Mermaid Meat
人魚の肉   ブレンダ・ウォン・アオキ

<解説>翼ある人魚をはじめて見たのはオーストラリアのとあるビーチで開かれていたマーケットのみやげ物屋の軒先だった。紐でつり下げらてたその木像はたしかに人魚だったが、背中には天使か天女のような翼が生えていた。大海原だけでは飽きたらず空までも自由に駆けめぐる人魚! そんな人魚の姿を初めて目にしたものだから強く印象づけられ、その木像の前から立ち去り難かった。その後、博物館でそれがジャワ島の南海の女神であることを知った。彼女は右手に櫛左手には鏡を持ち自分の永久の美貌の身だしなみにはいつも気を使っているそうだ。「翼をのぞけば、ヨーロッパの人魚の特徴をそっくり全て兼ね備えている」彼女たちは、しかしヨーロッパの”王子さま”たちがあらわれるようになっても、彼らに媚びたりはしなかったのではないだろうか。それから一年、コロラド州のとあるホールのステージで再び人魚に出会った。人魚を題材にした一人語りのパフォーマンスだというから、このアメリカ合衆国でリトル・マーメイド=ディズニー的な先入観をもって席に着いたのだが、舞台に現れた語り手、ブレンダ・アオキはそんな予想を覆した。ロジックによる説得でもビートによる協調でもなく、呼吸と間によって会場の空気を支配したブレンダは異類婚姻譚のラブ・ストーリーで聞き手を安心させておいて、日本なら若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)伝説に代表されるような、親殺しと食人と不老不死とキーワードとする人魚裏伝説へ聞く者を引き込んでしまった。登場人物のそれぞれの声、そして風景や自然の声に成り代わる彼女のパフォーマンスが終わってから、会場がそのもとの空気を取り戻すまでに一瞬の永遠が生まれていた。そのあいだビーチで見た人魚のことを考えていた。たしかにこのステージで外見上翼をもった人魚が登場することはなかった。しかし「日本人、中国人、スペイン人、スコットランド人の血を受け継ぐ混合体としてのブレンダの身体は、事物や概念の地域性、ローカリティの陥穽をすり抜けて、二十世紀の人間にとって未知の自由な空間を飛翔している」のだから、ステージで人魚の声を語る彼女の背中にはきっとあの翼が生えていたに違いない。



