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今福龍太が読む 12

西成彦『クレオール事始』(紀伊國屋書店)


 「新しい言語を覚えることは、口のなかを新しい舌を使ってあらためて探検しなおすことだ。・・・私たちの口腔は、唾液にうるおい、華氏百度に限りなく近い熱帯雨林そのものである」。こんな魅力的で扇動的でもある誘いの文句によって冒頭を飾られた本書は、「クレオール事始」という表題も示すように、フランス語語彙系クレオールが話されているカリブ海地域(おもにマルティニーク、グァドループ両島)の民話や民衆音楽の歌詞を素材にして、クレオール語という未知の音を自らの舌の上ではじめて転がしてみようとする者にとっての、なんとも魅惑的な入門書であることはまちがいない。

 事実、本書によって私たちはカリビアン・クレオール口承文化の豊かな資産と近年の文学的成果とをともにふまえて繰り出される数々のエピソードやテーマ的な批評によってクレオール世界のただなかへと誘われるだけでなく、本書に挟み込まれた、日本においてまったくはじめての「フレンチ・クレオール初級文法」なるページを追うことで、たしかにクレオール語を実用的に「学習」するための端緒に立つこともできる。

 けれども「クレオール・パンチを飲み干せ」と題された本書の第一部が、熱帯カリブのリズミックな音楽や甘いトロピカル・カクテルの香りとともにいかに読者を「クレオール語入門」へと誘いかけるからといって、本書を、新しいエキゾティックな語学のすすめとして、ただ好奇心のおもむくままに実用的に「利用」して事足りることなど到底できない。

 むしろ本書は、そうした語学学習書的な造りを忍び込ませながら、逆に私たちの近代的な教育における言語学習の理念と現場がいかなる政治的・歴史的・社会的編制のなかで組織化され、強制され、固定化されてきたかをラディカルに暴き立て、批判する起爆力を秘めているのである。クレオール言語という、近代国家の欲望が生み出した植民地主義の横暴によって歴史的な深い傷を負った奴隷たちの発熱を深く記憶することば。それが、国民国家の立場から権威づけられた「国家語」によって徹底して差別化され、周縁化されていたからこそ、かえって国民教育の現場に回収されずに無疵のものとしてヴァナキュラーな生活空間を声として生き続けてきたというパラドックスに満ちた僥倖を、著者は「ことばを学ぶ」ことのまったく新しい思想的な可能性にむけて再活用しようとするのだ。

 本書が鋭く指摘するように、カリブ海のフランス植民地の初等学校でフランス語教育が導入されはじめたのは十九世紀中葉以降であるが、こうした植民地における国家語の強制は、自然発生的なクレオール言語の世界に生きていた黒人・混血住民のなかに、新たな社会的選別機能を導入するかたちでもっとも強くはたらくことになった。フランス語ができるか否か、という指標が、その人間の社会的地位と出世可能性と、ひいては生きる世界のあり方を決定的に変えてしまうほとんど唯一絶対的な根拠として民衆の前に立ちはだかったのである。ことばの優劣をはかる尺度も、こうして国家の原理に飲み込まれていった。動詞活用がなく、r音が脱落し、書き言葉に移すときも発音しない文字は徹底して無表記で通すという原則を持ったクレオール言語は、崩れ、劣ったフランス語として、そのことばの所有者とともに虐げられ続けてきたのもそのためである。

 しかしだからこそ、著者はフランス語をまずクレオール風に学ぶことを、あえて提案する。複雑な動詞活用を持ち、喉を震わせるr音が頻出し、発音しない多くの文字が表記されるというフランス語の初学者がつまずく三大難関を、クレオール語はことごとくクリアしているからだ、というのがその表面的な理由だ。それ以上の理由に著者はあえて言及しないが、ここにとてつもなくラディカルな言語観の革命宣言が忍び込んでいることは明らかだ。すなわち、植民地の支配言語として近代の公共空間を統べ、「歴史」を記述し、「法」を定め、教育というからくりをつうじて偽善的な啓蒙の身振りを誇示してきたフランス語にたいし、自らの記憶喪失をクレオールの側から光を当てることによって自覚させ、その言語的横暴の歴史の仮面を剥ぎ取ろうとすることこそ、本書に隠されたもっとも革新的な思想的方向性だからである。

 著者が本書で徹底して検証し、主張しようとしているものは、クレオール言語の持つ特異な歴史的記憶能力についてである。それが文字非所有者によって口承の世界でもっぱら運用されることをつうじて、この島々に流れた近代のある歴史をたしかに継承し、蓄積してきたことへの、限りない確信と戦闘的な称揚である。さらにそうしたクレオールの語りが女性の厚みある口承文化と連帯することで、西欧化の過程で奴隷制社会に導入された新たな「去勢的」な物語にたいして対抗的にはたらいた可能性をできる限り評価し、その継承を現代のカリブ地域の女性作家の文学作品のなかに深く読みとろうとする、ポストコロニアル・フェミニズムへの独自のアプローチである。

 そして著者の究極のもくろみは、おなじようにして、戦後引き揚げ者や従軍慰安婦や北朝鮮在住の日本語妻について語ることにあくまで臆病な日本語のこのどうしようもない記憶喪失を、いかにして掘り起こすかという真摯な問いの提示であろう。もはやこの時点で、本書はクレオール語入門ではあり得ない。著者の射程は、国家語としての日本語をクレオール的に変成させようという深みにまでまちがいなく届いているからである。

 


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