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今福龍太が読む 20

岩井成昭『What's in a name?』(P3 art and environment)


 書物を単純な情報媒体と見なしたとき、情報量は文字量に比例するとふつう考えられている。もちろん、無駄に費やされる空虚な言葉によってうめられた頁がそのまま有益な情報とならないことは誰でも理解しているが、にもかかわらず、私たちは多くの言葉を費やして語られたものを通じてより精確な「情報」に接近できるという考えを基本的には疑わず、精密で広範な報道・解説・批評の言葉を求めて、日々書物や雑誌を渉猟することになる。文字情報へのこうした量的な強迫観念は、言語の流通自体が高度にメディア化された現代社会の避けられない特徴であるといえるだろう。

 だが、書物を思考媒体と考えたとき、書物が担う文字量のエコノミー(経済性)に関する通念は大きくくつがえされる。言語を駆使して語り尽くすことがかならずしも私たちの自由な思考を引き出すとはいえず、むしろ簡潔で断片的な言葉の態様をつうじて思いがけないアイディアや閃きが誘発されることのほうが多いことを、じつは私たちは日常的に経験しているはずなのだ。「情報の入手」のためではなく、本質から「思考」するために書物と対峙したいなら、その書物には言語使用にかかわるある種のエコノミーが実現されているべきだろう。文字の過多は私たちの情報欲を満たすだけに終わるが、文字の希少はいやおうもなく言語を越えた想像力や感覚の発動を私たち自身の身体に要請するからだ。

 日本語に直せば『名前のなかに何があるのか?』と題された本書が収録する言葉の、言語態としての簡潔さ、僅少さは驚くべきものがある。世界中の、さまざまな国籍の男女49人が、ただ自らの「名前」の意味と由来とそれにまつわる挿話をごく手短に語る言葉が、彼らの手書きの署名とともに並べられている。見開きの左頁に数行の言葉が、そして右頁には署名が。写真もなければ、解説もない。名前の意味と由来を問う質問者(岩井自身)のごく控えめな声に呼応し、おそらくは一息に返された日常的な言葉の連なりが、ここにそっと差し出されているだけである。

 だが、これらの簡潔な言葉が私たちの「世界像」に突き刺さってくる鋭敏さは尋常ではない。たとえば、「やわらかい聴覚」という性を持つあるブルガリア人女性は、自らの名に込められたイタリア、ギリシャ、スラヴ系の音と意味の混合体を、そのまま自己の文化的系譜の重層性と意識する。稲田と訳せる姓もったメキシコ人女性は、ヘブライ語とポーランド語とドイツ語から成る自分の名前を振り返りつつ、新大陸へと離散したユダヤ系民族の近代史を透視する。「成功」という本来なら男子名を娘につけた母親の気持ちを推し量りながら、ヴェトナム人女性が想像のなかで家族への愛情を確かめる。アイヌ名への誇りから日本名を拒み通した祖父の記憶をもつ青年は、和人の役人が土地の名を借りて無理やりつけた日本名をいつかアイヌ名にふたたび置き換える日を夢想する・・・。

 自らの名前のなかに込められた歴史と家系の来歴を現在にたって反芻し、血縁との連続性への意識と感情とを確かめ、なお「自分」という唯一の存在の意味をそこから引きだそうとする49人の現代人。彼らの短い言葉は、ほとんどすべて現代社会の言語的・文化的交通と交雑の軌跡を伝えていて、私たちの平板な世界像に大きな修正を迫る。

 アーティストの岩井成昭は、声や音をつかったユニークなインスタレーションによって現代社会の人間関係やコミュニケーションの可能性を探る作品ですでに知られてきた。1994年の作品「100ハミングス」では東京在住の外国人100人に、自分がいちばんリラックスできる母国の唄を歌ってもらい、サボテンを載せた100個のスピーカーでそれらを同時に鳴らせてみせた。98年の「ダイアローグ」では、母語の異なる4人に、それぞれの言葉でコミュニケーションの不全にかんする寸劇をあたかも対話が成立しているかのように演じさせ、ディスコミュニケーションのはざまに浮上する言語混淆のユートピアを作品化して見せた。近年はスキャントークという物質化された「音」の素材を利用して、人々のつぶやきを空間のなかに配置する興味深いインスタレーションの実験をつづけている。

 そうした作品の流れのなかで、岩井の『What's in a name?』は、1999年に開始されたインタヴューのプロジェクト「名前の自己紹介(self-introduction about names)の書籍化ということになる。ここで岩井の意図と方法論はますます簡潔でシャープさを増している。名前という対象を、こんなふうに料理して提示して見せたものはいなかった。名前からこれほどまでに世界の複雑性が透視できることを、読者は驚くだろう。名前は唯一だが、自らの意思とは独立してどこからか与えられたものであるbbこの不随意の所有物の自己にとっての決定的な意味を語ることで、人はそのまま歴史と社会と自分自身との錯綜した関係と消息とを、もっとも本質的に考えようとしているのかもしれない。

 


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