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管啓次郎
Keijiro Suga

コヨーテ読書 12
破片と図柄−デニーズ・レヴァートフの『テッセラエ』


 

 

 そう彼女は書いていて、人がそのような気持ちにさせられる海岸はたとえ一人の人間があるひとときにいられる海岸が「そこ」でしかなくてもその海岸はすでに一つではなく、あらゆる海岸は開かれた迷宮として世界の別のすべての海岸にそのまま連なっているのだとぼくは思う。そしてそれをいえば人間の存在そのものが、そんな風に明瞭に区域を分割することのできないまま海岸に海岸が重ねられ溶けあうようにひろがりつづけ、そこでは貝殻が岩とともに砕け波に洗われ削られやがて砂となり、砂には珊瑚もクジラや魚やぼくらの骨も混じり、おなじプロセスを経て同化される。

 その歴史のはてに生まれた砂浜はまばゆく輝く死の連続性の光景だが、それは明るく、平等で、自由で、永遠だ。ぼくらはそんな砂浜で、波の奇蹟的な反復の音響に乗って、生きるという単純な事実のはじけるような躍動ぶりを確かめるため、日没にむかう時間を、ひたすら舞踊の練習に励むのだ。クラクトンの海岸で、毎日バレーの練習をした、少女時代のデニーズのように。跳べるから跳び、舞えるから舞い、歌えるときには歌い、祈りの代わりに踊り、ついでそうしてたしかに経験した動きを、記憶により反芻する。言語により、とり戻そうとする。とり戻し、刻もうとする。その刻みをうけた岩板が、やがて砂に埋もれ、砕け、必ず磨滅し分散してゆくことを知りながら。

 

 「テッセラ」というラテン語の単語は、モザイクを構成する嵌石の一かけらを意味する。その複数形が「テッセラエ」だ。ロシア系ユダヤ人の父親とウェールズ出身の母親のあいだに一九二三年にイギリスで生まれアメリカ(ここシアトル)で昨年死んだ詩人デニーズ・レヴァートフが、さまざまな回想や過去の事件についての推測を記した短文集(一九九五年)には、「モザイクのかけらの群れ」というその複数形が、タイトルとして与えられている。このところずっとこの本が机の上にあって、それを何度も手にとりながら一つ一つのテッセラを読んできた。あるいは、それに朝や夕方のさまざまな光を当てて、かけらを見つめてきた。すばらしい文章だ。この文を学びたい、と思った。

 ある本は、そこに書かれた内容を超えて、その息づかい、筆致、全般の色あい、局部的な構成、図形の把握、上塗りの仕方といった、つまりは「文章」そのものの、絵画の制作過程とどこかつながってくる技芸の秘密のために、長い年月に何度も手にし、読み、学び、また遠ざけ、ふたたび接近し、それとともに生きてゆくことになる。「私」の書くすべての文−−書く文だけではなく本当は「私」の語るすべての言葉は−−そのようにして学んできた技法により、学ぶとともに掠めとってきた素材のかけらを、一つの壁面にちりばめてゆくものにすぎない。

 実際、人の生とは、いかに多くのかけらから成るモザイクであることか。そして一つの生の図柄のために使われる破片は、いかに多くの起源をもち、いかに多くの他の生から借りられたものであることか。

 「文」を構成する種々雑多なかけらが、あらかじめその「文」がかたちをなす舞台を超えて遠い野原や海岸や都市の広場や森にそのまま連なっているのとおなじく、人の生はあらゆる接点をおのずから見つけて、他のさまざまな人々の−−または「人」の観点から把握されることによりある程度「人」とならざるをえないさまざまな他の動植物や風景やすべての存在の−−中に、少しでも水が感知されれば根を新たに延ばしてゆく樹木のように、みずからを延長し、編みこんでゆく。そして人の生は、人が言語を使う動物であるかぎり、「自」と「他」の区別をつねに超越し、実際に生きられた生と文に学んだ(あるいは話に聞いた)生とをつねに混同し、このレベルの混同から独特のパターンを生みだす。

 人間の存在とは、あまり「分明」なものではない。われわれはあらゆる方向において所属のはっきりしない境界領域にさらされ、そこをさまよい、さらにその先へと踏みだしてゆく可能性と権利を、いつももっているのだ。そうした「生」と「文」の、平行し同時に入り交じる基本的なあり方を、記憶の産物である『テッセラエ』は、よくうかがわせてくれる。

