2021年11月半ばのとある晴天の日、竹橋の東京国立近代美術館で開催されていた大規模な展覧会
「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」を見に行きました。1925年、京都に転居した柳宗悦が濱田庄司や河井寛次郎とともに、手仕事によって生れる日用の工藝品の美しさを讃えるため「民衆的工藝」を略して「民藝」と名づけ、独創的な思想文化運動を展開してから一世紀。この展示は、民藝運動の軌跡を柳らが蒐集した簡素にして洗練された陶磁器、染織、木工品などの展示によって振りかえりつつ、運動にかかわる出版物や書簡・原稿・写真などを幅広く集めて展示したものでした。
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今回、モノの展示以上に私の目を引いたのは、民藝運動が器物の蒐集と展示だけでなく、「出版」による思想と人のネットワークづくりでもあったという点を浮かび上がらせていることでした。その点を強調するため、多くの書籍や雑誌、さらには地図などが展示されていましたが、そこから柳を中心とした「編集」的な動きが立体的に見えてくることがとても印象的でした。1931年に創刊された民藝運動の機関誌『工藝』のさまざまな号が置かれていましたが、一つ一つが、その表紙の紙の質感、絵柄のデザイン、中に描かれた小間絵(挿画)、貼り込まれた写真や和紙や布によって、けっして時流や経済性に妥協しない、柳の「出版」の志のたしかさを語っています。
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民藝運動の軌跡を浮かび上がらせる重要な書籍・雑誌の展示のなかに、島根は岩坂村の紙漉家に生まれた和紙職人・安部栄四郎の『紙すき五十年』(東峰出版、1963)があって、わたしは嬉しくなりました。柳宗悦の提唱していた「民藝」の道程に、紙漉きの実践運動を参加させた最初の人が安部栄四郎(1902-1984)だったのです。わたしの和紙への関心は英文学者・書誌学者で和紙研究家でもあった壽岳文章の感化によるものですが、壽岳の序文によって飾られたこの本は、出雲の和紙造りの里に生まれた一職人が偶然に民藝運動の思想と出あい、洋紙がはびこりはじめ和紙の制作にも合理化と質の低下の動きが起こっていた時代に、ごまかしのない純手漉き和紙の制作を志すことになる経緯を語った詳細な自伝です。美しい型染がほどこされた函の用紙はもちろん安部自身による出雲民芸紙、見返しには棟方志功による手漉き工房の風景を描いた版画が雁皮紙に印刷されて異彩を放っています。1933年(昭和八年)に出た『工藝』二十八号は「島根の和紙」を特集していて、そこには安部栄四郎の手漉きによる十五枚の岩坂の和紙が貼付されていました。それらのなかでも、雁皮を特異な「溜め漉き」の手法で漉いた紙は、これ以上ないというほどの純粋な和紙の無垢な姿をしていて、質感といい色といい惚れ惚れするものになっています。
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最後に、本書にも引用されている柳宗悦の和紙礼賛の一文をここに引いておきます。
「私は純和紙にいつも心を惹かれる、質から来る美しさがにじみ出てゐる。天然が篤く味方してゐるから悪からう筈がない。此の頃洋風の紙が盛んになつた為、とかく和漉きのものが忘れられがちだが、当然もう一度見直される時が来ねばならない。味から云つても強さから云つても和紙を越えるものが無いのであるから・・・。それに今の生活に適ふ使い道がいくらでも考へられる。私は和紙で日本を語ることに悦びを覚える。どこへ出しても引け目はない。今後この固有のものを育てないのは嘘だと思ふ」(たくみ工芸店「和紙の展覧」案内状、1934年)。
このオマージュ文は、安部栄四郎制作の美しい耳付き雁皮紙に印刷されたものでした。