制度のなかで割り当てられた、保留地としての避難所に過ぎなくなっていた。この構造は、ABCテレビにおける深夜番組の枠組みと、ある意味で見事な対応を示すものでもある。

 そう考えたとき、ソンターグの短文が、伝統的にジェンティールなメディア機能をすでにはるかに超える、とてつもないラジカルな批評意識によって裏打ちされていることは明白である。いかなる編集的いきさつによって、この短い文章が「Talk of the Town」の一編として掲載されたかは知らないが、ここには言論メディアそのものの予定調和的な自動回路を食い破ろうとする、言語と思考の渇望が感じ取れる。そしてそれこそが、憶病者と国家をなじられた怒り以上に、おおくの人々の怒りの無意識を刺激する部分である。メディアの同時性の幻想が破綻する場にめがけて振り下ろされた言語の舌鋒を、社会は許しがたい裏切りとして抑圧した。Cowardlyという政治言語の本質的な浸透力を批判的に議論すべき地平を、いまのアメリカ社会は喪失したままである。
 いまや全米のすべての知識人を敵にまわして孤立するかのごときソンターグの立場は、しかしメディア言説の自動回路から身を引き離そうとする知識人のもっとも誠実で果敢な意志を証明しているのである。
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4.廃墟の歴史哲学

 Cowardlyという形容詞によって特徴づけられた第一声後も、ブッシュとアメリカ政府による政治言語の横滑りはつづいた。テロリズムにたいする本土防衛措置は勇ましくも"Noble Eagle"(「崇高な鷲」)と名づけられた。アフガニスタンでの対テロ軍事行動作戦は最初"Infinite justice"(「無限の正義」)と命名されたが、アメリカのイスラム教関係者からそれが神(アッラー)にのみ属する正義を含意していると指摘されると、9月26日にはただちに作戦名を"Enduring Freedom"(「不屈の自由」)へと変更した。この報復戦争が、「正義」と「自由」への戦いであるというメッセージが瞬時に世界を覆い尽くし、同盟国はこぞってブッシュの決断を支持し、程度の差こそあれ、できる限りの政治的・軍事的支援を約束した。アメリカは「偉大」(great)であり、何者にも屈しない「最強」(too strong)国家であり、アメリカ人は誰からも憎まれるはずのない「善良」(good)な国民である、といった文言が臆面もなく大統領の口から日々メディアを通じて発信された。ブッシュの政治言語は通俗性をも取り込んでさらに横滑りの度合いを高めてゆく。あまりに軽薄すぎるとして一部の顰蹙を買った、オサマ・ビンラディンにたいする「指名手配。生死不問」(Wanted. Dead or Alive)という西部劇映画からの引用も、ある意味で、ハリウッド的な映像の無意識をこのテロ事件全体が引きずりつづけていることを、逆にみごとに証明した。アメリカにとっての集合的「他者」(=敵)の捏造は、1920年代の初期西部劇映画における「インディアン」や「メキシコ系の悪漢」(グリーザー)の造形からはじまっているからである。

 こうした無垢を装う政治言語の氾濫は、乱舞する星条旗やこだまする「ゴッド・ブレス・アメリカ」の歌声とともに、編集され一元化されたニュース映像のイメージと合体し、市民の文化空間を均質的に占拠していった。追随するにせよ、批判するにせよ、もはや私たちは、このメディア的な世界同時性のオブセッションを逃れた地点で思考することが、きわめて困難になっている。世界を占有する「現実」が、メディアの同時性によって瞬時に更新されつづけていることを思考の起点に据えるかぎり、ある意味で私たちの批評の水準は、はじめから一元化された「世界性」の領土を超え出ることができない。この出来事に関するかぎり、ジャーナリズムの報道も、専門家の未来予測も、アカデミックな批判も、すべて共有された世界性の領土から発せられていることによって、不毛な反復と堂々めぐりを余儀なくされている。世界同時性への強迫観念だけが、そこに生々しく放り出されている。