第一部.情熱
 漁師は腰を下ろしていた、暗く、冷たい、真夜中の海の真っ直中に...待ちながら...見つめていた...そこだ!
 漁師は網を投げた。体の大きな男、彼は両足を舟底にしっかりと下ろし、手に手を重ね、力を込めて、獲物をぐいと引っぱった。額の汗を拭いながら彼は見た、網のなかで巨大な海草の塊が打ち震えるのを。奇怪な尾鰭があらわれた;青光りを放ち、緑がかった銀色。神様、あんな大きな魚、それまで彼は捕まえたことがなかった!
 だが、まて!...あれはただの魚じゃなかった、たしかに魚だが、それはまた女だった...荒々しく、獰猛な女、豊満な乳房と艶めく肌。しかも彼女の目 - - 深い闇をたたえたその目に、男の魂は身体を離れ吸い込まれそうだ。
 人魚!...彼女がはね上がったので、漁師には彼女の身の丈がゆうに自分と同じくらいであることが見て取れた。彼はやすを手にした。一撃、彼女が彼を打ちのめした。漁師は直ぐに立ち上がった。彼は命の危険を感じながらも、この生き物に向かって飛び込んだ。彼女が彼を打ちつけた、今度はもっと強く。脳震盪を起こして、彼は舟底に倒れ込んだ。
 彼女はおそるおそる彼に近づいた。彼女は彼の髪に触れた。彼の顔...彼のざらついた顎。彼女は彼の目をのぞきこんだ。それは嵐の前の海の色だった。彼女はその指先を彼の肢体の上にはしらせ彼の身体を感じた - - 温かい、岩のよう。
 彼女は彼の上にかがみこんだ。長い、豊かな、カールした髪が - - 海草みたい、彼の顔に降りかかった。彼女の指先が彼の肢体を撫でつづけたので、漁師には分かった、彼女が自分に危害を加えるつもりはないのだと。そして彼女が魚であるよりはるかに女であることを彼は知った。
 彼女は彼の土の匂い、ジャコウような馥郁たる薫りを吸いこんだ。漁師が震えだした。息が荒れる。人魚は魅惑された。彼女は彼をなめた。彼から声がもれた。それで彼女はもういちど彼をなめた、彼女がその手で打ちつけた彼の身体のすべてを。どんな動物からだって彼女がそうした温かみを感じたことはこれまでなかったし、なにより彼の匂いに彼女は取り付かれてしまった。
 彼がこの濡れた、なまめかしい生き物を見上げた。彼女は澄んだ、真新しい、海水のような香りがした。彼は思わず彼女の髪をひっつかんで引き寄せ、彼女の唇にかぶりついた。彼らは互いに深く酔いしれ、激しい衝撃が二人のなかを走った。舟底を転げ回る彼らは、もがきながら、互いをむさぼり食い、狂乱して嬌声を発する動物だった。
 彼らはなめまわしては口を吸い、かみついては転げ回った、くり返し、くり返し。人魚が人に抱かれて感じたのはそれが初めてだった - - 幾千もの愛撫に、取り囲まれ、包み込まれ、もだえうめいた。悦びでほてった彼女の身体は大きな波のようにゆっくりと動き始めた - - 崩れた細波のように乱れ震えたのではなく。
 それから、漁師が彼女の最も奥深い暗がりのなかを駆け抜けた、巨大なイソギンチャクが何度も吸いついてくるような感覚がのこった。人魚の荒々しくも旋律的な叫びが響きわたった、彼女は激しい力によって衝き動かされる一匹の大きなニシキヘビのようだった。そして、二人の叫び声は広がりつづけ、深まりつづけ、尽きることなく渦巻く極みへと上り詰め - - この大海原の果てまで広がった...
 終わったあと、彼らは身を横たえて身体中が打ち震えるのを感じながら、穏やかな波に揺られていた。

第二部.実行
 さて、人魚は起きあがり海に戻ろうとした。けれども漁師が言った「待て! おねがいだ - - いっしょにいてくれ」。そのとき、自分の要求が偽りのものであることを漁師は知っていた。それというのも人魚の肉が不老長寿の妙薬であることはよく知られていたからだ。いったいどんな人間ならこの衝動を押さえることができたろうか。人間を惑わすセイレンの歌声が永遠に若くありたいだろうと男をけしかけてた。
 しかし人魚は長いあいだ彼を見据えるとこう言った「一日。一日だけいっしょにいます。」
 漁師は娘と暮らす海辺の家まで彼女を連れていった。人魚は珊瑚と真珠でできた櫛をその子に与えた。彼女は波の底深くに住むとても大きなカメ話をその子に聞かせた。そしてその子が眠ると、彼女と漁師はもう一度、静かに、そして優しく、相手を知った。
 一日が過ぎた。
 漁師と娘はいてくれるよう人魚にお願いした。けれども彼女は「それは許されないこと!」だと言った。小さな女の子は泣き出した。人魚は彼女を抱き上げ、やさしく揺り動かした。「あなたとわたしは同じじゃないの。あなたは歳をとるけれどわたしはいつまでたっても若いまま。それが生み出すのは悲しみばかり。」女の子は人魚の首に腕をまわして泣きじゃくった...「だって、わたしのママになってくれると思ってたのに!」人魚は漁師と娘を見つめたけれど、もう手遅れだった。後戻りはできない。
 そして人魚は海辺のあばら屋に移り住んだ。夕暮れ時になり一日の仕事が終わると、彼らは代わる代わるお話をしては笑いあった。そんなとき人魚はきまって娘の髪を珊瑚と真珠の櫛でといてやるのだった:
 ち、なみだ、うみのしお、
 ママはあなたが大好き。
すると娘は言うのだ:ママ、大きくなったら、わたしママみたいな美人になる。たくさんの子供たちにかこまれて、ママとパパといっしょにずっと暮らす!
 すると人魚は笑うのだ「あのね、あなたは美人よ。きっとたくさん子供ができるでしょうね。でもパパとママにできるのはずっとあなたを愛してあげることだけよ。
 何年かが過ぎ、年老いた漁師の目のまわりの皺も深くなった。娘は艶やかさを身に付けていた。そう、彼女は美しい大人の女になったのだ。漁師は人魚と娘をじっと見つめて、誇らしい気分になった。
 時は過ぎる。眩く鮮やかだった人魚の尾鰭はくすんで役に立たなくなった;照り輝いていた彼女の肌は - - 血色が悪くかさついていた。夜になるとときどき、濃い霧のなかから姉妹たちが人魚に呼びかける声が聞こえてきた(人魚の歌だ)けれど、年老いた漁師と愛しい娘を見るにつけ「もうしばらくだけは」と彼女は思うのだった。
 ある晩いつものように人魚が娘の髪をといてやっていると - - 娘は気がついた、カールした<灰色の小さな蔓>が自分の頬についていることに! 彼女は人魚の方へ向き直って言った「どうしてあなたはいつまでたっても歳をとらないの? あなたとわたしの違いにいったいどんな秘密があるというの?」
 そしてある夜いつものように漁師は夢のなか深くに微睡んでいた...(恐ろしい悲鳴の音)それは彼の人魚の悲鳴だった。彼女の美しい顔が苦痛にゆがみそして鮮血が...血がいたるところに飛び散っていた。彼女の背中に刻まれて、ぱっくりと口を開いた傷口からポタポタと落ちる血が。そしてそこに、漁師が日頃使っているまさにそのナイフを握りしめた娘が立っていた。「なぜ!? なぜだ!? どうして?」そう叫ぶ父。しかし娘は何も答えず、人魚の肉をクチャクチャ噛みしめることに夢中だった。
 それから強い風に戸口が開け放たれ、大きな尼が女に近づいてきた。彼女は人魚を拾い上げると運び去った。漁師は追いかけた。女を連れていった尼はまっすぐに海へ向かい、波のなかを歩きつづけ巨大なウミガメに姿を変えた。(ウミガメの嘆き)漁師は追いかけようとしたが、高い波が彼を押し戻した。彼女たちが波の下に消えてしまおうとするそのとき、浜辺に立ち尽くす娘に向かって人魚が叫んだ。
 「かわいそう!! なんて哀れなの!」

