今福龍太が読む 17
ノーマ・フィールド『祖母のくに』(みすず書房)
『天皇の逝く国で』の作者の日本語での著書の出現を、私は長いあいだ心待ちにしてきた。前著は英語からの翻訳ではあったが、にもかかわらず、そこでいきいいきと踊り、ときに内省的に深く沈み込んで問題の本質にあやまたず触れては浮上する言葉の身ぶりの快活な重層性とでもいうべき特質に、私は思考する未知の日本語に遭遇する喜びを感じとって興奮した。死の床につく天皇のいる日本にたまたま滞在するという経験の日常的な水準から紡ぎだされる戦後日本の政治文化への根底的な批判の一つが、日本語では実現されたことがないと思える平明かつ深遠な言語意識として表明されうることに私は打たれた。戦後生まれの日米混血児としての著者の、中間的・周縁的にも想定される立場が、かえって日本語表現の未知のアキュラシー(精密さ)へと届く核心的な秘密に迫っていることを、私は日本語にとっての思いもかけない僥倖として貴んだのである。
そしていまついに待望の新著『祖母のくに』が私たちのもとに届けられた。しかも今回は、手紙以外でははじめて日本語でものした文章であると著者が告白する近年の文章が四編も含まれている。この日本語エッセイがすばらしい。
冒頭におかれた表題作「祖母のくに」は、著者の生まれ育った東京の家をながく取り仕切ってきた祖母の病気入院の知らせを聞いてシカゴから日本に一時「帰郷」したときの挿話で構成された、親密さの感情が横溢する掌編である。昏睡状態から抜け出し言葉を再獲得した祖母が、病床で孫娘のよく知る「おばあちゃま」にもどったかとおもうと、ふと、死に大半を譲り渡した命の深淵から、著者のはじめて知る謎めいた主体として永遠の嘆息にみちた短く深いひとことを発して彼女を驚かせる。こうして揺らぎ、消えかけてはまた立ち戻る祖母の意識の不連続のなかに、著者は祖母という人格が抱えてきた「歴史」の厚みをあらためて想起する。一個人の生きてきた「歴史」が、いざその人が倒れたときにこそどれほど周囲の意識のたてなおしに貢献するかを、この掌編は過不足なく描き出すのだ。祖母のいない家の小さな台所に立った長身の孫娘は、小人の国のガリバーとして、その身体的・世代的そして文化的でもある「違和」の感情をなかだちにしながら、きわめて正しく精確に、祖母のテリトリーとしての親密な家と庭の空間に「日本」と呼ばれる社会・政治空間の一つのありようをみごとに透視するのである。
シガゴ大学で教鞭をとる著者の前に突然現われ、深い絆で結ばれることになった一人の黒人女性を語った「秘書の話」もまた、著者の繊細な日常観察が促す発見の豊かな浸透力によって力を与えられている。身体にハンディキャップをかかえ、家族内外のトラブルや悩みを背負い込みつつ奮闘する秘書。知識人のスノッブな批評意識から見れば陳腐なほどの順応主義を軽やかに発散させる彼女への著者の眼差しは、他者への冷静な批判を含みつつ、親密な隣人への愛情ある思いがつねに自己の階級的・歴史的な身だしなみへの再考をうながすという、問いの均衡によって視点の広がりを獲得する。
典型的で古風なアメリカ人家長として頑固さと無償の社交性を使い分けながら八十二年の生涯を生き抜いた義父との交流を描いた「嫁ならざる嫁」もまた、アメリカ人の家庭において「嫁」という日本的な価値観の意味がいかに変奏されうるかをほほえましくも鋭く描き出す佳作である。祖国と大統領を信じて善良な市民の美学に閉じこもる義父の生き方の限界を指摘しつつも、そのように価値づける自らの思考がはらむ歴史的・社会的条件にも著者は目をつぶらない。「秘書の話」とならんでこの掌編もまた、「知性」というものの階級性や人種性につねに自覚的であることが、いかに平明で透徹した理解の感情へと人の意識をいざなうものであるかを示す。こうした親密な家族や隣人への日常意識に発した思考の種子は、本書の後半で、世界との相互作用のなかでつくられた唯一無二の歴史的産物としての個人の価値を称揚する感銘深い教育論や、従軍慰安婦をめぐる公的な謝罪の意味しうる言語哲学的な地平への省察へとさらに重層的に展開されてゆく。
それにしても、本書の表題「祖母のくに」というやわらかな言葉遣い、文字遣いのなかに、なんとも見事に本書のメッセージは書き込まれてはいまいか。「祖母の国」と表記してしまえば不可避的に連想される「祖国」(それは父祖の国として近代国家の家父長的な帰属イデオロギーを呼び出す)も「母国」(起源神話へのロマンティックな回帰を暗示する)をも振り切って、祖(父)と母とが国家へと安易に回帰する通路を断ち、そののちにあらためて、祖と母とを「くに」という親密なテリトリーへの感情において結びあわせる。「くに」という言葉にそのような力があったことに、私は戦慄にも似た感動を呼びおこされた。
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