 だが、メディアが差し出す紋切り型の言葉を脱領域化し、それに新たな歴史的遠近法を与えなおす可能性は残されている。例えば、世界貿易センターのツインビル崩壊のあとに堆く積まれた瓦礫を、メディアはまもなく一つの語彙を使って呼びはじめた。「Ground Zero」すなわち「爆心地」という言葉によってである。この意外な言葉の浮上に興奮しながら、マンハッタンの中心に出現した「グラウンド・ゼロ」の無数の映像を、私は一時期収集することに熱中した。インターネットを通じて探索してゆけば、報道機関やフリー・ジャーナリストによるグラウンド・ゼロの映像は、一日に数百枚の単位で入手することができた。註7)そうしたなかには、ツインビルの崩壊で今回命を失ったただ一人の職業的報道カメラマンであるビル・ビガードの遺体の傍らで発見された焼け焦げたディジタルカメラのコンパクト・フラッシュ・メモリーから救い出された、まさに瓦礫となって消え去る数秒前のツインタワーの最後の姿が、現在のグラウンド・ゼロ地点から見上げる角度で撮影された痛ましい写真も含まれていた。私はこれらの廃墟と化したニューヨーク都心部の映像を一つ一つ点検しながら、アメリカ人がこの光景を「グラウンド・ゼロ」と呼ぶに至る軌跡の必然性を歴史的に透視する道筋はないだろうかと、考えていたのだった。いわば私は、瓦礫の光景のなかに、同時代を照らしだす「現在」の表象ではなく、過去と未来を結ぶ歴史のありうべき隘路を探しだそうとしていたのである。

 グラウンド・ゼロは、爆弾の、とりわけ原水爆の投下によってうまれる壊滅した爆心地をさす言葉として使われるという点で、その意味論においてある限定性を持った語彙である。そしてこの概念は、大文字で記せば、ほぼまちがいなく、戦争による世界で唯一の核爆弾の被爆地であるヒロシマ、ナガサキの爆心地を含意する、アメリカにとっても特別の歴史的語彙であった。しかし、ある意味でグラウンド・ゼロの光景は、アメリカ一般大衆の想像力においてはタブーの領域に追いやられてきた。グラウンド・ゼロにひろがる地上の廃墟にリアリティを見いだす感受性は、そのままアメリカの原爆投下と戦争終結をめぐる英雄的な公的記憶をゆるがす可能性を胚胎していたからである。

 これに関し、ひとつのよく知られた事例がある。1995年、太平洋戦争終結50年の年にむけて、ワシントンのスミソニアン国立航空宇宙博物館は「分岐点:第二次大戦の終結、原爆と冷戦の起源」と題する大規模な展示を計画していた。戦略爆撃機B-29「エノラ・ゲイ」の展示が企画の一つの焦点ではあったが、この企画はきわめて論争的・挑戦的な企画でもあった。なぜならそれはアメリカの国立博物館ではじめて、広島と長崎のグラウンド・ゼロ地点から収集された原爆の遺物を広範に展示する部分を含んでいたからである。たとえば広島市は、その収集品のなかから有名な「焼け焦げた弁当箱」を、一般の人々が原爆の犠牲になった象徴として、スミソニアンの展示のために貸与することを決めていた。「焼け焦げた弁当箱」が示す視点は、およそ一般のアメリカ人が公式的には想像したことのない、原爆犠牲の爆心地における悲劇的なリアリティを伝えるものであった。原爆投下のイメージを、つねに上空を飛ぶ爆撃機 B-29の視線からキノコ雲の写真とともに想像することしか知らなかった一般のアメリカ人にとって、グラウンド・ゼロの遺品と映像は、視覚的な啓示となるはずであった。

 当時のアメリカ歴史学界では、戦争終結をめぐる従来の英雄的な歴史観に問いを投げ掛ける新たな実証研究が現われはじめていた。この状況を受けとめて、スミソニアンの冒険的な企画は、アメリカ人一般に原爆をめぐる歴史を見直し、広島・長崎において本当に何が起こったのかを問いかけるためのさまざまな手がかりを与えることをめざしていたのである。広島・長崎からの映像や遺品の貸与によって構成されるこの展示コーナーは、企画書では文字通り「Ground Zero」と名づけられる予定であった。しかしすでによく知られているように、1995年1月30日、長い議論の末に、航空宇宙博物館を運営する最高意思決定機関であるスミソニアン協会理事会(そこにはアメリカ副大統領も含まれていた)は、最終的にこの企画が偏見にみちたものであり、日本の当時の軍政にたいしてあまりにも同情的でありすぎるという理由で、展示の事実上の中止を決定した。この決定の背後には、明らかにアメリカン・リージョンを中心とする全米の退役軍人組織の強力なロビー活動があった。来場者の感情に訴えるようなグラウンド・ゼロ・レヴェルでの写真や遺品の展示にたいし強く反対し、上空3万フィートの英雄的な視点を維持したかった国家としてのアメリカの意思が、この決定には見事に反映されていたというべきだろう。結局最終的には、航空宇宙博物館の企画展はエノラ・ゲイ単独の展示に落ち着いた。歴史を新たに問いかける機会を押しつぶし、この英雄的な爆撃機のイメージだけをスペクタクルとして消費することで、アメリカの公的な記憶は傷つくことなく温存されたというわけである。