 短くて、事実を語る文。ショート・ノンフィクションに、いまぼくはいちばん興味がある。事実の魅力は言い知れぬもので、それがたとえどれほどありきたりな、型どおりの、どこかですでに聞かされたような話でも、それが事実であるということよってそのつど帯びる輝きには、たとえがたい切迫感がある。事実は小説より奇なりとよくいうが、そんなことはない、やはりフィクションのほうがおもしろくて奇な話は無限に多い。だが事実は、大きく奇ではないにせよ小さく奇であることにより、大部分はすでに聞き知った話の反復でありながらそこにかすかな変数をもちこむことにより、そしてそれを現実の土地や時代や一人一人で見れば何ということもない卑小なわれわれのあいだに錨を投げるように固定してゆくことにより、どれほどよくできていてもフィクションでは太刀打ちのできないおもしろみ、光、酷さ、強さをもつ。他人の経験とその伝聞を、われわれは結局は一種のフィクションとして消費しているが、そこには必ずある「現実契約」とでもいったものがあって、実話を実話としてうけとること、提示された事実を事実としてうけとることにより受け手の側に生じるある強い情動的効果は、どうにも否定しがたい。

 そこで設定される「現実」とは、われわれ全員が日々いたるところでぶつかっているいろいろな障壁と直接に連続し、同時に人が自分の人生をどのように生きたいのかという願望とも切り離すことができない。マテリアルであると同時に観念的であるしかない「現実」の、「世界」の、「歴史」の図柄を、この「現実契約」により事実の側へと分類された諸事件が、作り上げてゆく。事実と虚構とは連続したものだが、その連続性にある切断をもちこむことで、われわれは自分が生きる水準を選びとっているのだ。フィクションを読むときにも、人はそれを文字どおりにうけとり現実として読むにはちがいないが(そうでなければ少しもおもしろくない)、そこからは必ずいわゆる日々の現実へと、夢から覚めるように帰ってくる。ノンフィクションを読むとき、この帰還はない。彼女あるいは彼の生きた「現実」と、私が生きなくてはならない「現実」の連続性が、そこでは前提されている。この連続性が、ノンフィクションの力だ。

 『テッセラエ』に収められた二十七の文のうち、もっとも短い「遺産」を、例として上げてみる。原文でわずか二十三行の散文だ。

 

  遺産 (Inheritance)

 

    家系の伝説。伝言、直接の接触、臨場の記憶、臨場の写し=移し。目と目の衝突、網膜の感光、感光の痕跡のコピー、反復、継承。声の、口ぶりの、語彙の、訛りの、伝達。

 生身の人間が生きた記憶にふれ、その話を聞き、その記憶をうけついでゆくという、いわば「口承的現在」の連鎖が、この短文が属するようなジャンルの基盤をなしている。文字に移された口承はけっして口承そのものではありえないが、そこに移すことが可能なかぎりにおいての口承的記憶が、われわれが作り上げている「世界」のテクスチュアルな基礎にあることも、また疑えない。人が「歴史」や「世界」を発見するのはそうした口承的記憶との関係においてであり、「家系」というファミリー・ロマンスを介してでなければ、どうしても与えられた歴史的事実の衝撃は、いちだん弱いものとならざるをえないだろう。それを思うと、現在の世界の多くの移民たちの書く文を−−フィクションでもノンフィクションでも−−読むとき、そのいかに多くが「家系の発見」を描き、そこに露呈する「世界史」の力を書きとめているかは、注目に値する。強い現実感、肉体性、臨場感をもった「世界」は、家族の、あるいは身近なだれかの、語る声を媒介として、自分に訪れるのだ。私はその現実感をよりどころとして、私が「世界」を生きるための局地的戦略を構想してゆく。

