2026年5月17日、麗らかな初夏の快晴の一日、わたしたちは越中富山・神通川沿いののどかな県道を南下して八尾町の「桂樹舎」をめざした。富山空港を左に見て神通川から離れ婦中町に入ると、あたり一面麦畑が広がった。収穫直前の、茶色に色づいた麦の穂の連なりが眼にまぶしいほどだ。富山市内から40分足らずで、井田川沿い、八尾の町に入る。渓流をはさんで傾斜地が広がり、集落が山峡に伸びている。典型的な紙漉の里の風情がここにもあった。
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わたしたちの目的は、八尾の手漉和紙の伝統をいまも残す唯一の紙漉工房「桂樹舎」を訪ねることだった。山の手にあった小学校の分校が廃校になり、その建物を昭和60年に井田川沿いの鏡町にある工場の脇に移築して和紙文庫(博物館・資料館)としたのが「桂樹舎」である。学校の面影も残しつつ、素朴かつ優美に改装された雰囲気のある建物だった。現在の当主、二代目の吉田泰樹さんが、丁寧に私たちの質問に答えてくれた。八尾の和紙は、もともと江戸時代の元禄年間(1688-1704)にはじまったとされ、藩主の奨励のもとに、越中の売薬屋とともに発展した。薬を包む薄い紙である「薬袋紙」(やくたいし)が求められたからである。柳宗悦の『民藝紀行』(岩波文庫)の記述によれば、八尾では楮に紅殻を入れて落ち着いた赤い色に染めたものが作られていたという。さすがに「越中富山の薬売り」といわれただけのことはある。売薬業とともに、当然、それを心を込めて包む薄紙が必須だったわけで、最盛期には桂樹舎から室牧川上流に行く川上の高熊(たかくま)、野積(のづみ)、仁歩(にんぶ)、大長谷といった地区に百件を超える紙漉の家があったそうである。いまは薬のパッケージも完全に変わり、それにともなって薬袋紙を作る紙漉の家は次々と消え、昭和50年頃には八尾の和紙工場も桂樹舎一軒を残すのみとなった。
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蚕紙(明治期)
もう一つ面白い話を聞いた。薬袋紙とともに、この地域の和紙生産の中心をなしていた紙が「蚕紙」(さんし)ないし「蚕種紙」(さんしゅし)あるいは「蚕座紙」(さんざし)と呼ばれる、蚕の卵(種)をその上に産ませて養蚕地域に移送するための台紙であった。柳宗悦は「蚕の種紙」と書いているが、それは柳にとっても紙の用途として「思いがけないもの」だったようである。「上に襞を有つ厚手の紙で板のような張りがある。私は私版本の表紙にこれを用いたく百枚ほど贖った(……)。地方的な需要は不思議な紙を生産させる。日本国中を探したら、まだ色々匿れていよう」と柳は書いている(『柳宗悦 民藝紀行』)。八尾で生産されていた蚕紙はたいへんな利益をこの土地に生み出していたようで、おわらの祭りに使われる山(山車)の六台が、蚕紙の収益によって作られたのだ、と吉田氏は話してくれた。
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一方で、薬袋紙や蚕紙だけでなく、江戸後期から明治にかけて植物染料や顔料などを用いて染めた染紙もつくられ、この染色技法は現在も受け継がれて、桂樹舎はいま全国第一の生産拠点となっている。これは「八尾民芸紙」として知られる、品のいいさまざまな自然色に染められた無地の手漉き色和紙である。型染の施された紙製品が特徴的だ。色がとても豊富で、切り絵、折り紙、その他さまざまなクラフトに向いている。手触りも風合いもよく、柳宗悦は「感心した紙の一つは越中八尾の産である。・・・如何にも和紙らしい和紙である」と『和紙の美』で述べている。初代当主の吉田桂介さんと深い交友を結んだ型染の工芸家・芹沢C介は、こよなく八尾の和紙を愛し、あの「芹沢C介カレンダー」は長くここ桂樹舎で作成されていた。
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資料館も、紙の歴史を中国の竹簡やメソポタミアのパピルスやポリネシアのタパにまでたどった、簡素にして要を得た展示でとても気に入った。二階屋を広く使い、所々におかれた質素で重厚な木工椅子に座って休むと気持ちがいい。民芸関係の書籍も展示してあり、柳宗悦や寿岳文章の稀覯本もあって、わが家の書架との連続性を感じて嬉しかった。売店で気に入った和紙便箋や耳付き葉書をまとまって買い求めた。郵便番号の記入欄が付いていないものがあれば、と訊ねると、まだ印刷所に送る前の葉書を奥からとりだして持ってきてくれた。とても親切な主人で、敷地内に車をしばらく置かせてくれるというので言葉に甘え、「おわら」で有名な八尾の町を散策することにした。
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「手打ち蕎麦 高野」で美味しい冷やしおろし蕎麦を食べ、「おわら資料館」で三味線と胡弓と歌の練習を聞いたあと、桂樹舎の駐車場に引き返す。「風の盆」の行列がゆく石畳道は少しきれいに整備されすぎていて、風情は消えてしまった気がする。温泉に立ち寄って汗を流し、富山市への帰途、行きがけに見た麦畑の脇に車を停めて写真をとる。麦の色が目に焼きついた一日だった。うどん、ソーメン、パン、スパゲッティ、そして焼酎まで生み出す金色の穂たちよ、ありがとう。わたしたちは麦の子どもたちが大好きです!