第三部.代償
 何年か過ぎた、何世代か過ぎた、百世代が過ぎた...ある満月の夜、海辺の古い墓場へと向かう女がひとり、強風に煽られて身を屈めている姿が、わたしたちには見える。
 寒い日だ。女が嘆き悲しむ。(泣き叫ぶ音)
 つまづきよろめきながら、半ばはうようにして彼女が近づいてくる。(泣き叫ぶ音)墓場の迷路へと彼女がようやくたどり着く。墓は貝殻、石 - - そしていくつかは木で形づくられていた。墓は奇妙な形に積み上げられた石によってその位置を記されていた。死者たちのまっただ中を探せば、月明かりに照らされた彼女の姿が、わたしたちには見える。
 彼女は若かったがその顔...肢体...どこもかしこも - - ひどく醜く恐ろしい。そしてそこには、もつれた髪のなかで絡まり、月明かりにちらちらと輝く - - 珊瑚と真珠でできた櫛。彼女が粗暴なナイフを手に取り、不気味な死の儀式をはじめる。
 (儀式:彼女は自分の身体を三度切りつける。それから墓をまき散らしながら荒々しく舞いはじめる)
 アーーーー!(片腕を切りつける)
 アアアアァァァ!(もう一方を切りつける)
 アァ!(胸を切りつける)
 アーーーー! シィィィィィ! アアアアアァァァ!! シエエエ!!! アァ! ァア! ァア!
ご臨終日おめでとう、わたしの愛する人! 愛するママ! 死人たちの女王、彼女は死ぬことができない。漁師の愚かな、愚かな娘! 百世代ものあいだ、わたしは生きた、そしてあなたたち子供を生み、育ててきた。それほど数多くの子供たちを - - この身体から地上へと押し出してきた。
 呪われたわたしは海ができるくらい多くの涙と血を流しながら、生まれ来るおまえたち一人一人を見た、そしてわたしの赤ちゃんたちが...死ぬのを。あなた、わたしの愛しい夫たち...男たち...別れ...わたしたちがいっしょだったのはいつ? あなたが年老いてもわたしはいつまでも若いままで - - あなたはわたしを憎んだ - - あなたたちすべてが!
 わたしはあなたたちをつかまえておこうと努力した。いつもあたなたちといっしょにいられるように...でも、あたなたちの命がわたしの指のあいだから滑り落ちてしまうの...わたしの夫...わたしの子供たち...わたしの子供たちの子供たち - - 私の愛したすべて! そして、わたしはこうして独り取り残された。(彼女が漁師のナイフをつかみ上げる。)わたしを救うために、わたしは痛みを感じ鮮血を見る。それでやっと自分がまだ人間なのだとわたしは分かる。
 ち、なみだ、うみのしお
 わたしの赤ちゃんたちに
 ち、なみだ、うみとしお...
 彼らに伝えて - -
 ママはあたなが大好き。
(彼女がむせび泣きはじめ、その嗚咽があの人魚の叫びに似てくる。)

