ある「誤読」の二○世紀史
<シェイクスピア>と<アメリカス>Americas。この二つの符丁のような言葉を、二○世紀末という「現在」の世界文化を照射するためのアクチュアルな問題意識において、できうるかぎり喚起的な方法で接続してみること。簡単にいえば、これが私の現在のひとつの大きな思想的関心事である。そしてそうした仕事にとりくむためのいわば助走となるべき、断章的な思索ノートの掲載をはじめてみたい。
<アメリカス>Americasという、日本の読者にはいささか耳慣れない概念は、いうまでもなく文法的には<アメリカ>Americaの複数形として成立する言葉である。なによりもまず、<アメリカス>という概念が定立する最大の前提は、これが北米=アングロ・アメリカによって独占されたかの感がある「アメリカ」という概念に、汎大陸的、西半球全域的な包括性と、歴史・民族的多元性を与え直そうとする意志に貫かれているという点である。それは文字どおり文化的交通によってつくられた「複数のアメリカ」という現実のことであり、「複数のアメリカ」の可能性のことでもある。別の言い方をすれば、それはアングロ系白人種によって統治された近代国家としての「純血のアメリカ」(合衆国)の唯一の理念にたいして、ヨーロッパ、アフリカ、先住民インディオを統合する「混血のアメリカ」を突きつけることでもある。
こうした南北アメリカの歴史=文化的複合性にたいする包括的なまなざしの一つの起源は、一九世紀末から二○世紀はじめの中米カリブ地域に出現したモデルニスモ運動に求めることができる。そしてこの時期の<アメリカス>意識のなかではじめて、シェイクスピア劇の一登場人物に、特別な象徴的意味論が付与されることになった。モデルニスモ運動の中心人物の一人であったニカラグアの詩人ルベン・ダリーオは、ヨーロッパ的な詩法にアメリカ大陸の土着的な想像力を対置させ、さらに植民地時代の混血アメリカへの自覚的意識を詩集『アスール』などに込めて主張したが、そのダリーオが一八九八年に書いたエッセイ「キャリバンの勝利」は、北の強大な怪物としてアメリカ大陸に君臨をはじめたアメリカ合衆国をシェークスピアの最後の劇「テンペスト」の粗暴な野人キャリバンに見立てて批判したのである。<アメリカス>の文脈におけるキャリバンの登場はこのダリーオのエッセイをもって嚆矢とする。
いまからちょうど百年前に当たる一八九八年とはまた、米西戦争においてアメリカ合衆国が勝利した年でもあり、その結果としてカリブ海に残されていた最後のスペイン植民地の一つキューバがスペインから脱却する。だがそれは、アメリカ合衆国によるキューバへの政治・経済的干渉のはじまりでもあり、すなわち旧宗主国たるヨーロッパ諸帝国に代わるアメリカ合衆国という新しい「カリブ海の主人」の誕生を画す出来事でもあった。そしてこの時期、キューバにおいて独立運動を押し進めたモデルニスモの思想家・詩人ホセ・マルティは、「ヌエストラ・アメリカ」(われわれのアメリカ)という言い方によって多元的な<アメリカス>への道程を、アメリカ合衆国の専横と対比させながら論じていた。マルティの文化論の汎アメリカ大陸的射程は、まさに「キャリバン」を援用したダリーオのモデルニスモの思想的支えともなり、さらにもう一つの重要な「テンペスト」の登場人物であるエアリエルの援用によって<アメリカス>の思想の基盤をつくったウルグアイの思想家ホセ・エンリケ・ロドーの『アリエル』(一九○○)にも、強いこだまを送っていた。
こうしてみると、現在の私たちは、<アメリカス>という共同意識がシェークスピアを自らの問題として誤読し、象徴的に援用しはじめてから、ちょうど百年という時期を迎えていることになる。それはまた、<アメリカス>に流れた二○世紀史そのものでもあった。
