世界料理宣言

世界料理の可能性
今福龍太

       
…… 文学や音楽、映画など今福さんが批評の対象としている分野と同様、食も社会経 済のグローバル化によって急激に変化しています。たとえば最近の世界的な料理の傾 向として、異質な食文化を取り入れながら、よりいっそう素材主義、シンプル化に向 かうという点で、料理のスタイルが非常に似てきているように思えるのですが。

今福 「世界の料理」ではなく「世界料理」と言ってみる。まずそこから始めましょ う。文学でいえば、「世界文学全集」というのは世界各国の文学の寄せ集めで、「世 界」は後でとってつけた名称です。この場合あらかじめ「○○文学」というナショナ ルな文学が自明のものとして前提されている。しかし考えてみればこれは非常に不思 議なことなんです。作者の国籍が文学の国籍であるというのは、実は何の必然性も根 拠もないことです。それは後からある政治的な意図をもってつくられてきたフィク ションにすぎない。
 料理も同じです。フランス料理とかイタリア料理とかいう名前ができたこと自体、非 常に新しい。そもそも料理を国籍に帰属させなければ食文化を分類できなかったとい うことが、フィクションの始まりなんです。ある国から見て、何かエキゾチックな食 べ物を○○料理というカテゴリーの中に配置していく。フランス料理や中華料理は体 系的な思想をもっているけれど、その名称が実態を指しているわけではない。今まで 私たちが「○○料理」と思い込んできたものは何だったのか、それをだれも問うてこ なかった。料理とその国籍認定という行為は根本的に違うということを、まず確認し ておきたい。だから既存のカテゴリーの中で○○料理がこう変わってきたというだけ では、何も見えてこない。変化というのは常に継続的に起こっているからです。今の 食の渾沌的状況は、私たちが幻想的な料理体系を一つの国籍に無理やり帰属させてき たという事実を、逆に露呈しているといえる。

…… 逆にいえば既存の料理の分類自体があいまいだということですね。

今福 「中華料理」は、広東、四川、福建など地域によって全然違う。さらに中国の 周辺にはそれに似た無数のバリエーションがある。それがわかっているにもかかわら ず「中華料理」と言ってしまう。西洋料理も同じで、フランス料理やイタリア料理も 無数の地方料理からなっているわけでしょう。
 「アメリカインディアン」には無数の部族的な文化ユニットがあるのを知っているに もかかわらず、いまだに一つの集団であるかのように「インディアン」と呼んでいる 。これはすごく暴力的なことです。私たちは近代以降、文化をカテゴライズする際に 同じ落とし穴にずっと陥っているわけです。

…… ただ最初の文学の例と、食の場合は違う部分もあると思うんです。食はもっとプ リミティブで、たとえば素材と密接に結びついている。

今福 そうですね。まったく同列には論じられないかもしれない。食べ物は植物も家 畜も魚もその土地の産物で、料理の体系とその土地とは密接な関係をもっているとい っていい。
 しかしです。たとえばイタリア料理にトマトは欠かせない素材ですが、そのトマトは たかだか500年前の新大陸発見によってもたらされたにすぎない。だからイタリア 料理の伝統といっても、せいぜい200〜300年にすぎない。朝鮮ととうがらしの 関係も100年かそこらで、辛いキムチが伝統といえるかどうか。そこには無数の素 材の出入りがあり、しかもその移植された素材が、トマトやとうがらしのようにその 土地の料理の体系を根本から変えていくということが無数に起こってきたわけです。 では料理の本質とは何なのか。何もないということになりかねない。私たちには常に そうした幻想があるのです。料理の基本は素材だといっても、それは今言ったように 借り物かもしれない。では調理の方法はどうか。「料理」というのは意外に新しい言 葉で、そもそもどの伝統社会にも料理したもの一般を指すような概念はなかった。日 本では「調」が料理を指し、また中華料理では焼く、煮る、蒸すなど火のかけ方以外 に料理を表す言葉はなかった。たとえば日本料理の「割烹」という言葉は、割は切る 、烹は煮るという意味です。「包丁」はもともと男性料理人のことで、いわば割は男 性的原理、烹は家庭的、女性的原理を指す。いわゆる日本料理は切るを洗練、煮るを 野蛮として疎外し、切るという男性原理にどんどん特化していった。日本料理のアイ デンティティをつくっていくうえで、そうしたフィクションが働いてきたということ です。そういう何らかのフィクションが、世界各国の料理を形成する過程で働いてき たという可能性は十分にある。
 切るというのは、つまり分節化することで、言語的分節化の論理に等しい。たとえば 今の世界的な素材志向は分節化の論理で、それが世界的な料理の傾向を支配しつつあ るとみていいのではないか。逆に、煮るという女性原理を各国料理からどう掘り起こ していくかということは、食文化の非常におもしろいテーマになると思いますね。

