今福龍太が読む 22
Iturbide, Rai, Salgado『INDIA/MEXICO, VIENTOS PARALELOS』(TURNER)
『インディア/メキシコ 並び吹く風』という興味深い写真集を最近手にした(INDIA/MEXICO, VIENTOS PARALELOS. Madrid: Turner, 2002)。グラシエラ・イトゥルビーデ、ラグー・ライ、セバスチャン・サルガードの三人の写真家による競作である。メキシコ、インド、ブラジルと出身地を異にする三人が、インドとメキシコの神秘的な光と影の軌跡をそれぞれ独特のアングルから白黒の映像に切りとって併置し、魅力的な写真集が生まれている。千年紀をはるかに凌駕する文明の歴史を持ち、深い宗教性をたたえ、近代都市文明に染まらない神秘を保持し、かつ被植民地化の時代を経て現在は激烈な西欧化の波のなかで矛盾をかかえながら東西に向き合って屹立するインドとメキシコ。この二国の姿とそれが暗示する「世界」の像そのものが、これほど見事に対置させられて映像として考察されたことはかつてなかった。
この刺戟的な写真プロジェクトにおいて中心的な役割を果たしたグラシエラ・イトゥルビーデは、現在メキシコですぐれた仕事を精力的につづける写真家で、つい先日(二○○二年一一月一九日)百歳で亡くなったメキシコ写真界の巨匠マヌエル・アルバレス=ブラーボに深く学んだ女性である。師のブラーボは、八○年の長きにわたってひたすらメキシコの民衆的世界の写真を撮りつづけてきたが、いかなる時代の写真も透徹した批評性とアクチュアリティがあって瞠目させられた。「眼が考えている・・・」とは、ノーベル賞詩人オクタビオ・パスによるブラーボ評であるが、たしかに二○世紀のもっとも聡明で謙虚な「世界の眼」の一人が彼であった。そしてイトゥルビーデは、まさにそうした聡明な「眼」を師より受け継いで、さらにその描写力を端正なモノトーンのなかに叙情性豊かに展開する新たな力量を発揮しつつある。このたびインドを訪問して撮りおさえられた風景は、彼女が数十年のあいだ沈潜してきたメキシコの農村的景観と不思議な反響をこだまさせていて興味深く、彼女の友人ラグー・ライの、インド人の側から眼差されたメキシコ各地の映像とのあいだに、スリリングな対照をつくりだしていた。どちらの眼にも、驚きが隠されている。メキシコ人が見るインド、インド人が見るメキシコ。類似性と異質性の同時的発見が、それぞれに自らの根を洗い直そうとする衝動として映像に示されていて、見るものの足元にも深い問いかけの一撃を刻み込んでゆく。
これにたいして、サルガードによるインドとメキシコのイメージは、不思議な連続性の感覚によって相互に浸透していくように見える。二十数年前のアフリカの飢饉の取材にはじまり、文字通り世界中をくまなく踏破してきたサルガードの眼は、すでに民族や土地の差異に興じる視線を超えて、人類の普遍的な同質性・親縁性への深遠な認識へと至り着いているようだ。インドとメキシコの相互浸透は、結果としてそこにスーダンやアフガニスタンやヴェトナムやブラジルもまた不可避的に融合するイメージのなかに置かれたのだという感覚を私たちに示唆する。たしかにサルガードはどこかでこういっていた。「パリ、ニューヨーク、ロンドン。これらの都市はすでに過去の都市です。未来の都市とは、ボンベイであり、メキシコシティーであり、マニラであり、ジャカルタであり、サンパウロなのです」。これは、たんにそうした第三世界の都市の人口上の勃興をいっているのではない。農村人口が人類の生存の広大なすそ野を形成し、その頂点に近代都市のエリート層が形成されてきた歴史がついに逆転し、いまや、農村人口が第三世界のブームタウンに吸収されて巨大な離散人口の堆積が都市を作り替えようとする現状をこそ、サルガードは指摘しているのにほかならないのだ。
