今福龍太が読む 16
武満徹『武満徹著作集 1』(新潮社)
「私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。」
たびたび引かれる、この思考の喚起力にみちた一節を、私は「音楽」を実践する芸術家が「音」という彼自身にとってもっとも本質的な問いをめぐって思考するときの固有の問題意識として限りなく深く真摯なものであると信じる。にもかかわらず、不遜にも、私はこのフレーズの「音」の部分に、たとえば「言葉」という異なった概念を代入し、それが自分自身の問題意識と驚くほどに直結していることを感じ、その感覚を音楽家の同時代人として生きる自分自身の刺激とし、そうした連続性の感覚をこそ、ひるがえってこの音楽家の実践する「音楽」を受け止めるときの昂揚と幸福の糧にしてきた。
作曲家、武満徹が逝って四年がたつ。敬愛するものの突然の不在を感じながら過すにはじゅうぶんに長い年月。それが彼の家族にとって経験されるときの意味とも、近しかった友人たちによって経験されるときの意味とも無論異なった地点で、私もまた武満が不在の年月の一部を、ときおり武満の音楽や書かれた言葉を反芻しながら時代の記憶とともに生きてきた。私を賦活しつづけた、知的緊張に満ちたあの同時代的な空気が何であったのか、そしてその鋭く静謐な空気を呼吸しえた者が、鈍い喧騒に満ちた異質な大気に覆われたこの社会の「いま」にたいしていかなる問いとヴィジョンとを投げ掛けられるかについて、私は折に触れて考え、その思考する自分自身の身ぶりを、音楽家の自在で繊細な感覚に無意識に寄り添わせようとしてきた。
四年がたち、不在の年月のあいだに私が感じていた喪失感と不可思議な焦燥感をようやく慰謝するかのように、ここに「著作集」の第一巻が現われた。作曲家としての武満がだれにも似ていない独創的な楽曲の構想力を持ち、そこから紡ぎだされる音がほかの誰とも異なった特別の質感を持っていたことを否定するものはいないが、彼はまた独特の繊細な文体を持った優れた文章家でもあった。「著作集」の第1巻に収められた初期の二冊の著書、『音、沈黙と測りあえるほどに』と『樹の鏡、草原の鏡』がこうしてあらためて私の前に出現すると、そこには、彼の楽曲のように稠密で求心的な文体による、六○年代から七○年代という時代の豊かな思考の航跡が充満していて、私はそれらをあたかも自分自身のもっとも貴重な生命線のひとつを辿るようにして読み返さざるを得ない。
ジョン・ケージ、マース・カニングハム、ジャスパー・ジョーンズ。安部公房、一柳慧、谷川俊太郎、大江健三郎・・・。本書において言及されるこうした固有名詞は疑いなく六○年から七○年代の芸術運動のもっとも前衛的な潮流に武満自身も棹さしていたことを直接的に語っている。チャンスオペレーション(偶然性の音楽)、肉体性、日常と非日常の対抗・・・。そこからは、時代の表現にかかわるこうした方法論や概念をすぐにも抽出できるであろう。しかし私が本書によって改めて意識するこの時代の思想性とは、かならずしもレトロ的な、すなわち回顧のモードによって位置づけられるようなものであるとは思われない。あの時代に、真摯な芸術家が取り組もうとしていた火急の、もっとも本質的な問いかけは、いまだ私たちの前に開かれてある・・・。そのような予感が現実の確信となる過程を、たとえば『音、沈黙と測りあえるほどに』の文章が力強く促してくれるからだ。
冒頭の引用にこだまするように、琵琶や尺八の音を「再発見」したのちに書かれた「一つの音」という文章で武満はこう書いている。「私は沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい。私の小さな個性などが気にならないような――。」日本人として、ほとんど独学で到達した西洋音楽の認識論の側に徹底して踏みとどまりながら、非土着的な美学の上に再発見された日本の伝統音楽やアジアの民俗音楽を媒介にして、「音」そのものの人間的生成の根源へと遡行しようとする方法論・・・。武満の音楽の秘儀的な核心は、この西洋と東洋の図式的対抗をのりこえた特異な立場にあったように私には思われる。そうした場では、一音が簡潔と充満をそなえていて、それは無音の形而上的な持続としての「沈黙」とちょうど拮抗しあっていた。一音のなかに具現化された複雑な無数の音響の広がりと強度とが、楽音のかたわらに、同じ強度ある沈黙を要請した。武満の音楽の彫琢された孤高さとは、この一音を生みだすための寡黙さであり、沈黙が感知させる無私であった。音が演奏表現をつうじて人称を超えた地点へと向かうことを、彼はなにより望んだ。「私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態」である、と彼は書いた。
であればまた本書も、武満のうつせみの不在を嘆くためではなく、非人称の自然へと送り返されるみずみずしい言葉の充満がここにあると信じるために、私たちの前に差し出されたにちがいないのである。
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