 『テッセラエ』の場合も、特に精彩を放つのは彼女の父親と母親それぞれをめぐってつむがれた、巻頭に集中したいくつかの文章だ。コンスタンティノープルで出会ったユダヤ男とケルト女。ただし、ドイツ語で福音書を読んでキリスト教への改宗を決意したロシアのユダヤ人(一四九二年にコルドバを追放された家系の子)と、後にはユダヤ人の長老から「ユダヤの魂をもっている」と評され、あるいはもう一つの謎の流浪の民族であるジプシーたちを友人にもつ、放浪するケルト人。第二次大戦後にアメリカ男と結婚してアメリカに移住した元看護婦のイギリス女(このイギリス人「戦争花嫁」たちは−−あまり注目されないことだが−−アメリカへの雑多な移民の歴史の中でもその同質性においてきわだった特異で巨大な移民集団だ)であるレヴァートフはその独特なひねりのある両親の家系と性癖をそのままにうけつぎ、それがこの本にも「移民の記憶の書」(エグジログラフィー)としての深みと色彩を与えている。

 もっとも短編小説的なおもしろさがあるのは「ジプシーたち」と題された一文で、そこに書かれているのはちょっとおとぎ話めいたところがある信じられないような楽しい話なのだが、おそらくたしかに実話なのだろう。そのようなジプシー(ロマニー)たちのネットワークが千年紀が変わろうとするいまも昔ながらにあるのかどうかは知らないが、ナチスによりユダヤ人とともにどれだけの数のロマニーが殺されたかわからない以上、ヨーロッパ各地をわたり歩いて暮らしてきたロマニーたちの社会も、さんざん傷つき、古来の慣習や伝承の多くを失ってしまったのかもしれない。ともあれ『テッセラエ』の貴重なかけらについては、すでに全文を引用してしまった「遺産」を除いて、これ以上は語らないことにしよう。語ることによってその原著を読むときの驚きを奪っては、何もならない。ただ、この核心的な秘密だけに、ここではふれておきたい。

 古い友人と話をする機会があったとき、話題が昔ばなしになり、そこでお互いについて覚えているあれやこれやのつまらない小さなできごとを冗談の種にしたことは、だれでもあると思う。するとそこで覚えているできごとが、それぞれどんなにちがったものであるかに、驚いたことはないだろうか。同一のできごとについての記憶が食いちがっているというのは、まあ、わかる。でもそれが本当に「同一の」できごとであったかぎりでは、だいたいの粗筋は少なくとも一致するわけだ。ところが、私はAについてAが私にこういったことを覚えているのに、A自身にはまったくその記憶がない。あるいは、私がAにむかって何かをいいそれでAがその反応としてある重要なアクションを−−どのようなものであれ−−とってAはそれをはっきりと覚えているのに、私にはまったくその記憶がない。そんなやりとりがいくつかつづけば、はたして目の前にいる相手が本当にあのときのあいつだったのかと、お互いに疑わずにはいられなくなる。

 だが、それが人の宿命だった。人は他人が自分について覚えていることをコントロールできない。他人とつきあい、長短の記憶の中の存在となること、ならざるをえないことによって、人が自分について抱く自己像は、すべてあらかじめ挫折と崩壊を約束されている。レヴァートフは子供時代の友人たちについても驚異的に鮮明な記憶をもってその姿を描いているが、鮮明な記憶をもって文を書く、という行為の裏面にある恐るべき忘却を、つねに強く意識していなかったはずはない。記憶を疑い、自明を謎へと差し戻すことこそ、詩人の仕事の基礎作業だからだ。

 『テッセラエ』のサブタイトル「記憶と仮定」の「仮定」(suppositions)とは、はたしてどういうことだったかよくわからないあれは結局こういうことだったのではないか、という理知的な推測と、自分の人生のあの分岐点で別の方向にむかっていたらどうだったか、というおなじみの悔恨の混じった動揺を、二重にさししめしているといっていいだろう。その上で、自分の記憶の中に住むあの人この人が、それぞれにお互いをまったく知らないままただ「私」という舞台においてのみ共存していることの信じられないような不思議を、彼女は痛感し、われわれもそれを思う。それが「人間」であることの意味であり、それが「私」の生の理由なのだ。

 人々は断片化し、無数のかけらとなって、「私」というモザイクを構成する。同時に「私」は砕け、廃墟のような地面にばらまかれて、その一片を必ずだれかが拾う。人間とは徹底してこのような複合的な合成物だ。そしてその運命が人間に限らず、人間と生活をともにする他の存在にまでおよばずにはいないことは、「ミルドレッド」と題されたこれもわずか二ページの一文が、あざやかにしめしている。

 

Denise Levertov, Tesserae: Memories & Suppositions, New Directions, 1995.

 

  

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