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壽岳文章・静子『紙漉村旅日記』1944年 明治書房

ずっしりと重く厚いのです。全四百九十四ページ。昭和19年という厳しい時期での出版ながら、この普及版でさえ、表紙・見返し・前扉・本扉には手漉き和紙を使い、さらに巻頭と巻末にそれぞれ紙漉の里の位置をあらわす列島全図と、訪問先の村々の詳細を示した目次とが、三つ折りの横長の和紙にていねいに印刷されています。この前年に、壽岳文章みずからの「向日庵」私家版として150部のみ制作した越中の本高熊と佐賀の傘紙からなる特装私版本がいかに美しいものであったかが、この略装本からもうかがわれます。

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本書の特装私家版には、陸奥・白石産の純楮紙に印刷した土地土地の写真や代表的な産紙の断片が、虫害のおそれのない蒟蒻粉糊で該当の頁に一つ一つ貼り付けてあったとのことです。戦時下の厳重な灯火管制のもと、来る日も来る日も、京都近郊の北向きの三畳の一室を作業場としながら、文章・静子夫妻は、小さな益子焼の手あぶりにかじかんだ手指を時々あてながら、半年もかけてこの私家版の仕上げに専念していたのです。戦争で何もかもが狂っていた時代、このような「狂いのない文化形象の立派な仕事」(戦後の駐日英国大使ピルチャーの壽岳夫妻への言葉)に黙々と集中していた著者たちの心の内奥を思うとき、非常時においていかに日常を創造的に生きるべきかについて、大いなる示唆を与えられます。

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昭和十二年から十五年にかけての、日本全土の紙漉村での調査見聞紀行が本書です。なんとも素朴な旅日記です。しばしば夫婦で、ときに小さな子供たちも伴った、家族旅行の親密な気配もときに漂います。そのなかで、全国の、寡黙ながらたしかな腕を持った紙漉職人たちのつつましやかで、かつその細部において豊穰な世界が浮き彫りになっていきます。もちろん、時代のさまざまな圧力によって、手仕事の世界がおびやかされている現実にも目をそらしていません。紙漉職人たちの柔軟な対応と、生存への意思が伝わります。

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わたしたちも、この壽岳夫妻の旅日記をひとつの導きの書として、すこしずつ、折りに触れて、列島の山里にひっそりと生き残る紙漉きの村々を訪ね歩こうと考えています。けれど、かならずしも「和紙」という伝統工芸品そのものだけが目的ではありません。七世紀頃に中国・朝鮮を経由して紙漉きの伝統が入ってくるまで、日本には紙がありませんでした。人々は木の皮や、そこから造った粗末な織物を紙の代わりに使っていました。日本語の「紙」(カミ)は、「樺」(カバ)ないし「皮」(カワ)という音と根っこをおなじくする、というのが壽岳文章の仮説です(『日本の紙』1944、『書物の世界』1949)。柳田國男も『雪国の春』で、東北地方で蔵書などをたくさん持つ旧家が「樺皮(カバカワ)の家」と古くから呼ばれていたことを書いています。白樺やブナや山桜の樹皮に文字を書いてきた列島の古い習慣が、この「カバカワ」という音に込められているとすれば、そこに「カミ」という言葉の発生を求めることはたいへん自然の理にかなっているように思われるのです(英語のBookの語源も、古ゲルマン語のBok(=ブナ)からきていました)。そのような、人間がことばを書きつける原初の媒体としてある「カミ」という、知性発生の基礎体(マトリックス)にこそ、わたしたちの興味の源泉はあるのかもしれません。

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最後に裏話をひとつ。本書は、たしかに壽岳夫妻による旅日記ですが、役割分担があったようです。おもに、旅先の風景の叙述や紙漉村の描写は妻が、紙漉きに関する専門的な記述は夫が担当する。あとで思いだして書くと誤りも生じるので、現地でお互いの日記を整理する。そのため朝5時に起きていながら夜は日記を書き終えるまで深夜12時を過ぎても寝ずにいることもしばしば。村人の語りはそのままに聞き書き、たとえあとで事実の誤りが判明しても、村人の生きる世界をそのまま写すために修正は加えない。「忠実な探訪者」の態度をつらぬく、というのが著者たちの心構えでした。見習いたいものです!

紙漉村旅中の著者たち(千曲川のほとり)  土佐和紙の里・細々にて(紙乾し)

*本書は『壽岳文章・しづ著作集5 紙漉村旅日記他』(春秋社、1970)にも収録されています。