…… その素材志向ですが、最近の料理は素材と素材をストレートにぶつけて味わわせ るような傾向がありますよね。

今福 原形がわからなくなるような形ではなく、素材が見える形でということですね 。思いがけない素材同士がぶつかっている。つまり概念としておもしろく見せるとい うことで、料理はいまや明らかに言語化しつつあるわけです。たとえばわさびと西洋 の素材を合わせる。それを味覚として味わう前に、素材同士の衝突を概念としてイン パクトを与えようとしている。つくる側は舌が十分に言語化しているということを想 定し、それをさらにくつがえすような分節化を行った料理を見せる、つまり概念の衝 突として目で味わわせる、ということです。われわれの舌は細かく分節化していて、 味を言語的な意味論の中にすっと統合させるようなやり方を学んでいる。その中で料 理がつくられている。
 つまり料理は、われわれの舌がいかに言語的に分節化されてきたかを見せている。お そらく皿の上にのっているものは、ぼくらの舌そのものですよ。そこに奇妙な素材が 二つ並んでいるとすれば、それはぼくらの舌そのものの形になっているんです。自分 のタン料理を食っているようなものだ(笑)。

…… 鏡のように、自分の舌を見ている(笑)。

今福 そうそう。実はぼくは分節化される以前の舌がどんなものだったかということ をずっと考えているんです。以前メキシコのある村に滞在したときに、日本人の感覚 からすれば味覚を何ら刺激しないようなものを毎日食べ続けるという経験をした。ト ルティーヤと豆。それ以外には何もない。栄養的にはもちろん問題はないけれど、最 初は苦痛以外の何物でもなかった。それが1カ月、2カ月と経つうちに、驚いたこと にある種の快感に変わってきた。そして今まで押し殺してきた別の舌が目覚めてきた 。それは「主食の舌」です。料理というのはおかずのことで、主食の舌を無視してい る!(笑)。ぼくは今主食の舌にしか関心がないんです。
 なぜ人は主食というものをつくってきたのか。それは舌が主食を食べるという形でつ くられてきたからではないか。主食の舌は、おいしいかまずいか、ではない。同じも のを延々食べ続けるときに働く味覚のあり方。唯物論的にいえばそれは栄養摂取でし かないけれど、そうではなく、ヒトが初めて食べ物を味わったときに感じるようなま っさらな舌のありさま。それは今、グルメの舌に隠されている。主食の舌は、少しず つ分節化していった。それには言語の影響が非常に大きい。
 数年前、コメ騒動がありましたね。あのとき日本人がコメをどのように味わってきた かはっきりした。日本人はタイ米を拒絶して、今では味を細かく分類されたコメが出 回っている。霜降り肉と同じ舌で米を味わっていたわけです。日本には主食としての 米は存在しない。米をグルメの舌でしか味わうことができなくなっている。タイでは おそらく、米をひたすら食べ続けるという主食の舌が働いているはずです。
 いかに近代、主食の舌が抑圧されてきたか。今の料理評論はおかずしか見ていない。 その評論はほかでもない舌の構造がつくっている。しかし主食の舌を含めなければ、 新しい料理論は生まれないんじゃないか。それが可能かどうかは今はわかりません。 しかし、たとえば異なる食が混ざり合うことによってグルメの舌が解体され、再び原 点に戻って新たな食文化をつくり出すという可能性はあるかもしれない。それこそ2 枚の舌を使って。

…… それは単にかつての栄養摂取に戻るという意味ではないですね。グルメの舌をも っているという前提のうえに出てくる、第3の舌。

今福 そういうことですね。

…… 先ほどの主食の舌とグルメの舌ですが、私たちはしばしばエスニック料理など、 ある意味ではプリミティブな料理に妙にひきつけられるところがある。それは別の舌 が隠されていて、そこで常に別の文脈と接触しようとし続けているのかもしれない。

今福 まさにそうです。近代の舌は、別の舌を引っ張り出す力がなくなってしまった わけでは決してない。ぼくの経験のように、数カ月で違う舌が引っ張り出せるのです 。今の食文化論は、そのきっかけをつくることがまったくできないでいる。舌の構造 を温存したまま、新しい味を受容するだけ、それを腑分けするだけではまったくつま らない。頭でっかちで、まず頭脳でそれを壊してしまう。私たちはそうした概念的な 文化とのしがらみをどこかで振り切れるはずなんです。
 でも食の変化というのは、皿の上の料理だけに起こっているわけではない。ブラジル にアゼジーニャという食べ物があります。これは実は日系人がつくった「梅干し」な んですが、ブラジルには梅がない。そこで梅に味と食感が似たものを探していって、 ブーゲンビリアの花の額の部分を発見した。それにブーゲンビリアの花で赤い色をつ けてある。食べてみると見事に梅干しなんです。これが日系社会を超えて、ブラジル 人社会に広まっていった。人の移動が新しい食文化をつくり、土着の食を変えていく 。こうした例は無数にある。人の移動がノスタルジーを生み、それが食だけでなくさ まざまな文化をつくっていく。そうした動きが民衆レベルでものすごい勢いで起こっ たのが20世紀だった。
 それを含めて皿の上の料理を見ないとダメなんです。今の料理評論は土俵の外で起こ っているうねりとは結びついていない。料理に特化した評論が成り立つということ自 体、不思議なことですよ。あんまり言うと、この特集の根幹をひっくり返しかねない ですけどね(笑)。

