今福龍太が読む 11
水木しげる・大泉実成『幸福になるメキシコ』(祥伝社)
なんとも痛快で、哄笑と風刺に満ち、かつ叙情的で官能的でもあるメキシコ紀行の決定版ともいうべき本が登場した。水木しげる(絵)・大泉実成(文)の『幸福になるメキシコ』(祥伝社)である。私自身もかつて三年ほど住み、その後も二十年近くにわたって訪ね、かかわりつづけてきたメキシコについてこれまでに書かれた日本語の本が、いかにも貧弱であることはずっと気になっていた。必ずしも数が少ないというのではない。専門家によるメキシコの政治や経済や美術や宗教についての学術的な著作も、あるいはジャーナリストによる滞在記も、長い調査・取材期間と多様な文献渉猟を経た成果物であるにもかかわらず、メキシコ文化の核心にあるある種の不可思議な熱や霊気のようなものに届いているとは思えないことが問題だった。いつかは自分で自分のメキシコを本にし、そうした不満を解消するしかないと密かに意を決しつつ、結局はオクタビオ・パスの『孤独の迷宮』(法政大学出版局)とかカルロス・フエンテスの『メヒコの時間』(新泉社)とかいった翻訳された不動の古典にたちかえることで、メキシコの本質が書物のなかで解釈を通じて躍動し輝くのを楽しみ、また畏れてきたのであった。
ところがそこに何と妖怪漫画家水木しげるの登場である。だが、水木しげるとメキシコ、と言われて私は、この取り合わせが考えてみれば予想外なものでも、ましてや偶然の産物でもあり得ないという確信にとらわれた。大正十一年に鳥取の地方都市で生まれ、幼少時代から「のんのんばあ」と呼ばれる一種の語り部の老婆に妖怪や精霊の話を聞かされてそうした神秘世界に惑溺し、お盆の行事で死者の霊が日常に降りてくるさまを興奮しながら体験していた水木しげるが、生と死のあわいに広がる人間の精神世界にたいして驚くほどの直感力を持った現代人であることは明らかである(このあたりのことは水木の自伝『ほんまにオレはアホやろか』(社会批評社)に書かれている)。さらに召集されて南方戦線に赴き、文字通り「死」と隣り合わせになりながら戦場で人の一生について考え抜き、同時にメラネシアの島民たちの信仰する神や精霊の世界と不思議な魂の交流を果たした水木しげる(これについては最近再刊された『娘に語るお父さんの戦記』(社会評論社)に詳しい)の、特異な幻視能力についても特筆すべきであろう。
その水木がメキシコという、まさに死者が生者の世界に闖入しては踊り歌い、畏れと哄笑と沈思とを突きつけて去ってゆく習慣を持った、神秘的で呪術的な力の土地と出会う・・・。これはスリリングな邂逅になること請け合いである。そして期待にたがわず、『幸福になるメキシコ』は、水木とメキシコとの偶然にして必然の幸福なる遭遇を活写することを通じて、私たちにも不思議な幸福感を分け与えてくれる本となった。「妖怪博士」としての水木の具体的な目標はメキシコの仮面である。インディオの呪術的な信仰世界が生き生きと残る南部オアハカ州やゲレーロ州へと、日本のお盆にあたる「死者の日」の祝祭週間をはさんで精力的に旅しながら、水木は悪魔や動物や死霊の仮面のなかに込められたメキシコ民衆の幻視的な想像力のなかを陶酔するように巡礼してゆく。仮面の伝統的な古さや形態の正統性には目もくれず、人間が普遍的に持つ霊的なイマジネーションのダイナミックな発露だけを基準に、水木はわずか二週間の旅程のあいだに百個を超えるオドロオドロしくもバカバカしい仮面を憑かれたように買い求める。あるいは死者の日の仮装行列に紛れ込んで踊りまくり、病気治療のシャーマンの村を訪ね、古代メキシコのピラミッドに刻まれた死神の図像に打たれて沈黙する・・・。
メキシコの魂の奔流にこれほどまでに自然に身体をあずけながらも、覚醒した眼差しで霊的な文化のあり方をひとおもいに看取してしまう眼力。アステカのピラミッドの頂上で眠りながら死と交流しようとするこの七十五歳の翁の叡知は、文明社会の殺伐たる日常を振り切ったところにある、生と死の深いつながりについての感覚を、幸福感とともに覚醒させてくれるのである。
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