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管啓次郎
Keijiro Suga

コヨーテ読書 10
わかれ、わかる−あるいは「ガラスの力」
東松照明+今福龍太『時の島々』をめぐって


 まず、水とは一種の鉱物なのだということを思わされることになる。

 これはたしかに海であり、上のほうに浮かんでいるのは濃い夏の白雲だ。

 それ自体、微細な鉱物としての水滴のおびただしい集積である孤独な雲のむこうに、われわれにはじまりからはじまってすべてを与えた太陽が身を隠し、隠しつつ現していることがわかる。その雲に眩しさが宿っているからだ。

 ぼくはいつもふしぎに思ってきた。なぜ太陽は、それが紙片に焼きつけられたときにすら眩しいのだろうか、と。たとえばいまは不眠の夜で太陽そのものの光は現実にはどこにもなく、ぼくはこうして開いた白いふちどりのあるページをありきたりな電球の光で見ている。紙片にある太陽の印象とは、したがって、この小さな光がかつての大きな光の残した痕跡に反射してこちらにむかってくる、それだけのものにすぎない。

 それでも、痕跡そのものの眩しさは変わらない。そしてそもそもの痕跡を残した大きな光につねに憧れる小さな光によってすら、痕跡そのものが輝き、われわれはそれを見るたびに太陽の尖った鉛筆によって目を射られる。雲の背後に隠れた太陽は海面にまっすぐに光輝の線を下ろし、海面は明らかに流動を含みながら硬く、あくまでも硬く、くろぐろと流れた溶岩の平原のように荒涼として広大だ。うねりはあるが、動きは完全に消えている。この鉱物的な非情に静止した海は、たとえば次のように言葉につむがれ召喚されただけの非在の海の音と生命の持続感の、対極にあるものだ。

 

                  (デレク・ウォルコット『オメロス』)

 

 これに対して、いまぼくが目の前に見ているモノクロの写真(という物質)が提示する鉱物的な海は、死のように静止し、まったくの静寂に沈んでいる。言葉(というよりも歌)が呼びだす、死をつつみこんでその彼方にある生の運動に対して、写真は生をつつみこんでその彼方に、死の静止としてある。

 「東松照明」というすばらしい名前−−それはたぶん本名なのだろうから誕生時の命名とともに未来の職業を運命づけられていたとさえいいたくなる−−をもつ写真家がつかみとった南島のある日の海の光は、波立つ水のもつ鉱物性をはっきりとしめすことにより、ひるがえってあらゆる写真に移された情景の鉱物的な性格、死の層、不変の相を、暗示しているようだ。

 今福龍太が編集し、東松の写真と今福の文との対話/交響として構想されている『時の島々』(岩波書店、一九九八年)では、東松の一九七五年の写真集『太陽の鉛筆』からとられたこの太陽の一瞬の記述が巻頭におかれていて、この本は改めて
 「瞬間」と「持続」の、
 ごく小さな個人の「生」と何かつかみどころのない大きさをもつ「歴史」の、
 光が一瞬に記す「写真」と言葉が何度もおなじ手つきを反復するようにしてようやく造形する「文章」の、
それぞれが相互に貫入したような交錯の関係を、人に考えさせる。

 水という流動にその鉱物としての静止の相を与えるように、歴史という流動にも、写真は透明なガラスのような静止の相をもたらす。ガラスとは極度に粘着力の高い液体であり、それは通常の時間感覚では計れないほどゆっくりゆっくりと流れていること(たとえば一枚の窓ガラスは長い長い年月のうちには下のほうが次第に分厚くなってゆくこと、あるいは水平にわたしたガラス板の上に一個の石ころを置いてそのままにしておけば長い長い年月のうちにはその石ころがガラス板をつきぬけて落下してゆくということ)はよく知られているが、それならレンズという液体、それも外在化したカメラという装置のレンズと人の目に内在する生体レンズの二重の協働によってはじめて写真に与えられる見せかけの静止もまた、じつはある持続、ある流動を変わることなくはらんでいるのは当然なのかもしれない。そこには、性質の転移、とでもいった事態が想定できる。

 それはガラスの力だ。写真の与える映像が現在のわれわれの記憶のモードを深く規定し、われわれにとっての歴史のイメージを根底から支えていることは疑えないが、少年時代に起こったアメリカによる敗戦国・日本の占領を写真家としての出発点におく東松のスナップ・ショット群が、はじめから苛烈な歴史感覚につらぬかれていたことには、まずこのガラスの力に対する鋭敏な目覚めがあったといってもよさそうだ。異物としての「アメリカ空間」が日本列島の各地にさしこまれる。そうした基地のひとつに接した場所で育ちつつあった十五歳の

 

 

 金網から流出する、恐ろしくもあれば魅惑的でもある、得体の知れない、途方もなく巨大で強力な異物のイメージ。現在形の歴史として進行し、自分の生きる社会を刻々と物質的に変貌させてゆくそのイメージの力を対象化し理解するために、少年はガラスの力にむかう。事件としての歴史は、それ自体を自分が巻きこまれたその場で同時的に理解することはできない。つかのまにせよ、それが絶対に自分とは隔てられた過去、どんなに手を延ばしても触れえない非在の空間に送りこまれて、はじめて理解がはじまる。