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<シェイクスピア>および<アメリカス>というそれぞれの問題系が背後にもつ広大な歴史学的・文献学的・学説史的蓄積とじかに対峙しながら実証的な手続きによって議論することはここでの私の目的ではない。英文学者、ましてやシェイクスピア学者でもなく、厳密な意味でかならずしもアメリカニストでもない筆者には、そのような前提ははじめから欠けているというべきだろう。しかしだからこそかえって、この二つの問題系は、私にとってのっぴきならない思想的重要性を持って迫ってきたのだともいえる。なぜならば、<シェイクスピア>と<アメリカス>との関係は、とりわけ二○世紀的文脈において、ある意味で、まさに非実証的で詩的な解釈、いわば創造的な「誤読」という相のもとに展開してきたからである。二○世紀の<アメリカス>という現実を生きてきた思想家や作家たちによって<シェイクスピア>が象徴的に援用され、創造的に誤読され、あるいは私的=詩的に盗用されていった歴史は、いわば西欧近代の認識論が<シェイクスピア>という正統(カノン)を一つの礎として築き上げてきた世界観と支配言語がもたらした唯一の「歴史」の背後から、もうひとつのありうべき主体的「歴史」を出現させようとする、<アメリカス>の側の人間の思考の軌跡そのものであったのである。そしてそうした主体的な歴史の新たな出現に立ち会おうとする衝動は、アメリカスという地理的限定を超えて、アフリカ、アジアに連なる世界の苛烈な文化混淆の現場からも等しく浮上しつつある。
私の試みは、この<シェイクスピア>という符丁が代表してきたひとつの近代的な思惟の歴史に、決定的な「不連続」を導入しようとするヴィジョンを検討する試みである。そしてそのために参照される<アメリカス>という思考の場が、まぎれもない西欧植民地主義の産物であるとするなら、この試論は、歴史のいわば「ポストコロニアルな不連続」についての考察としてかたちをなしてゆくことになる。
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さて、私たちの考察にとって特権的な象徴性を持つテクスト『テンペスト』とはなんであったのか?
シェイクスピアが『テンペスト』を書いたのは一六一一年である。そのわずか四年前の一六○七年、イギリスにとってのはじめてのアメリカ大陸における定住植民地であるジェイムズタウン(現在のヴァージニア州南部の大西洋岸)の町が建設されている。いっけんかけ離れたこの二つの事実のあいだに、じつは『テンペスト』という作品の現代的可能性を読みとく一つの大きな鍵が隠されている。それはすなわち『テンペスト』を、従来の地中海的文脈から、大西洋的な関係へと一気に引きだすことをも意味している。これこそが、ここでいう「誤読」の核心である。
『テンペスト』の作中には、たった一つのアメリカ大陸の地名も登場せず、アメリカ大陸にかんする直接の言及も存在しない。プロスペロ一行が嵐に遭遇して難破し漂着した島はあきらかに地中海にあると読め、作品を素直に追うかぎり、その舞台はおそらくシチリア島かマルタ島あたりだろうと考えるのがもっとも自然である。
だがすでによく知られているように、『テンペスト』という物語をシェイクスピアに着想させた種本は、北米をめざす植民初期のイギリス船を襲ったすさまじい嵐と無人島への漂着を記録した「バミューダ・パンフレット」と呼ばれる報告だった。ヴァージニア・カンパニーの植民地書記官だったウィリアム・ストレイチーによって一六一○年に書簡の形で書かれたこの記録は、一六二五年まで出版されることはなかったが、シェイクスピアが未刊のこの記録を見ていたことは、ほぼまちがいがないとされている。