…… いえいえ(笑)。でも異質な食の受容によって料理も確実に変わっていますね。

今福 料理が無国籍化していくこと自体は基本的には刺激的なことだと思います。あ る料理に何か新しい要素が入ってきて、それが国籍では定義できないような変化を被 っていく。その意味ではパシフィック・リムなどはおもしろい傾向です。ぼくは最近 アメリカではパシフィック・リム系の日本料理店に入ることが多いんです。外見は日 本料理店でも、中身は全然違う。パスタもあって、イタリア料理店よりおいしかった りする。そこでぼくがいいと思うのは、○○料理を食べにいくという感覚がないこと です。料理を食べにいくときの変なプレッシャーを捨てている、捨てることができる というのはいいことです。普通料理を食べにいくときは、ある「構え」がある。○○ 料理を食べにいくぞという。しかし料理を食べる前に構えをしなくちゃいけないとい うのは、不幸なことです。頭の中にある料理体系の理想形みたいなものがあって、そ れが実現されているかいないかだけを求めてしまう。そのとき舌は機能せず、ただの 判定装置、測定器になっている。それは構えがあるからです。何が出るかわからなけ れば、舌を準備できない。それで食べたときに純粋に快楽があるかどうか。本来はそ こで勝負していくべきです。無国籍料理がいいのはそこです。

…… カリフォルニアはそういう状況に近いですね。

今福 完全にそうです。その典型がスシ・バー。日本のすし屋はしきたりに恐いオヤ ジ、お勘定まで、プレッシャーがすごい。アメリカのスシ・バーにはそれがない。イ クラとうにを交互に注文する客とか、しょうゆにわさびを山のように入れる客とか、 めちゃくちゃだけど、見ていて楽しいし、リラックスできて、しかも安い。ここでは 日本のスシ屋がいわば冒涜されているわけですが、それはぼくにとっては非常にあり がたい。
 料理というのは、思想やアイデアで変わるように思うけれども、それは違う。ファッ ションが変わるのは、身体の組成が変わってその皮膚であるファッションが変わるか らです。それと同様に、舌そのものの変化が料理を変える。アメリカでスシ・バーが はやったとすれば、それはアメリカ人の舌そのものの変化なんです。
 そういうふうに考えてみると、たとえばアメリカのジャンクフードに対する見方も変 わっフードてくる。アメリカ人を萎えさせるにはジャンクを取り上げればいいという くらい、ジャンクフードはアメリカ人の舌の構造と密接に結びついている。だとすれ ばそれは単なる通俗的な食べ物ではなく、アメリカというイデオロギーの根幹と結び ついているのかもしれない。食を、文化‐料理‐人の間の構造的な関係として見てい く。これも料理論展開の一つの方向だと思います。そうすると、アメリカとジャンク フードの関係は、インカ帝国の人々がコカを儀礼的に飲んでいたということと、意外 に近いのかもしれない。アメリカ文化を根っことして、そこには共通構造がつくられ てきている可能性がある。

…… 最後になりますが、世界的な料理の傾向としてイタリア料理の影響が非常に大き い。今の構造という話でいうと、イタリア料理は非常にシンプルな構造をもっていて 、素材を変えることによっていくらでも料理のバリエーションができるという特徴を もっていると思うんです。

今福 それはサッカーと同じですよ。サッカーも非常にシンプルな構造をもっている がゆえに、世界化することができたという条件が似ているのではないですか。

…… 料理とスポーツは無国籍化という点で似ていると思います。たとえばどこかの国 で修業をして、帰国してまた「プレー」をするというふうに。

今福 まさにそのことをこの前ある雑誌に書いたんです。Jリーグのガンバ大阪にエ ムボマという選手がいます。彼はカメルーン出身で、今回のカメルーンのW杯予選突 破の立役者ですが、実はフランス国籍をもっていて、日本に来る前はずっとフランス でプレーしていた。そこでもしW杯でフランスがカメルーンと当たったら、フランス は彼を呼び返すのではないかと(笑)。だいたい今のフランス代表の選手はアラブ系や アフリカ系をはじめ旧植民地の選手ばかりで、フランス国歌さえ歌えないのです。 サッカーは構造が非常にシンプルで、世界中どこでもやれる。サッカーというシステ ムさえ移植すれば、選手やプレースタイルはいくらでも変換できる。いまやサッカー はナショナルな文脈をほとんど捨てて、世界に向けて流れつつあるというのが現状で す。

…… 料理においては、イタリア料理の洗礼を受けることによって、世界各国の料理が よりシンプルな自由なスタイルに革新していくという経緯が見られるように思います 。伝統的な料理体系の重い殻を、イタリア料理が打ち破ったというか。

今福 抑圧を解放した。もしそうだとすれば、それはイタリア料理というナショナル なものが拡大しているのではない。食そのものに内在するシンプリシティが再発見さ れたということかもしれませんね。


聞き手:佐藤真(アルシーヴ社)


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