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今福龍太が読む 8

岡本太郎『呪術誕生』(みすず書房)


 岡本太郎がこの世を去って、この一月でちょうど三年になる。TVなどで晩年の岡本の奇矯な言動を面白がったり、眉をひそめたりしていた人々も、もはや彼の存在をどこかに忘れ去ってしまったようだ。没後、いまだに本格的・全体的な岡本論がほとんど出現しないという芸術批評や思想の領域の怠惰さも、この忘却の深さを例証している。「太陽の塔」はたしかにモノとしては大阪万博跡地に残されているが、その作者の内面に渦巻いていた過激なイデア(思想)をいま新たに引き継ごうとする者は、なかなか現れそうにない。

 岡本はたしかにひどく誤解された芸術家ではあった。奇抜で、反逆的で、哄笑と過激な毒気とが同居する彼の絵画や彫刻を、身勝手な画家の気まぐれと断ずる狭量で権威的な反応を、一般の人々もどこかで無意識のうちに踏襲していた。だから、岡本を人物として面白がったとしても、彼の思想や批評意識の片鱗にまで人々の視点が及ぶことはなかった。

 だからこそ、ようやく、画家・思想家=岡本の全体像を本格的に理解するためのテクストが全四巻の著作集として出版されたことは喜ばしい。昨年十二月から刊行が始まった、「岡本太郎の本」の第一巻は『呪術誕生』(みすず書房)と題されている。すでに絶版となり、古本でも入手が困難だった旧著作集の文章から精選されて私たちの前に差し出された岡本のメッセージは、どれもいまだに熱くアクチュアルな問題意識に貫かれている。  表題ともなった「呪術誕生」という巻頭の小論で、岡本はじつに簡潔に「芸術は呪術である」と宣言する。それは自分自身を呪縛し、自分にとっての神秘・不可解を自らに突きつける行為である。「共通の価値判断が成り立たない、自分一人だけにしかはたらかないマジナイ」、と岡本は芸術の呪術性を言い直してもいる。自分に自分でマジナイをかけてしまえば、もはやそれを外部から「理解」するすべはない。他者が呪術の中に入り込むことはできず、だからといって自分がしたり顔でマジナイにかけられた自分を解説することも不可能だからだ。それは拒絶であり、絶対的な孤独の行為なのだ。

 理解とか、鑑賞とか、定義とか、評価とかいった対応を徹底して拒む、岡本の孤高の意志を示す見事な文章である。岡本はまた、数年前に文庫版として復刊された『沖縄文化論---忘れられた日本』(中公文庫)でも、沖縄に漂う緊張に満ちた文化的な空気を、「理解」とか「共感」とかいった口当たりのよい反応を拒否する、鋭くかつ宇宙的な慈愛に満ちた「呪術」の場として深く描き出していた。だとすれば現在の私たちも、近代の抑圧と屈辱の歴史に本格的な反逆を開始しはじめた沖縄の民衆を目撃しつつ、彼らに心情的に「共感」してしまう前に、岡本の示す、透徹した「拒絶」の深淵にたいして感覚をとぎすませる必要があるのだろう。理解とは、安直な共感や幻想的な感情移入から生まれるのではなく、あるいは透徹した自己探求と拒絶の作法の彼方に姿を現すものかもしれないからだ。

 岡本の芸術論は、歴史や文化を読み解いてゆこうとする私たちの現在の関心を、さまざまに刺激してやまない。そして岡本を、職業画家であると考える誤りの根元はまさにこのあたりにあったのだ。彼は、職業的な芸術行為を通じて、芸術が「芸術」として社会に「認知」されてしまうシステムに徹底して抵抗し、反逆していた。その意味で、岡本の絵も、彫刻も、そして文章も、すべてある種の哲学の地平を指向していた。『呪術誕生』に収められた、若きパリ時代の交友関係のなかで培われた哲学や人類学、民族学との決定的な出会いの記述が、そうした岡本の思想の包括性を生き生きと示している。


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