するとここに奇妙なねじれが生まれる。つまりシェイクスピアはこの難破の物語を、アメリカ東海岸沖に浮かぶバミューダ島における出来事から霊感を受けながら、それをあきらかに地中海的な物語というかたちで創作した、という事実である。カリブ海の征服と略奪と、それにつづく植民化・奴隷化というコロニアリズム(植民地主義)の歴史がまさに立ち上がろうとする瞬間をシェイクスピアは無意識のうちに封印し、それを地中海の物語へと回収しようとした。だが、この物語に埋め込まれたカリブ的種子はシェイクスピアの作品のなかでひそかに生き続け、やがて二○世紀になって、植民地から脱して自己のアイデンティティを強く求める思想的運動を開始したカリブ海やラテンアメリカの作家たちに、大いなる霊感を与えることになったのだった。シェイクスピア自身が蒔いた、歴史と創作とのあいだのこの屈折した関係をめぐる野生の種子は、カリブ海や中南米のそこここで、シェイクスピアのあずかり知らぬ不思議に熱帯的な花として開いたのである。
この、歴史のねじれをはらんだ無意識の種子のなかでももっとも重要なのがキャリバンである。キャリバンCalibanとは、そもそもカリブ海の食人族Can(n)ibalのアナグラム(語の綴り換え)によって創られた名前であり、『テンペスト』が内蔵するカリブ的暗示の焦点でもある役柄だった。しかもキャリバンは、シェイクスピア劇のすべての登場人物のなかでももっとも謎めいた存在で、演出上においてもつねに論争の的となってきた。プロスペロから「ケモノ」「ぞっとする生物」「奇怪な魚」「四つ足の怪物」「薄のろ亀」などとさまざまに呼ばれるキャリバンは、その形態的な特徴をテクストから明確に割り出すことがまったく不可能である。さらに人間/獣、奴隷/反乱者、下僕/誘惑者といった両義的な役割のなかでゆらめくキャリバンの性格もまた、単純な支配と服従の構造を曖昧にする。そしてこのキャリバンの視覚化の不可能性は、ちょうど漂着した島が現実の地図上の一地点として焦点を結ばないことと、見事な対応を示している。つまり、現代においてこの島がどこにあるか、と問う想像力は、そのまま、キャリバンとは何者か、という『テンペスト』を解読するための最大の謎へと接続されてゆくことになる。
そしてまさに、このプロスペロの島をカリブ海へと読み替える創造的な「誤読」の実践によって、キャリバンも新しいカリブ海的生命に目覚めることになったのだった。
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『テンペスト』が現代世界にたいしてもつ暗示の力を自分自身の問題に引きつけ、キャリバンという役柄の曖昧さにもっとも鋭く反応したのが、これから本連載が論じようとしている、二○世紀後半のカリブ海の作家・思想家たちだった。植民地解放によって圧政のくびきから解かれたものの、支配者の歴史が退いた後の歴史の空白のなかで自己を見失い、奴隷の末裔としての黒人的主体性をいかにしてうち立てるかを切実に考えていたカリブ海の知識人たちこそ、キャリバンの創造的探求の行為にもっとも熱心だった。ジョージ・ラミング、エドワード・ブラスウェイト、エメ・セゼール、ロベルト・フェルナンデス=レタマール、C.L.R.ジェイムズ、デレク・ウォルコットといった思想家、詩人たちのキャリバン探求は、それぞれ「テンペスト」というテクストの脱-神話化の試みであり、それはヨーロッパの植民地主義的歴史をほとんど神話的な与件として固定化する歴史意識に対する強靭で徹底した批判精神の産物でもあった。
『嵐』という、『テンペスト』の黒人劇への翻案を書いてもいる、マルティニック出身のネグリチュード詩人エメ・セゼールは、プロスペロを全体主義的な独裁者であると規定しながらキャリバンの可能性についてこう書いている。
「キャリバンはいまだ彼自身の始原に近いところにいる人間であり、彼の自然との絆はまだ絶ちきられていない。キャリバンはいまだ驚異の世界に<参画>することができるのにたいし、彼の主人は既存の知識によってそれらの驚異を捏造することしかできない。しかもキャリバンは同時に叛乱者でもある。そして奴隷はつねに主人よりも重要だった---なぜなら、歴史をつくるのはいつも奴隷の側だからである」。
キャリバンのカリブ海的援用は、プロスペロの歴史に不連続を導入しようとする、ポストコロニアルな新しい「歴史」の宣揚へののろしであった。
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