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今福龍太が読む 13

ブルース・チャトウィン『どうして僕はこんなところに』(角川書店)


 書くことは自分を鏡に映すことではなく、見知らぬ顔と対面することである・・・。ブルース・チャトウィンの紀行エッセイや小説を読んでいると、ある詩人のこんな箴言がいつも脳裏をかすめる。家族について書くとき、友人について語るとき、あるいは、ささやかで通りすがりの出逢いについて書きとめるときでも、チャトウィンのペンの運びはどこか、「自己表現」というような肩ひじ張った作業を志向しているというよりは、「見知らぬ顔」の出現に驚き、不意なる他者との対峙におののきながら、そうした経験の凝縮された一回性にかぎりなく魅せられている、といった趣を呈している。書くこととは、彼自身を投影する鏡を入念に仕上げてゆくことではなく、自己の周囲と自己の内部とに、無数の見知らぬ顔を出現させてゆく行為であることを、彼は誰よりもよく知り、そのことを生涯をかけて実践したのである。

 チャトウィンの場合、さらにこの「書くこと」は「旅すること」とほとんど同義でもあった。彼にとってはだから、旅は異文化との接触によって自己像を更新させ、自らの居場所を新たに教えてくれる啓蒙的で教育的な場ではおよそなかった。「書くこと」が絶対的な他者との遭遇であるように、また「旅すること」もただひたすら、未知の場所と未知の顔と未知の身体とを呆然と立ち尽くしながらまのあたりにすることだった。場所や人間のなかにひそむ不可思議な魂の実践を目撃し、それに打たれ、旅行者の月並みな期待を裏切られ、そののちに旅行者の遠心的な夢をかきたてられる・・・。そうであるとすれば、旅における自己の剥離は、チャトウィンにとっては自己崩壊でも悲劇でもなく、自己が帰属していると思っていた現実から引き離されてゆくことによってしか自分が生きのびる術はないのだ、という彼の哲学と世界ヴィジョンの証でもあったことになる。

 本書『どうして僕はこんなところに』は、断章・物語・人物素描・旅行日誌を収め、チャトウィンの死の年(一九八九)に出版された四十八歳の作家の遺著である。旅の途上で拾ったらしき骨髄を冒す奇病に肉体をさいなまれ、すでに死期を覚悟したチャトウィンが、自ら編集し、表題をつけ、前書きをしたためた文字通りの遺作である。旅する人であり、書く人でもあった一人の人間が、旅しうる生身の肉体を奪われかけ、なおも最後に何事かを書きつけようとしたとき、その書物は、そこに旅の記述がいかに豊穰に描かれていようとも、最終的には「自叙伝」となる。自らの鏡を作成することを拒み続けたチャトウィンの、ひび割れ、砕けかけた鏡の断片の集積が、一つの逆説としてここにある。そのことが私を強く打つ。

 「書くこと」に憑かれ、その熱をかかえたままサザビーズの美術鑑定士の仕事を突然やめて南米パタゴニアへの放浪へと出奔してしまった一人のイギリス人の若者が、その後二〇年の歳月をかけていったいどこにたどりついたのか。本書が指し示すのは、南米の荒野にはじまり、中央アジア、ロシア、アフリカ、ネパール、そして灼熱の赤い大地オーストラリアと流転した身体が最後に行き着いた現実の場所(プレイス)にかんする悲痛な事実であるとともに、旅を書き続けた魂が遍歴の後に最後に夢想しかけた精神の場所(トポス)のことでもあった。

 チャトウィンは死期にのぞんで編まれた本書で、彼が人生の涯てに行き着いた終なる場所についてはじめて語っているように思われる。無論、言外に。それは「書くこと」と「旅すること」の帰結が、宇宙全体として彼に迫ってくるような臨界の地点で見いだされた、安住しえない、しかし安息の場である。さらなる旅を歩き続ける可能性を断たれた者が、書物を書き残すことを通じて指し示そうとした「ここ」という現在の場所の凝縮された強度についてである。それを、きわめて即物的に「死」と呼んでしまうことはたやすいが、それだけでは、チャトウィンの哲学としてのノマディズム(遊牧的な移動原理)を、人生という道程がもつ不可避の宿命へといたずらに回収して終わることになる。死は彼にとって終わりの記号ではなく、すでに自らの死を人生の終わりとして生きる定住的な原理から離れて流転する魂の充満が発見した、悲痛であると同時に輝ける「現在地」なのであった。死にいたる病という見知らぬ他人の顔の突如の出現にたじろぎながらも、旅の涯てでチャトウィンが見ていたのは、この現在地にたどりついた自分自身への不思議に透明な確信であった。

 その事実を本書が伝ええているとすれば、本書の表題"What Am I Doing Here"は、原題通り正しく「僕はここでいったい何をしているのか」と訳されねばならない。チャトウィンにとって、旅も書くことも、「どうしてここにいるのか」という理由や来歴の探求ではなく、「何をしているのか」という現在の行動への執着によってつねに駆動力を与えられていたからである。

 


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