 いいかえれば、そこに一種のガラスがさしこまれるのだ。そこで起こったことが生々しく、細部にいたるまでくっきりと見えるにもかかわらず、それは電車の最後尾の窓から逃れ去ってゆく線路とその周囲の風景を見つめるように遠い。このままの姿勢で、われわれはただうしろむきに、ものすごい速度で歴史を経験する。ただそのスピードは、ガラスの力によって極度の変容をこうむり、われわれが「歴史を見た」と思うときにはそれはもう静止と区別がつかないところまで減速させられている。過去の一点がガラスの力により選別され、四次元の時空が二次元にまで抽象されている。ガラスの力が、自己と対象を分け、流動をはらんだ静止の映像を記憶に定着させる。カメラのレンズとは、誰もがすでに使用しているそんなガラスの力の結晶であり、写真機とはもっとも確実な、言語の前段階をひきうける歴史の記述装置なのだ。

 しかし写真は、特にスナップ写真は、言葉をまぬかれえない。この本におさめられた圧倒的な写真のどれも、それが人物を写したものであろうと風景や動物を写したものであろうと、言葉を呼ばないということはないのだ。どんなに言葉を失う−−われわれの判断をさまよわせる−−写真を見ても、そこに言葉への指向性が芽生えないということはない。つまり、それが「スナップ写真」であるという了解があるかぎり、われわれはそれを広大な歴史の網をなすひとつひとつの結節点として見ずにはいられない。そして写真家によってひとつの名が(人名や地名が、撮影日時が)与えられれば、その名を取り消すことはもうできない。

 そこまでが写真家の仕事だった。だがその先に生じる−−要請される−−言語の経験に関しては、人はふたたび自分が何者でもない位置に立たされることになる。つまり、撮影者であるからといってその写真から出発してたどられてゆく言葉に関して何らかの特権的な見通しをもつことはありえないし、あるいはその写真とは別の点からそれに平行した線を引いてゆくことに何らかの正当性を見いだすこともできないからだ。たしかに「その写真」と関わりつつ、そこから先にはある言語的フリー・プレイの茫洋とした領域がひろがる。それは写真にとって絶対に必要な裏打ちであり、またわれわれが歴史を経験する仕方そのものの雛形であり、それについては誰ひとりとして、「このように語ることができる、このように語ればいい」という秘密を握っている者はいない。

 そこに、写真をめぐるコラボレーションの可能性・必然性・不可避性が、同時に生まれる。戦略は二つある。個々の写真そのものから連想の糸をたどり、ひとつの大きな織物をつむいでゆくこと(その織物に浮かぶ紋様は「歴史」にいやでも似かよってくるだろう)。あるいは、個々の写真そのものからは離れて、平行した時間性(の可能性)を、みずからの冒険として記してゆくこと(ここでは大きな織物は形成されず、川の流れの中に投げこまれた捨て石を足を濡らしながらたどるようなその動きに主眼がおかれることになるだろう)。みずからの作業を「時の島々」と呼んだ今福の選択がどちらにあるかは、改めていうまでもない。

 写真家はみずからの写真に署名する。もっともなことだ。たしかに写真というのは自動的な技術ではなく、そこでは強烈に写真家の自分−−みずからの分け前−−が露出するのだから。けれども、にもかかわらず、やはり写真(特にスナップ写真)にはつねに天佑・恩寵・偶然・僥倖のいずれかの名で呼ぶしかない何かが介入し、写真家はあらゆる芸術家の中でもっとも匿名性に近い位置で仕事をする者だと、ぼくには思える。

 一方、体験と記録の専門家である文化人類学者もまた、みずからの体験を咀嚼し反芻した上で生じうる記述に、署名を避けるわけにはゆかない。それは倫理的な問題だ。けれども、にもかかわらず、その記述が前提とする知識の布陣や歴史の展開が大小さまざまな規模と水準で設定される共同性に必ず立たざるをえない以上、文化人類学者の仕事もまた、ある本質的な匿名性においてはじめてなしとげられるものだ。

 本書は、この匿名性の契約において写真家と文化人類学者が「無私」の協働にとりくんだ、希有の例だといっていいだろう。東松の一連の写真に対する解説ではなく、ひろく「時」の島々をめぐる伝い歩きとして構想された彼自身の文をはじめるにあたって、今福が「別離」と「理解」の関係をめぐる考察をその出発点においていることは興味深い。

 

 

 離乳期の母との別離によって、人は空間と時間に生まれる。幼児期の父との切断(父親の対象化)によって、人は世界と歴史に生まれる。さきほど仮に「ガラスの力」と呼んだ、ある透明な隔てが発生することで、人は対象と決定的に「わかれ」、対象が何事であったかを「わかり」はじめるのだ。ガラスの力の集約である写真とは、いわばこの根源的別離の、そのつどの反復だ。これはわれわれの理解の前提であり、同時にわれわれに理解を強いる−−われわれを言葉へと駆り立てる−−ものだ。もちろんすぐれた写真は、時として、絶句を強いる。しかしその上で、必ず、言葉への呼びかけをおこなっている。

 その刺激をうけて、われわれは「世界」と「歴史」への、最終的到達のありえない接近を、自分が生きているかぎりは反復することになる。文章とは、その接近の運動以外の何物でもない。写真の、生をつつみこんだ死の静止から、言葉の、死をつつみこんだ生の運動へ。それは一見静止したガラスが、あまりにも緩慢に、しかし確実に流れていることを見抜こうとする試みだ。同時に、「自分」がいかに自分の別れてきた世界のすべてのものの「分け前」にすぎないかを自覚しつつ、その上で「理解」がもたらすガラス越しの記憶をふたたびガラスの手前の直接性として、他の人々の手がたしかに触れうるかたちに、造形し提供しようとする努力だ。

 「火星人の干物」をめぐる目の覚めるような断章(38−39ページ)は、今福龍太の書いた最良のページのひとつだと思う。

 

  

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