今福龍太が読む 14
高橋悠治『音楽の反方法論序説』(青空文庫)
先日、早稲田大学のキャンパスで、作曲家・ピアニストの高橋悠治氏と公開対話する機会を持った。一学部学生が企画したこの催しのために、土曜日の午後の教室に多くの若者がつめかけてくれた。私はこの対話のために、高橋氏の最近の著作である『音楽の反方法論序説』を熟読し、その文章の本質的な簡潔さと圧倒的な強度とに打たれていた。しかもその著作は、いわゆる「本」の形態をとらない、新しい言語表現の先駆的な試みとしても注目されるものだった。
『音楽の方法論序説』のテクストは、インターネット上に開設された「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp)というサイトに置かれた電子テクストである。青空文庫は二年ほど前にスタートした日本ではじめての私設インターネット図書館として近年その存在が注目されはじめた。夏目漱石や太宰治などの著書のようにすでに著作権の保護期間が終了した本と、著者が無料公開を望んだ本とが、電子ネットワーク上の本棚に並べてあっていつでも自分のコンピューターに取り込んで読むことができるようになっている。森鴎外の『高瀬舟』、中島敦の『山月記』ほか五編の入力によって始まったこの図書館も、いまや六百冊を越えるタイトルを擁し、一冊一冊が自主的な志願者の手作りで入力・構成・電子ファイル化されたテクストは、どこか「書物」の発する手触りの感覚を残している。この「青空文庫」の試みについては、『青空文庫へようこそ――インターネット公共図書館の試み』という本がオン・デマンド出版によってこの一一月から実験的に少部数出版されるプロジェクトもはじまった(詳しくはhttp://www.honco.net/ondemand/)ので、優雅なフランス装のオンデマンド本の製作を個別に注文して、この画期的な文庫の成立と展開について知ることも可能になった。文字文化の成果に触れるためのこうした新たな回路の開拓は、袋小路に突き当たった感のある書籍出版界の窮地とそれにあぐらをかいた怠慢とを、鋭く批判するとともに、出版の未来の可能性を先駆的に拓く意欲に満ちている。
こうした開かれた電子テクストとして高橋悠治『音楽の反方法論序説』を読むという経験は、その驚くべき内容の意味を吟味するのにふさわしいスタイルである。六○年代のコンピューター音楽の先駆け、七○年代の斬新な解釈によるバッハ演奏、そして八○年代から九○年代にかけてはアジアの民衆音楽の政治社会的なコンテクストを重視した非職業的な音楽グループ「水牛楽団」の活動・・・と、たえず自らにとりつく「音楽」という制度の表皮をラジカルに引きはがしてきた高橋悠治。その彼にとって、いま、アジアの身体技法として市井の人間のなかに宿る「音楽」のわざを、いかに近代西欧音楽における技術崇拝と理性志向の支配から救い出し、それを電子テクノロジーの現在へと接合しながら未来の音楽の創造の根拠をあらたに定位する方法(=反方法)を探ることがなによりも重要であることを、この著作は凝縮された言葉によって伝え得ている。民衆楽器と身体との関係、弦に触れるときの手の作法、音楽を音色の容器として考えること・・・。本質的な思考が展開されるいくつかの「反方法論」のテリトリーは、こうした問題意識をめぐってである。
「装飾の先端にこそ内面の変化」が感じ取られると書く著者は、鍵盤に触れる指先や弦をはじく爪の先端に、「音楽」という身体行為のもっとも深い由来を読み取ろうとする微細な感性を研ぎ澄ませようとしている。「ピアノを弾くことを、鍵盤上の手の舞いとして創りなおすこと」はできないか、という問いは、彼のバッハ演奏のなかに音楽的な「解釈」ではなく音楽の「革命」を感じ取った七○年初めの私の耳の記憶を、二十数年後に裏付けてくれる力強い言葉でもある。高橋氏のこの著作と、エドワード・サイードの名著『音楽のエラボレーション』(みすず書房)とによって、趣味的なジャンルとしてではなく、公共空間で「音楽する」ことの社会的な意味についての思索は、豊かに展開しうる礎石を得たと言えよう。
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