 こうしたごく近年の事例にも示されているように、グラウンド・ゼロはアメリカの公的な歴史の風景としては、現実に呼びだされたことはなかった。戦後、21カ国ともいわれる第三世界の諸地域で空爆を繰り返してきたアメリカは、自国の領土を一度も戦火にさらすことなく、つねに敵国の上空から爆撃し立ち去る軍事力を保持することで、グラウンド・ゼロの廃墟の光景を衛星中継される報道番組のTV映像のなかにだけ囲い込むことに成功してきたのである。だがまさにニューヨークに聳えるアメリカ資本主義の象徴ともいうべきツインタワーの崩壊が、そうしたアメリカ人の歴史的眼差しの過去に解体を迫った。その意味で、これはアメリカ人の日常性のまえにはじめて出現した廃墟の「風景」(ランドスケープ)であり、そのことによってアメリカ人の想像力の内部にはじめて現象した廃墟の「情景」(マインドスケープ)でもあった。「グラウンド・ゼロ」という呼称のアメリカ的浸透は、この風景と情景の複合体が、ボスニアやアフリカやアラブや中南米世界に遍在する「廃墟」とアメリカの核心部とをついに結んだ、という事態を意味していたことになる。

 ここから生まれる認識は、アメリカの「悲劇」を第三世界の戦乱と貧困の悲劇に直接結びつけるような安易な感情移入の意識ではない。あるいはまた、アメリカ人が、第三世界的な戦争廃墟の自国のテリトリーへの突然の露出によって「現実」に目覚めた、というような状況論的な視点でもない。廃墟の光景が世界をついに一巡することで、私たちはかえって、廃墟を生みだした現実の政治的対立の構図を超えた、「廃墟」というもの自体の存在論的な意味について考えることを促される。サラエヴォと神戸とチチェンとアフガニスタンとニューヨークとを結ぶ「廃墟」は、その政治的、社会的あるいは地質学的背景のいかんにかかわらず、現代世界に遍在する瓦礫の風景=情景として、破壊行為そのものの還元力を暗示するからだ。瓦礫は、破壊者と被破壊者との利害関係や敵対関係をあぶり出す以上に、両者がともに「現在」を突進する時の同時性の現象として理解することによって生まれる「世界」という構築物を、その端緒へと引き戻す。瓦礫=廃墟は、破壊者と被破壊者とを、ともに自らの根源の開示へと促すのだ。この、人間の意識の端緒へとものごとを還元する力において、現代の廃墟は決定的な意味を持っている。マンハッタンに出現したグラウンド・ゼロの廃墟が、悲劇を一般化するメディアの世界同時性のトリックへと収奪されるまえに、私たちが思考しなければならないのはまさにこの点なのである。

 同時的な出来事の連鎖としてメディア的に受容された「瓦礫」や「廃墟」のイメージがけっして到達することのできない、破壊と瓦礫をめぐる深遠な歴史哲学を暗示的な文体によって示したのがヴァルター・ベンヤミンの「破壊的性格」(1931、『フランクフルト新聞』掲載)という文章である。自画像ともブレヒト論ともつかぬこの謎めいた掌編は、しかしニューヨークの瓦礫を前にして驚くべき寓意の力を秘めているように私には思われた。私のマンハッタンのグラウンド・ゼロの映像の収集行為も、もっぱら映像とこのベンヤミンの文章とを突き合わせて考えたいという衝動によって促された作業だったともいえる。

 ベンヤミンは「破壊的性格」の冒頭で、世界は破壊されるに値するか、という根源的な問いを提示することからはじめる。破壊的性格とは、まさに世界が破壊されるに値するということを、存在するものすべてをひとしなみにくくる大きな絆であると認識した者が持つ、晴れやかな意志のことである。言葉を替えれば、それは「現実」の予定調和的な存続をけっして信じない、まさに反メディア的な現実感覚である。その意味では、破壊的性格とは現実的であるよりはより歴史的な人間の謂である。ベンヤミンはこう書いている。