ブラジルに生まれ、七○年代の軍事政権の抑圧を逃れてフランスに亡命してエコノミストから写真家へと転じた得意な経歴を持つセバスチャン・サルガードは、いまやフォトジャーナリズムの最高峰として誰もが認める、第一級の報道写真家である。十年前の『WORKERS』(邦訳『人間の大地 労働』岩波書店)のプロジェクトで終焉しつつある大規模肉体労働の現場を活写し、最新の写真集『EXODOS』(写真展「EXODUS」として東京・福岡を回覧中)においては、人間の移動=離散という二○世紀末の世界が経験する未曾有の激変を新たな世紀の展望へとつなげようとする意欲的で壮大な映像プロジェクトを世に問うたサルガード。彼が、難民や亡命者によって国家間の安定した地図が書き替えられようとする現代世界の最前線の目撃者であることは、たしかにまちがいないだろう。
だが、サルガードの写真を、「難民の世紀」といったような時代のキーワードを通俗的に援用しながら、人権擁護や難民救済の国際的なスローガンを補強する素材として利用し意味づけてしまう傾向は、私に大きな違和感を与える。たしかに彼は難民キャンプでの子供の姿を撮影した連作でユネスコの映像キャンペーンに協力した。あるいは、今回の展覧会のために来日した際、緒方貞子元国連難民高等弁務官とのTV対話に出演し、彼の写真の迫真の証言力を称賛する緒方氏のコメントに真摯に応答してもいた。だが、こうした文脈がいかに強調されようとも、サルガードの写真の示すヴィジョンをそうした常識的なヒューマニズムの作動する場に着地させてしまうことはできない。なぜなら、サルガードの映像は、ある意味で二○世紀がつくりだした「人道主義」の思想が最終的に破綻する臨界の地点から、生み出されているように私には思われるからである。
たとえば、最新の写真集『EXODOS』(これは「大脱出」をあらわす、ブラジルで刊行されたポルトガル語版のタイトル。英語版では『MIGRATIONS』と題されている)におさめられた、ブラジル北東部におけるMST(Movimento Sem Terra「土地なき運動」=正確には「土地なき農村労働者の運動」)に深くかかわりながら撮影された一連の映像が私に示唆するものは深い。ブラジルでは、植民地プランテーションの悪しき遺産としての大土地所有制がいままで残存し、五百万人を超える農民が耕作するべき所有地を奪われ、旧領主や企業に隷属する状態がつづいている。MSTの運動は、そうした土地を持たない農民たちによる土地の回復運動として進められ、ブラジルではここ十数年のあいだに、ほとんどデンマークの国土面積を上回る土地が、彼らによって奪還されたといわれている。
サルガードの写真は、貧しいセルジッペ州やパラナ州でのこうした運動の展開過程を、土地を求めて闘う離散農民たちの尊厳に満ちたイメージとして語る。だが、「土地なき運動」の可能性は、私にとっては、農民の土地所有という当然の形態への回帰であるというよりは、むしろ土地所有という強迫観念にもはや縛られない、人間と土地との新たな関係性の模索を示唆する運動として、より大きな意味を持つ。ブラジル農民たちにとって、土地の回復は単純な資本主義的所有形態への復帰であるよりは、むしろ土地という生産のための資源にたいするあたらしい共同体・結合体の創造を指向する運動だからである。
こうした点において、ブラジルのMSTの運動は、サパティスタという政治的アクティヴィズム運動に支援されたメキシコ、チアパス州の農地・水利権回復を求める農民運動や、鉱山開発によって生存を脅かされる非定住的なインドの狩猟漁労民ビハール族の抵抗運動などと、同じヴィジョンを共有している。サルガードの写真は、人道主義的な意味での抑圧や権利侵害を告発する以上に、世界中で普遍的な人類の覚醒が起こり、そのなかで新たな精神の均衡を求めて、移動民・離散民たちの意識の共闘が生まれはじめたことを示唆しようとしている。
その意味で、サルガードの写真はすぐれてミリタント(戦闘的)な姿勢を保っている。未来の人類の運命に、未知の進化の道筋を透視しようとする、それは歴史的なヴィジョンの大きな変革を私たちに迫るからである。
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