管啓次郎
Keijiro Suga
コヨーテ読書 4
猿子眠の日々−宮本常一の『民俗学の旅』
「猿子眠」って、知ってるかい。立てた両膝をかかえこんで、そのまま背を丸め体を小さくして眠る。もともと修行中の山伏の睡眠法だそうだ。こうすれば夜がどんなに冷えこんでも絶対に風邪をひかない、らしい。それを聞いて冬のある一夜、ぼくも自分の部屋でやってみた。寒い部屋の片隅の柱を背に、昼間の洋服を着たまま膝をかかえこんで、羊を数えだす。疲れていたので、すぐ眠りこんだ。眠りながら、温泉をめざして歩いてゆく青森県の雪猿たちの夢を見ていた。夜半、あまりの寒さに気がつくと、いつのまにかぼくの猿子眠はほどけ、床の上にごろんと横になっているのだ。これでは何にもならない、修行が足りない。おかげで翌日は一日中、鼻をすすり上げていなくてはならなかった。でもこんど旅行に出て、そうすることが必要になったときには、空港でも駅でもその他のどんな場所でも、ぼくは猿子眠を思いだし、それを実践することができるだろう。
この眠り方のことは、宮本常一の本に教わった。一九四五年、敗戦後の秋深く、当時大阪府嘱託だった三十代後半の宮本は、戦災ですべてを失って北海道の原野開拓のために移住することになった「帰農隊」とともに、北海道にわたる。政府の机上のプランに沿って人々は送りだされたものの、いざ行ってみれば現地では受入れ態勢などまるで整っていない。自分はこの人たちを見捨ててゆくのだという後ろめたい思いにかられながら帰途についた男は、食べ物もないまま、函館駅で猿子眠をつづけて、船を待つ。強制徴用されて炭鉱で働かされていたのが日本の敗戦とともに解放された朝鮮半島出身の労働者や、入植に失敗して命からがら本土へとひきあげてゆく人々とともに、焚き火に暖を求めながら待つこと三日。ついで青森からは、窓硝子の破れた各駅停車の列車で上野まで二日。苦しい旅路を水だけで六日間しのいで、男はようやく東京の渋沢敬三邸にたどりつく。たどりつき、ようやくそこでありついたご飯の上に、ボロボロと涙を落とす。
旅から旅へ、という言葉をなんの誇張もなく当たり前のこととして生きた男が、淡々と自分のたどった道どりを、問わず語りのごとくかたる。たしかにこうして生きた人がいた、というごまかしのない輝きにみちたすばらしい自伝、『民俗学の旅』の中でも、とりわけあざやかな、映画的な印象を残すエピソードだ。それでは「民俗学の旅」とは何か。それはただほとんどあてもなく出発し、歩きはじめ、人に出会えば声をかけ、ただ話を聞くことだ。とつとつと話しかけるうちに「よい人」に出会い、誘われるままに靴をぬぎ、宿を借り、さらに話を聞き、徹底して耳をかたむけ、それをよく記憶し、こうした出会いをくりかえすうちに土地と土地をつらぬく同質性も地域と地域を隔てる異質性もそれぞれによく認識し、そこからやがてはどこにゆこうと人々は文字どおり「一所懸命」に生きているという単純な事実を、他の者たちにも明らかに見えるかたちにまとめあげてゆく。この「まとめあげ」、記述と編集の作業は、あくまでもひとりの人間の経験と心と言葉をつうじてなされなくてはならない。そうでなければ、知識が別のひとりひとりの心に、その人が生きてゆく上で本当に役に立つかたちでは、よくとどかない。ひとりの人間は、別のひとりの人間によってよく咀嚼され反芻されてきた知識を、もっともよく学ぶ。さまざまな「1」の話を宮本という「1」が聞き集め、よく考え、言葉にして語りなおし、その「1」により語られた話を、読者であるわれわれのひとりひとりが「1」として受けとめる。この1対1の人間関係に対する深い信頼が、それをささえる深い平等の感覚とともに、「民俗学」(少なくとも宮本が考え実践したようなそれ)を、匿名の科学性や客観的叙述に基礎をおく学科としての「人類学」と、はっきりと分かっているのではないだろうか。