 破壊的性格は、歴史的な人間という自覚をもっている。歴史的な人間の基本的心情は、事物の成り行きにたいするやみがたい不信であって、いつでも、何もかもだめになるかもしれぬ、ということに周到に入念な注意を払っている。8)

 同時性の現象にメディアを通じて飛びつき、その「現実」への共有感覚を武器に自らの表現を急ごうとする現代の多くのメディア化された表現者と違い、ベンヤミンは歴史に遡っていまの由来を問いかける可能性のほうに、より細心の注意を払う。瓦礫はそのための根源的な地図であって、けっして破壊そのものの悲劇を感情的・知的に煽り立てる認識の起点ではない。物事の成り行きがいままさにメディアに依存した世界同時性の感覚をつうじて理解されているとするならば、物事の成り行きへのやみがたい不信とは、まず世界同時性を促進するメディアの構造への不信からはじまらねばならないだろう。そのとき、私たちは世界貿易センターの瓦礫の光景から何を見いだすことになるのだろうか。ベンヤミンはつづけてこう書いている。

破壊的性格は、何ものをも持続的とは見ない。しかし、それゆえにこそかれには、いたるところに道が見える。ほかのひとびとが壁や山岳につきあたるところでも、かれは道を見いだす。だが、いたるところに道が見えるので、いたるところで道の邪魔者を片づけねばならぬ、ということにもなる。といっても、粗暴な力を振るうとは限らず、ときには洗練された力を用いる。また、いたるところに道が見えるので、かれ自身はつねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるのか、分からない。既成のものをかれは瓦礫に返してしまうが、目的は瓦礫ではなくて、瓦礫のなかを縫う道なのだ。9)

 グラウンド・ゼロの廃墟は、いまや人間にとって現代的暴力と戦争の帰結としてそこにあるというよりは、むしろ歴史を端緒へとひき戻したあとの国境線なき白地図として、そこにある。私たちがいま、「読む」ことを求められているのは、アフガンや中東やグローバリゼーションの構図をめぐる「世界」の存続の幻影に寄りかかった未来予測的な「地政学」的地図ではなく、すべてが端緒へと還元されたときの知性と想像力の瓦礫のなかを縫う新たな道を見いだすための白地図なのではないか。ニューヨークに出現した新たなグラウンド・ゼロをめぐる言説と映像は、そのように語ることで、私のなかの世界同時性の感覚に強く相対化を迫るのである。
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5.災厄の抵抗的上演   「暴動のあとの愛」をめぐって

 一部の、しかしけっして例外的ではない多くのアメリカ在住者にとって、世界貿易センタービルの破壊現場の映像は、ただちにもう一つの、それより9年前にアメリカの大都市に出現した廃墟の映像的記憶をいやでもかき立てるものとして映った。それが、1992年4月29日のいわゆる「ロサンジェルス暴動」である。黒人への警察権力の人種差別的横暴にたいするエスニックな反乱として始まり、ただちにそれを超える社会的・文化的抵抗と摩擦の所在を明示することになったこの「暴動」とそれによって焼き尽くされたダウンタウン・ロサンジェルスの街区の映像は、人々に「破壊」と「瓦礫」のメディア映像を通じて「現在」を露出させたという意味で、2001年9月11日のニューヨークの出来事にさまざまな点で似ていた。

 もちろん、二つの出来事そのものの文化的・社会的・政治的背景はまったく異なっている。ロサンジェルス暴動の方は、ある意味で、全米でこれまで何度となく繰り返されてきた人種間抗争をめぐる都市暴動の系譜に直接連なるものであり、国際的なテロ組織と国家とが対峙するいまの構図とは共通点を見つけることが難しい。だが、少なくともメディア的なスペクタクルとして見たとき、この二者は、どちらもアメリカ人をはじめ世界中の人々に「現実」の暴力的発現形態を即時的に伝える破壊の光景として、現実を構成する社会・文化的表象という同じカテゴリーに属する「事件」であった。すでに9年前、「暴動」という言葉と息せききったコメンタリーが、夜空を旋回するヘリコプターや、略奪する住民、そして焼き打ちにあって赤く燃え上がる商店街といった扇動的な映像とともに世界を駆け巡ったのだった。

