今福龍太が読む 24
島田雅彦『美しい魂』『エトロフの恋』(新潮社)
過去帳というものがある。点鬼簿とか鬼籍などと呼ばれたりもする、この手垢のついた帳面は、一族における死者の没年月日や戒名などを記載した、その名の通りすでに完全に「過去」となった事実を記載したものであるように見えながら、じつは死者と現在とをつなぐ「いま」に属する不思議な帳簿である。なぜなら、それは、死者を完全に死者の世界へと送りだすまでの年々の法要を忘れずに営むため、遺族に課された現在の必要をたえず喚起するためにこそあるからだ。少なくとも、身内の死から三十三年が過ぎ、死者を本当の冥土へと放擲する最後の儀式が終わるまで、過去帳に記された死者はこの世に残された者との対話をやめることがない。その意味で過去帳とは、死者がつなぎとめる「現在」との対話の強い欲望を示す、過去への不思議なタイムトンネルの入り口である。
過去帳に記された死者の名簿がたえず「いま」への蘇りを果たすように、過去の物語が、自らを語ろうとする欲望のなかで、つねに現在を賦活する出来事として「いま」に生き続けていることを、島田雅彦の「無限カノン」三部作は私たちにあらためて教える。盲目の語り部の記憶が物語の欲望を発火させる媒介となり、うら若き旅人が道行きの途上でそれら物語を現在へと引き継ぐ。この基本構造のなかで、島田雅彦の頭脳のなかに見いだされた物語の過去帳は、いまに託された「書く」という儀式を忠実に遂行してゆく。
私がまずなによりも打たれるのは、物語を牽引する至高のエンジンとして「恋」というモティーフに徹底して固執しながら、死者が残されたものに求める過去の法要を「書く」という行為として誠実に情熱的に取り仕切ろうとする、作家の真摯である。作家は前作『彗星の住人』(無限カノン第1部、新潮社刊)以来、二十世紀の歴史そのものを、そのような手続きのものとで、「歴史」が従来語られてきた客観的で冷徹な感情から引きはがし、それを一族が受け渡す「物語」の欲動として描き直す果敢な試みに邁進してきた。「無限カノン」の疑いなき本編である『美しい魂』が、至上の恋愛の描写を断行するために、歴史叙述の革新という目論見をやや前作より弱めているとしても、『エトロフの恋』という鮮烈なカノンの出口が、物語をふたたび近代国家「日本」の外部としての曖昧な領土へと押しだし、歴史の異形と奇想を予兆する。択捉島の絶望的な荒涼と孤独のなかで極限へと誘導されるメランコリーの描写は、日本語文学の極北に位置する新たな言語的達成だ。
いずれにせよ、私たちはこの小説を美しい夢のような悲恋の物語として涙とともに消費するわけにはいくまい。カヲルと不二子の恋の真実をその成就ではなく遅延として描くことで恋愛そのものを永続化し、愛の放擲によって悠久に育まれうる愛の可能性を信じようとする作者は、恋愛が物語の至高の駆動装置であるかぎり、物語の、即ち小説そのものの成就をここで拒絶しているともいえるからだ。たしかに『美しい魂』も『エトロフの恋』も、充分に劇的な大団円が用意されているように読めるかもしれない。だがそれらのフィナーレは、けっして物語を成就させ、完結させ、収束させる意図の下に描かれてはいない。物語の種子は、「いま」に蘇りながら、同時に「いま」を放擲して時間の彼方へと立ち去ってゆく。その方角は、ふたたび物語が現在への顕現を準備する、小説の聖地にしてネヴァーランドだ。物語が、私たちの現在に向けて豊饒な漂流を始めるのもまた、この未知の領土からである。
浜に打ち上げられるさまざまな物体が人々に世界を想起させるすべての源泉であるような沖縄・奄美群島では、漂流物を「寄り物」(ユリムン)と呼んで神聖視する。主人公カヲルもまた、エトロフの荒涼たる浜辺で、世界を更新する物語の漂流を待ち続ける。消費社会の残骸として、プラスティックの汚れた破片だけしかもはや寄りつくものがないと思われた「日本文学」という汀に、予想もしない「寄り物」を探す夢が、一つ生まれた。
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