とはいえ、宮本の歩んできた旅もまた、フィールド・ワークにはちがいない。「フィ−ルド・ワーク」という人類学の用語がいつから使われるようになったのか知らないが、それはおそらくはじめは「野良仕事」にかけた、一種の冗談として使われはじめたのではなかったかと思う。さあ、ひとつ野良仕事にゆくか、とたぶん初期の人類学者たちはだれでも、笑いながら家を出て、それぞれにただひとりで、黙々と歩いていった。この「野良仕事」という原義が、宮本の「学」にはありのままに生きている。どこにいっても自分を山口県大島の百姓ですと自己紹介し、幼時からよく体ごと身につけてきたこの郷里の農民の生活と知識を足場として、彼は他の土地に暮らす人々の生活と歴史を丹念に見ていった。それが彼の野良仕事であり、歩行が唯一の方法論だった。十八歳、郷里を出て大阪に暮らすようになった少年は、まず郊外の郵便局員となる。「歩く人」としての彼の、そのときにはまだ何の目的ももたなかったはじまりは、次のように語られている。
シュルレアリストたちがパリの街路をやみくもに歩きまわっていたその正確な同時代、あるいは宮本と同年のルネ・シャールがまだシュルレアリスムを知らずに南フランスで果物屋の丁稚をしていたころ、郷里を出てひとり西日本の中心的都会に移住した青年郵便局員は、町を歩き、人の生活を見、話を聞くことを自然に覚えた。
あるいはまた、大きな橋の下に筵で小屋掛けをして集落をなして住んでいる乞食を相手にしても「歩いているうちにそうした人々に出あい、また話をする機会を持った」。だれであれどのような生活であれ人が暮らすということには、ある確実な物質的基盤があり、秩序があり、意味がある。その懸命の営みには、見事であると思わせるものがあり、美しいと思わせるものがある。歩行には、それ自体としての目的はない。だがそれは偶然の出会いを、いくつも用意する。その偶然のつみかさねによって、「社会」という本当には捉ええない全体に対する観察と考えが深まってゆく。目的のない旅だけがもたらすことのできる、大きな認識の図柄がある。一九六五年、五十八歳になる年に武蔵野美術大学に就職するまでの約四十年、宮本は不定時の原稿料以外には定まった収入もなく、ただ旅をつづけた。アチック・ミューゼアムのあった渋沢敬三宅では「日本一の食客」(日本一長くいる、ということ)だったし、大阪府嘱託として農業事情の講義をしていても給料も旅費ももらわない。ただ、旅をつづけた。それは
この旅の心得を、それでは宮本はどこで学んだのか。
エジプトの小さな伝統的な村を調査したインド人の人類学者アミタヴ・ゴッシュは、調査をめぐる自伝的エセー「イマ−ムとインド人」(Granta, no.20 )に、ある驚きを記している。一見、はるかな昔から時間が止まったかのように見えるナイル川デルタ地帯の農村。ところが停滞か静止を絵に描いたようなその村の住民たちと知り合うと、かれらは信じられないほどさまざまな土地を経験してきた人々なのだ。村の男たちには、ペルシャ湾岸の首長国に出稼ぎにいった者もいれば、リビアやヨルダンやシリアにいった者もいる。兵士としてイエメンにいったことのある者もいれば、巡礼でサウジ・アラビアを知っている者もいるし、ヨーロッパを旅した人間も少しはいる。分厚いパスポートにぎっしりとスタンプを押されている者はいくらでもいる。そしてそれは最近の現象ではない。戦争で、仕事で、気まぐれで、かれらの祖父たちも、さらなる祖先たちも、今日の目から見ても広範な地域にわたる土地を知ってきた。その刻印は、村人たちの姓に、まぎれもなく残されている。レヴァント地方やトルコの都市、あるいはヌビアの町々の名を、人は名乗る。それはかれらの旅の証明であり、さまざまな土地の名がこの小さな村に、どんな機縁によってか集結しているのだ。