 しかしこの暴動の瞬間に、同じロサンジェルスにいながら、そうしたメディアの暴力的な席巻に背を向けて、一人の詩人が驚くべき作品を書き上げていたことを、私たちはのちに知ることになった。ファン・フェリーペ・エレーラの瞠目すべき長編詩『暴動のあとの愛』(1996)註10)がそれである。一人のチカーノ(メキシコ系アメリカ人)の詩人が英語で一気に書きとめたかのように見えるこの詩は、「事件」の現実的/メディア的推移を日常の皮膚感覚で受けとめつつ、なおも、現実からの一種の「ディタッチメント」(離脱)を強行することによって、押し寄せるリアリティの同時性にたいする強迫観念から逃れて、主体固有の批判的な文化的時空間を死守しようとする、表現者のぎりぎりの探求のように思われる。

 「事件」のはじまりは、詩人にとって、自分が住む大都市の下町の現実の変容と、メディアの伝える映像や音声との、二重の兆候として察知される。「暴動」がはじまった木曜日の夜7時30分から、ほとんど分刻みの時刻によってタイトルを与えられた54編の詩の断章が、翌朝6時01分の時刻を持つ最終章まで、まるで近未来映画を悪夢の彼方に透視するようなスピード感のなかで、流れてゆく。詩はこうはじまる。

7:30 pm / Thursday

Below the helicopter, running from the system.
Leaving L.A. Going with these whipping blades,
Pulling over my face. They swarm into me,(ノノ)

Riot buildings held in orgasm,
circular wrestling, efficiencies
with our thighs that splash

Waters of cinnamon guns;
this thiefユs oboe.

This new world
mechanical bedroom in the center of Ave.X
-----outside, yes, there is
chalkdust & eighteen wheelers on fire.


木曜日 午後7時30分

ヘリコプターの下、体制から逃げまどう。
ロサンジェルスを離れ、この鞭打つような刃とともにさまよう、
それは私の顔に巻きつき、群れをなして私に迫る(・・・)

恍惚のなかでもちこたえる暴動のビル
円形の格闘のなかで、簡易アパート群
われわれの太ももがはね上げる

シナモンの銃の水しぶき
この泥棒のオーボエ

この新世界
X街のただなかの機械的ベッドルーム
---そして、そう、外には
白亜の埃と燃え上がる18台の車輌。


 だが、こうした光景は、「考えられないこと」が生起したという事態の火急性の認識によって詩人を押しつぶしながら、出来事への現実的介入(だがいまや、メディアに媒介されない「介入」がありうるだろうか)ではなく、「暴動」という事態を声高に告げる集団的な悪魔を祓う個人の逃避的な儀礼へと、詩人を押し出してゆく。こうして詩は、作者の分身であるピナルとその愛人マルガとの、日常のミニマルな時空間を渡り歩く、決死の冒険行となる。


7時35分

マルガ・マリリン ブロンドのメキシコ女 
酔っ払い、私のローライフレックスを抱えて
モロトフのグラスを投げつける
ノルマンディー通り 汚れたジュースの入ったソーダ瓶
うねるカーヴに。

われわれはヴィデオ一箱を盗み出す。長時間テープを。


 男と女を乗せたトライアンフ TR−3が都心を自暴自棄に走り回り、時速75キロでスピンし、逃げ惑う人々とTV中継のクルーとを横目に、闇を彷徨する。泥酔、ベッド、愛撫、救急病院。二人は連れ立ち、別れ、離れ離れになっても繋がろうとしながら、ひたすら極小のリアリティを求めて、周囲への無関心を強めていく。


11時07分

彼女にキスする。マルガはもうすぐ出られるだろう、
また腹にタオルを巻き付けて。
私は彼女の手のひらに哀願し、顔を起こして
彼女の顔に向き合う。壁に話しかける・・・

ベルが恐ろしく深刻な音をたてて鳴り響く
男たちが、若い男たちが、
キャメラをかかえて到着する。
三脚の下で
急きたてられたレポートが組み立てられる。


2時40分

バスタブの水が止まり、枯れる。
すべてが止まり、消える。

玄武岩のライオン像と溶け出した大理石が
彼女の小さな足にまつわりつく。

ハーバー・フリーウェイの炎で
ローマが閃光をきらめかせる

カメラのフラッシュが飛び交う
サウス・セントラル・ロサンジェルス。


 詩人は歴史を過去に遡ることで現実から逃避しようとし、暴動のロサンジェルスは燃え上がるローマ帝国の光景へと変貌する。だがもちろん、詩人の乗っている車とは20世紀という炎上した乗り物(ヴィークル=メディア)以外の何ものでもない。自由と革命と豊かな生活を約束した20世紀が、いまや黒焦げの野望となって断末魔の声を上げる。


