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今福龍太が読む 21

清野賀子『THE SIGN OF LIFE』(OSIRIS)  


 60の見開きページの右側に60葉のカラー写真。フィルムサイズはすべて横位置の6×9。写真からは人影が完璧に排除され、作品にはタイトルもキャプションも撮影場所の表示もない。印刷された写真としてすべて正確に18.6cm×27.4cmの大きさの、60の寡黙な窓が、日本の日常的な風景に向けて開いている。

 この横長の窓が映しだす光景の一つ一つに、尋常ならざる感情を抱く者はおそらくいないだろう。郊外の道端に咲くコスモスも、原野の一本道の窪みにたまる水も、有刺鉄線が張られたブロック塀も、コンクリートで整備された港湾も、誰もがどこかで見たことのある、記憶のなかに沈殿したイメージに無理なく重なる。群生するタチアオイも焼跡の廃墟も、黙示録的なメッセージを告げる苛烈な心像の象徴的投影であるというよりは、昨日見たかもしれない奇妙な既視感の印象とともに、私たちの日常の記憶の水面に静かな波をたててゆくだけだ。

 だが、これらの風景の映像が私たちの意識の内奥に触れてくる動きは、静かではあっても驚くほど敏捷だ。誰のものでもありそうな、私たち一人ひとりの眼が所有する現代世界のある日常的視線を、これらの作品はすばやく現実の風景へと誘ってゆく。窓は大きく開け放たれ、写真家がそこから風にさらわれる紙か何かのように敏捷に外へ飛びだしてゆくのを追いかけて、私たちもまたすばやくこれらの風景のなかへと知らぬまに連れ出されるのだ。

 誘われてたどり着いた場所の風景を前に、写真家は私たちに「よく見よ」と告げる。柔らかく、落ち着いた声で。中型カメラ特有の微細な描写力によって、ディテールの陰影を強調された風景は、細部への注視をいくらでも許容する「隠し絵」のような表情すらたたえて、私たちの眼に謎を仕掛けているようにもみえる。だが、「よく見よ」とは、そうした細部に潜む影法師や謎の痕跡を発見せよ、という促しの声ではない。付帯情報を極力排して提示された寡黙な風景のなかに、意味ありげな形象や巧まざる自然の造形を見いだし、そのイメージを媒介に寓意や象徴へと想像力を横滑りさせることを、これらの作品はストイックなまでに禁じているからだ。

 そうであれば、「よく見よ」という声に私たちはどう応じるべきなのか。横長の大きな窓から飛び出していってたどりついた、私たちの日常の光景に、いかなる視線をもって対峙することができるのか。「よく見るために迂回せよ」という次なる声がどこからともなく聞こえてくる。集合住宅や、水田や、果樹園の即物的な映像を前にしていかなる迂回が可能なのか、と立ち尽くし、逡巡しながら、おもむろに写真集の末尾に掲げられた作品リストに寄り道を試みる。すると、北は青森から南は熊本あたりまでの地名が、作品の撮影場所として小さく書き込まれている。撮影年はすべて2000年か2001年。自然に、過去2年の写真家の足取りが想像される。撮影地は千葉がもっとも多く、次いで埼玉、神奈川、と首都圏郊外の地名がつづく。そのなかに、ふと青森、徳島、石川、愛媛、高知、熊本といった名が紛れ込んでいて、写真家の迂回の方角が少しだけ明らかになる。

 現代世界の日常性なるものの構成は、不思議な二重性をはらんでいるのかもしれない。写真家は、彼女の都市的日常が反転する風景を求めて郊外から地方へと迂回する。千葉のの冬枯れの黄金の道の輝きが、愛媛の田植え前の水田のぬるむ水の感触に裏打ちされ、東京の老人病院のどことなくアールデコ風のヴェランダの褐色の彩色が、熊本のスーパーマーケットの壁の無機質な煉瓦色のストライプへと接続されるのを目撃するために。

 迂回によって風景の反転が確認されたとき、私たちの日常の深淵が抱える二重構造が細部をあらわにしながら静かに現れだす。リアリティはこれほどまでに繊細だ。その繊細なリアリティに真摯に近づくための迂回路をストイックに探求しつづける清野賀子の姿を、希少かつ貴重なものであると確信する。

 


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