われわれはときとして「遊牧民/農耕民」といったひどく単純な図式で人々を捉え、前者は絶えず移動し、後者はひとつの土地しか知らないと考えることがある。だがもちろん、これはまちがっている。土を耕しひとつの土地に生きた人々も、よく話を聞くなら意外なほどよく他の土地を知っているものだ。旅がそれを教えた。宮本に旅の心得を手ほどきしたのは、若いころフィジーに出稼ぎにゆき、出稼ぎには失敗したもののバナナの苗を持って帰った父親だった。小学校の高等科を終えた常一が、素手で、何のあてもないままに大阪に出ることになったとき、貧しい父はいくつかの注意を与えた。汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田畑や村のようす、人々の服装をよく見よ。そうすればその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないかがわかる。新しい土地にいったら、必ず高いところに上がってみよ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ずいってみることだ。金があったら、その土地の名物や料理は食べておくのがよい。そうすればその土地の暮らしの高さがわかる。時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。
そしてこれらの心得こそ、父親がみずからの無目的な一人旅によって身につけてきたことだったのだ。秋、早めに仕事を終えた父親は、手足を洗い、他所ゆきの着物に着替え、古びた中折帽をかぶって、「ちょっと出てくるから」と行き先も告げずに家を出る。三里ほど離れた港に着く船に乗るのが、下りは午後八時か九時、上りは夜中の二時か三時。それに乗って男は島を離れ、西は宮崎、東は日光まで、その日その場での思いつきの旅を重ねていった。そんな無名の村人たちの漂泊の気風を語る次の驚嘆すべき一節については、やはり原文をそのまま抜き書きするにこしたことはないだろう。
村人は、だれもが旅人だった。これもまたそのままギリシャかブラジル北東部を舞台にしても通用しそうな話で、深い感銘を与える。気まぐれな船出、楽しみ以外には何ももたらさない旅路だ。お金をもたない旅人がだれでもひょいと訪れて泊まってゆくことのできる「善根宿」については、自分の家がまたそのようなものであったことを、母親をめぐる章で宮本は記している。旅の借りは旅人に返すという、暗黙の前提が共有されていることの美しさだ。そして、ぼくは思うのだが、すべてがどうしようもなく金銭化されているような現代世界にあっても、その前提はじつはまだまだ意外なほど広く、文化も言語も国境も超えて、よく共有されているのではないか。それは人間が、表面的にはどれほど静止しひとつの場にしばりつけられているように見えようとも、いつもそうして旅をくりかえしながら生きてきたということの証明になりうるのではないか。
「歩く」ことを生き方の根本にすえた宮本が、のちに「猿まわし」に強い関心を寄せるようになったあたりで、この自伝は終わる。直立歩行を覚えた猿の何頭かを野生猿の社会に戻したらどうなるか、という問題提起は、一見突飛なようだが、じつは宮本の生涯の実践にまっすぐにつらなるものだといっていいだろう。歩行とは、そのまま人類史の問題なのだ。もしわれわれのだれもが日常生活の中で毎日少なくとも20キロから30キロの距離を歩くことを基本として社会のあらゆる成り立ちが見直されたなら、物質的にも精神的にも、現代のいかに多くの問題が解決されることだろう。われわれは、思想をかけて、歩かなくてはならない。かといって、別に気負う必要もない。無用の歩行、気まぐれな小さな旅を、少しずつ、しかし確実に、自分の暮らしの中にとりもどすことにしよう。そのときふと考えはじめる何かが、ぼくらに思いがけない道を、つねに新しくさししめしてくれるにちがいない。
宮本常一『民俗学の旅』(講談社学術文庫、一九九三年)
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