第四部.許し
 人魚が呼ぶ声を思い出し、女が海へと駆け下りた。
 浜辺に立ち、彼女は波の彼方に向かって叫んだ:「助けて! おねがい、わたしを助けて!」強い風が集まってきて嵐が生まれる。海の底深くからあらわれたのは一匹の巨大なウミガメだった。(ウミガメが叫ぶ ャャャャャャ。)そしてウミガメは向きを変え消えてしまおうとするが、女は強く訴えた、「おねがい、行かないで! わたしを死なせて!」
 ウミガメはヒレをばたつかせ、暗く冷たい海の怒りのなかで、寄せては返す波を泡立てた。そして、ほら、あそこ、ウミガメの背中に乗っているのは - - 荒々しく、黒髪、艶めく肌 そして深く、深く澄んだ目の - - 人魚だ!
 「これ、覚えてる?」
人魚の背中に走る一筋の線 - - ひどく醜い傷跡。
 女は波打ち際に立って、嵐に向かって絶叫した:「そうよ、だからわたしは百世代ものあいだたたられつづけている!」
 刺すような雨が女の顔に降りつける、荒れ狂う波が彼女を押し戻す、雷鳴が轟き稲妻が漆黒の空を切り裂く...が女はしっかりと大地に立っていた。ありったけの力を身体の芯から絞り出して彼女は嘆願した、
 「許して! おねがい、わたしを許して!」
人魚がこんな女を見る、かつては自分の娘と思った - - その娘がこれほど深く彼女を傷つけた - - たたられた女をじっと見つめた。自分のことを見るように。
 「あなたを死なせてあげたくてもわたしの力は及ばない、わたしにできるのはあなたに安らぎを与えることくらい。」(彼女は歌う、人魚の歌を)
 温かい雨が降りはじめ、女の顔の傷を優しく愛撫する。巨大な高波が押し寄せ、彼女を飲み込む。そして、浜辺をすみずみまできれいに洗い流してしまうまで、波がどんどん押し寄せてくる。大津波だ。女も、墓場の番をしてきた彼女の愛した人たちも、皆が波の懐に抱かれる。それから波は皆をひとまとめにして海へと運び去った。水が引いた後には何一つ残らず、そこにあるのはただ輝く清浄な砂...
 時が経ち、いまではかつて女が立っていた場所がよく分かるそうだ - - そこには松の巨木が生えたのだ。節くれだち傷もあるその松はそのためにいっそう美しかった。松は海という始源の場所とともにあった。枯れることのない常緑の姿のまま、いつまでも、いつまでも。

終わり


人魚をめぐるいくつかのテキスト:高橋留美子『人魚の森』(小学館)、高橋留美子『人魚の傷』(小学館)、谷崎潤一郎『人魚の嘆き・魔術師』(中央公論社)、泉鏡花『人魚の祠』(書店にて立ち読み)、椿實「人魚紀聞」(澁澤龍彦編『暗黒のメルヘン』河出書房新社)、『アンデルセン童話集(一)』(岩波書店)、『オデュッセイア(上)』(岩波書店)、ホルヘ・ルイス・ボルヘス+マルガリータ・ゲレロ『幻獣辞典』(晶文社)



Mermaid Meat by Brenda Wong Aoki(c)1989
(翻訳・解説 宮田和樹)