2時59分

マルガが消え去った。
別の風景のなかに。

私は自分の靴ひもを見る。
腕からは赤いシミが滲みだす
アスファルトの上でよじれた――
ブロックとテレヴィジョン、
破裂したパンの電気の穴。


3時07分

防弾チョッキを着た警官が
7人の黒人少年を人質にとる。コリアン、アラブ人、箒を持ったメキシコ人。
年老いた夫人の自転車と傘。
逆さまにされて顔と格闘する夫人。

いまや誰ももう家に帰れない。アメリカ
アメリカ。


 ロサンジェルスのX街のグラウンド・ゼロ地点で夢見られた悪夢の幻影を、ふたたび現実へと差し戻すことで、詩人は「出来事」のメディア的な媒介を超えて自己を持ちこたえる。チカーノの社会的抵抗の遺産も、近代人としての批評意識も、都市のカオスのなかに投げ捨てた詩人は、現実からのディタッチメントを介して人間の生きる苛烈な現在の「エッジ」をかえってきわだたせてゆく。ここで詩人がつぶやく「アメリカ」が、メディアが媒介する「自由」と「正義」のアメリカといかに異なっているか・・・。
 そして詩集の最終ページの断章。


6時01分

手紙をくれ。マルガ。
黒いタクシーがあっさり発車してゆく。
男が二人で男の喧嘩をしている、それが
ぎこちなくも、すばらしい。憶病者ら。
次の車(・・・)
フォグライトを点けたスポーツカー、濡れた街路。


 このようにして終わる詩のほとんど最後に書きつけられた「憶病者」(coward)という詩句に充満する意味の多様な揺れと深い消息とを、私たちは自らの日常に奪還しなければならない。なぜならそれこそが、私たちの社会的批評性の拠点となる言葉の、基本的水準だからだ。

 メディアが可能にした「世界同時性」の領土に散布され、徹底して軽い意味を担わされている現在の言葉に、それらが使用される言語態への省察に裏打ちされた言葉としての深みと力を奪還する可能性を、私はここで、日常的現実を構成する「世界」の背後にある極小の時空間に回り込んで、考えようとしたのである。




1) CNNやBBCテレビのような衛星ネットワークの示す汎世界性にたいし、今回オサマ・ビンラディンのインタヴューを独占放映するなどして注目された小国カタールの衛星ニュース専門局アル・ジャジーラなどは、一見すると衛星メディアの世界同時性に亀裂を入れる対抗メディアの存在形態の一つであるかのようにもみえる。だが現実には、アル・ジャジャーラは CNNなどから多額の資金供与を得てビンラディン一派への接近取材を敢行し、それによって結果として欧米メディアやアメリカ政府への貴重な情報源として諜報活動の一部に利用されている。対抗メディアを囲い込む世界メディアの狡猾な戦略によって、衛星的暴力の厚みは、さらに増しているのである。
2) テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』(三光長治訳、法政大学出版会、1979年)67頁。
3) 前掲書、68頁。
4) Alphonso Lingis. Abuses. University of California Press, 1994, p.155. アルフォンソ・リンギス「プラ・ダーレム、死の寺院」(管啓次郎訳、今福龍太他編『旅のはざま』岩波書店、1996年、39頁)。
5) New Yorker, 2001.9.24。
6) Los Angeles Times, 2001.9.26の記事 "Troubled Timing Takes Maher Beyond 'Politically Incorrect'"より。
7)  本稿では、あえてインターネットなどの電子メディアにおける世界同時性の対抗的批判については論じなかった。いうまでもなく、私自身がこの一連の出来事においてインターネットやメールをはじめとする電子ネットワーク・メディアをつうじて得た映像や情報の数は計り知れない。しかし、それらがすべて、大手衛星メディアの構築する現実にたいして解毒効果を持つわけでもない。インターネットによって成立する世界同時性の現実感覚の意味については、本稿と対をなす別項が必要であろう。
8) ヴァルター・ベンヤミン「破壊的性格」(野村修訳、『暴力批判論』岩波文庫、1994年、244頁)。
9) 掲書、244頁。
10) Juan Felipe Herrera. Love After the Riots. Curbstone Press, 1996.


(本論考は、『シリーズ言語態 6:間文化の言語態』[東京大学出版会、2002年2月1日刊行予定]に収録される論考の別ヴァージョンである)


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