国家を超え出る力を認めよ


 テロという暴力に対抗するもう一つの暴力の行使のことを「テロに屈しない」と意気まいてごまかし、大国の国益だけが突出して強行された不義の戦争の片棒を担ぐことを「人道復興支援」とすり替える言説が、もはや首相、政府・与党関係者のなかであまりに繰り返され、意味の水増し状態に達した感がある。上滑った言葉の濫用は、その言葉が本来指向し、含みうる現実と意志と想像力と可能性の複雑かつ厳密な配分を溶解して見えなくさせ、一枚岩のイデオロギーを有無を言わせず強要して批判を平定するための紋切り型へとすぐさま矮小化されるのが常である。 

 そんな意味の上滑りのなかで、あらたに無謬の正論のようにしていまや世論さえ支配しかけているのが「自己責任」という言葉である。海外における自国民の保護という、無条件かつ自動的に遂行されるべき国家の責務を棚上げし、退避勧告の出ている戦乱の地にあえて入国を強行して誘拐・拘束された三人の自覚と責任を問い詰めるかたちで声高に唱えられているこの言葉は、国家のリーダーとその有権者の大多数とが、自らの真の責任を放棄している現状において発せられている、という点であまりにグロテスクに聞こえる。自衛隊のイラク派遣という国家的決断が厳しく為政者に求める自己責任は、イラク領土内での自国民の戦闘死はもちろんのこと、誘拐や拉致の新たな危険をもちろん含んでいたはずである。そうした新たな危険を誘発する政治的決断が行われているという自覚があるかぎりにおいて、NGO系の組織やまったくの個人の立場で活動しようとする日本人がイラクにおいて拘束され、国家的な取引の道具とされかけたときの「責任」の第一の所在が、当事者たる日本国であることは疑いをいれない。不承不承ともみえた国家による救助への行動が、たとえそれ相応の出費を伴うものだったとしても、それが高額であり、税金からの支出であり、よって一部負担を誘拐された本人たちに求める、といった一方的な論理が、国家の責任を棚上げしたままに堂々とメディアから流れてくる現実は、私には正気の沙汰とは思えない。そして、そうした状況を、政権与党を通じて支持した真の自己責任はまた、有権者である私たちにも同じように振りかかっている。少なくとも、政府も国民も、国家の意思と行動として今のイラクの現実を生み出した責任の一端を等しく負うのであり、その限りにおいて、国家も国民も、すでに敗北している可能性がある。 

 そもそもNGOあるいはNPOといった活動の本質的な意味は、それが人道的であるとか、善意によるものであるとか、自己犠牲的であるとかいった倫理的観点から定義されるべきものではなく、まさに文字通り、Government=政府(国家)やProfit=利益(市場経済)という支配的な原理を超え出て新しい社会関係と人間活動の領域を創造しようとする、人類のあらたな衝動に基礎を持っている。そこでは、国家原理に基づく「政府」と、市場経済に基づく「利益」という二つの決定的な理念が、疑問に付されている。まさに、無謬の言葉として日米政府が口をそろえて連呼する「国益」という概念こそ、この因習的な二大理念の結合の産物であり、だからこそこの国(家)(利)益という正当性を乗り越えたところに、人類の新たな活動領域と精神性の根拠はつくられねばならない。今回の事件が、国家とその国民(すなわち国家原理の二大構成要素)、および資本主義的経済原理がつくりだす癒着関係のはざまに生まれつつある、国家原理や市場原理を超え出ようとする「脱国家」と「贈与経済」の所在を私たちに突きつけていることを、決して見逃すべきではない。

 イラクに留まって活動を続けたいと解放後の重い第一声を漏らした彼らにたいし、政府関係者のあいだからは「イラクに亡命すればいい」との声すらささやかれた。だが、自らの領土内に亡命者を引き受けるまともな法整備すら放置して、「亡命」という苛烈な実存にあからさまな無知と無頓着を決め込んできたこの国の指導者に、亡命なる語彙を軽々しく使用する資格はまったくない。どのような国家体制が、そうした「亡命者」を輩出してきたかという歴史と現実に少しでも思い至れば、日本という国家から亡命者が生まれることが、いかなる国家体制の出現の結果としてあるのか想像はつくはずだ。「亡命すればいい」という厚顔無恥の妄言は、逆に言えば、抑圧的な管理と統治によって厳しく自国民にたいして国家イデオロギーへの無条件の忠誠を強いる体制が、いまや彼らの無意識の理想になりかけていることを、はからずも露呈してしまっている。そして、自国民を反日分子と呼び追放してはばからぬ心性を持った与党議員がいまや存在するのであれば、国民の方も、「国家」に帰属して安住するだけではない新たな自己の存立根拠を、まさに国家の外部に探し求める道を歩み出さねばなるまい。

 旧世紀から引きずる「国家」という原理がいま創造的に脱皮していくべき時に、国家は、国家を超え出てゆこうとするさまざまな個人の未知の力を認知することで、人類の新たな社会原理の探求に道を開かねばならない。そして社会的な存在たる私たち一人一人もまた、自らの「国民」としての自己同一性を超えたあり方を創造する使命を、ついに負いはじめたのである。

(初出、『世界』2004年7月号)


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