今福龍太が読む 27
宮内勝典『焼身』(集英社)
強く烈しい希求の書である。
「9・11以後の世界」を論評し表現する数多の思想・創作行為が示す超然とした非介入性にいらだち、抗うように、宮内は思考の対象としてではなく、自らの生の軌跡そのものの一つの具現の姿として9・11をとらえ、その予兆的な光景に生身の記憶と行動をもって対峙しようとする。価値の崩壊と戦争化に突き進むこの「世界」という苛烈なシステムの刃先を見極め、傷を負いながら抵抗する自らの身体と意識の最後のよりどころを、誰よりも強く烈しく求めつづける小説家がここにいる。
その新たな希求の旅が展開するのは意外なことに現代のベトナムである。ベトナム戦争に揺れる60年代末、ニューヨークのスラム街に不法就労者として住んでいた著者の交錯する記憶の中で閃光を発し続ける一枚の新聞写真。サイゴンの路上で瞑想しながら我が身を焼く一人のベトナム僧の姿が、9・11の炎と瓦礫の光景のなかから不意に呼び出されたのだ。
40年近くも前に起こったこのベトナム僧の焼身、という過激な行為の意味を、政治や信仰の文脈で安易に了解することなく、火の雨をイラクに降らせ続ける現在の「アメリカ」の論理をくつがえす理念として救い出そうとするアジアの異邦人。ベトナムの外では名前すら知られず、忘却の淵に置き去りにされたこの僧に関する微かな情報だけをたよりに、妻と二人でベトナム南部の町々を彷徨する「私」の前に偶然の扉が次々と開いてゆき、ついにはあの写真の僧が炎上しながら静かに座っていたサイゴンの街の十字路に二人はたどり着く。だが名前も判明した僧の、生身の人間としての人となりを知りたいと願う「私」の問いかけは、最後まで、関係者による奇妙な沈黙によって謎に包まれたままだ。
僧の若き托鉢時代を追って、カンボジアの田園や廃墟をさまよう終盤の描写が心を打つ。メコン川の向こう岸で9・11以前の歴史景観に立ち還り、日常意識に寄り添いながら思考の拠点を作り直し、再び9・11以後の世界へと戻ってゆく。「現在」への、覚醒した果敢な再参入である。
(初出:「南日本新聞」2005年8月7日)
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