山梨県南巨摩郡身延町にある「西嶋和紙」の里を初めて訪ねた。鰍沢から身延へと山峡を蛇行して流れる富士川沿いに広がる小さな村である。少し上流には、河原に産する黒い緻密な粘板岩を繊細に加工した有名な「雨畑硯」の工房も点在し、そのおなじ流域に手漉き和紙の伝統を今に伝える西嶋地区がひっそりと静まりかえっている。まずは町営の複合施設「西嶋和紙の里」に立ち寄ることにした。夏休みも終わっているので人もすくない。中に入ると紙漉き体験ができる場所と西嶋和紙の歴史が紹介されているコーナーがあり、さらに紙の博物館といってもいい「紙屋なかとみ」の店がある。ここには全国の和紙が2500種あまり集められており、すばらしい品揃えだった。さまざまな画仙紙や半紙、葉書、一筆箋など、初めて出会った西嶋和紙の風合いもすばらしかった。
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町のなかの工房を訪ねてみたいとおもい、集落のなかへ。手漉き和紙工房「山十製紙」の看板を見つけ、訪ねてみることに。全国の手漉き和紙の里を訪ね歩いている者ですが、初めて西嶋和紙を見にきました、と声をかけてみると、親切に招き入れて下さったのが第十三代・笠井伸二社長。とても話しやすい親切な方で、この日の作業をしながら、西嶋和紙の成り立ちなどお話をたくさんしてくださった。山十製紙では、この里で60年ぶりに女性手すき職人が誕生したというニュースがこの夏新聞記事となったことが話題のようだ。女性には重労働過ぎるといって何度も断ったのだが、情熱にほだされて入門を受け容れた、というその女性が工房で黙々と紙を漉いていた。
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西嶋和紙は武田信玄の家臣・望月清兵衛が伊豆の修善寺で和紙製法を学び、1571年に技術を持ち帰り広めたとされている。最盛期には100軒以上あったという手漉き工房もいまはわずか4軒。山十製紙も初代笠井久兵衛が寛永20年(1643年)にはじめたという古い歴史を持つ。現在の当主の父親、第十二代・笠井成高氏がセイコー式簡易手漉き装置を発明し、一定の濃度の原料を連続して汲み込むことができ、作業の重労働を軽減しながら誰でも安定した紙が漉ける手動式の大型機械が導入された。この方式はいまやアジア各地の工房でも紙漉きの技法として受け継がれているそうだ。いまの西嶋和紙の主な原材料は、三椏の入った故紙と西嶋産の稲藁とのこと。稲藁を使うことで筆の当たりの柔かさが生れるという。足踏みで、後ろの水路を流れる紙の材料を混ぜ込んだ水をパイプからバシャーンと引き込み、簾桁で繊維が均等になるようにゆらし、すばやく剥がした紙を漉き紙床に敷いていく。一畳を超える簾桁を扱い一日約8時間繰り返す作業は重労働。一枚一枚積み重なった紙床を圧縮し、この塊のシト紙を一ヶ月ほど自然乾燥させておくスペースが屋上にあり、そこからは前山の彼方に富士山の頂も眺めることができた。工房を快くみせていただいて、とても勉強になった。
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画仙紙や書道用紙だけでなく、山十製紙ではいろいろな新しい製品開発に向けて意欲的な取り組みもおこなわれている。三椏あるいは楮100%で漉かれた厚手のファインアート紙「おおむらさき」は写真印刷するとまるで絵画のようなテクスチャーを生み出す逸品。さらにひまわりのたねを混ぜ込んだひまわり和紙、あるいはSDGsをめざす企業から依頼されて制作している、漂泊していない故紙100%とnonGMO(非遺伝子組み換えの自然交配種)の種(カモミールや忘れな草、ヴィオラなど)を原料にして漉き込んだ、自然に還る再生紙「シードペーパー」(「花咲く和紙」)など、どんどん新たな手法に挑戦している。シードペーパーを水につけておくと、紙からすぐに小さな双葉が発芽するという。紙の新しいイメージだろうか。いろいろな発見をいただきました。ありがとうございました。
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この地に紙漉き文化が栄えた理由は裏山から流れ出す清らかな水である。山十さんは沢奥(さおき)と呼ばれる水源を持ち、西嶋和紙をはじめた望月清兵衛の家があった近所には金山(かねやま)の水とよばれる泉が湧いている。現在もこの水はこの地区の住民の生活用水として一部利用されている。その水を見てみたいとおもい、清兵衛さんの家があったと思われる方に行くと、その家のお向かいにお住いの気さくな媼が庭に引き込んだ水を見せてくれた。和紙文化を数百年育んできたこの水に触れ、飲んでみた。山の上にゴルフ場ができて農薬をたくさん使っているので水質が心配と話す住民もいるというが、私たちが飲んだ金山の水は冷たくて澄んだ美しい真水だった。