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管啓次郎
Keijiro Suga

コヨーテ読書 8
二つのエピグラフ−あるいは、「芸術」のはじまり


 エピグラフというものがある。古代の金石に刻まれた碑文の意味から転じて、本の巻頭を飾る句のことを呼ぶ。書物の生産は歴史のはじめからつねに引用の連続だったが、まるでひとりの守護天使を呼びだしてそのみちびきの下にこれからこの本は書かれてゆくのだと宣言するかのように、あるいは実際にはすべてを書き終え配列し終えたあとでこれからこの精霊の息吹によって書物が守られ読者の手にぶじ届くことを祈るとでもいうように、自分の本の扉に先人の文を転写して画龍に点睛をほどこすのは現在でもしばしばおこなわれることだ。癒しがたい引用癖をわずらっているぼく自身、これまでに書いた三冊の本ではいずれもそうした鸚鵡の習癖をまねぶという誘惑に、打ち勝つことができなかった。それはそれでよかったと思う。

 なぜなら、人は自分の力だけで本を書くことはできないからだ。文章とは、九割九分まで−−その数字に算術的厳密さはないが−−引用からなっている。またそれでなければ、まるでおもしろくない。「自力で書かれた」文章というのは、これは100パーセント、単なる怠惰か傲岸のしるし、塩を欠いた料理か変色した新聞紙だ。よく人は勘違いして、たとえばランボーの詩についてそれは空虚から、ゼロから、何度でも白紙の湖に潜水をくりかえしながら書かれたものだと考えたがるが、それはただの空想にすぎない。十六歳のランボーは、すでに同時代人の誰をも凌駕する詩的教養を身につけてお釣りがくるほどだったし、そうでなければ言語においてあれだけの剛毅と繊細の結合が生まれるはずはない。「早熟」とはまさに年齢に関わりなくそれが「成熟」なのであって、文章にかぎらずあらゆる技芸の道において「成熟」という段階はひとつのいわば地理的区分をなし、その地点までいってはじめて「個性」(留保なしには使えない言葉だが)への可能性が、ごくわずかに見えてくる。

 すぐれた詩も、その声の大部分は先行する魂(という言語的構築物)から借りられて、はじめて書かれるものだ。凝集力をその最大の存在理由とする「詩集」と呼ばれる本で、作者たちがエピグラフの儀式を回避できないのも、むりはない。それは古い習慣で、別になくてもかまわないが(実際エピグラフをもつ詩集の数は全体の半分以下だろう)、あればすでにそこから詩集の「本文」が、「作者」の世界が、はじまることになる。ここでは二人の現代詩人が、それぞれ詩集の巻頭に掲げたエピグラフを一瞥して、その心を探ってみることにしよう。

 

 

 いずれも引用されたかたちそのままの英訳から重訳した。前者はデレク・ウォルコットの自伝長詩『もうひとつの人生』(Another Life)の、後者はゲイリー・スナイダーが四十年を費やして書き上げた連作詩『終わりなき山河』(Mountains and Rivers Without End)の、扉に掲げられているものだ。一種のお呪いではあるが、どちらも「芸術」の根源的な運命をよく語り、それを引用する「詩人」の覚悟をしめしていると思う。

 自分自身、少年時代から、不在の父親を模倣するように絵画にとりくんできたウォルコット(父親は彼が一歳のときに亡くなったが優れたアマチュアの水彩画家だった)にとって、絵とは何、詩とは何かという問いは、それとともに成長してきたといっていい人生の最大の謎だった。人はなぜ描き、書くのか。それは絵画を見、詩を読んで、それらに打たれた経験があるからだ。「作品」という、まぎれもなく「誰か」が時を費やし努力を集中して作り上げた物質的な「かたち」がある。そのかたちを見事だと思いその創出を模倣しようと思うことがなければ、人はそもそもけっして「芸術」には向かわない。

 一方、スナイダーが引用する道元のほうは文と文のあいだに飛躍があるが、要点となるのは以下のようなことだろう。まず古の覚者は「芸術など人間の生存には役に立たない」といった。これに対して道元は次のように答えているのだと思われる。

 芸術の意味を理解している人は少ない。表象行為においては(絵画であれ文章であれ)、対象物は同一の「平面」に並べられ、その「平面」は物質的に構成される。表象の平面は実在し、それはわれわれの経験しうる「現実」の一部であると同時に、「現実」そのものの提喩として突出している(「物自体」の世界に触れえない人間の生きるいわゆる「現実」はそれ自体「表象」たらざるをえず、その上で絵画なり文章なりといった二次的「表象」行為が意識的におこなわれる)。この表象のからくりを見極めることが「悟り」だ。つまりいわゆる「物」があってそれを「描く」という操作から、いわゆる「物」さえもが元来ただ「描かれたもの」にすぎないという機構の理解へと、表象の階梯を降りてゆく。「画」という単語が二重の意味で使われることで(メタファーとされることで)「現実」の表象的構成が示唆されているわけだ。

 その上で、最後のせりふがくる。「芸術など生存には何の役にも立たない」という古人の言葉に対して、道元は「人間の欠乏をみたすのは芸術しかなく、芸術に表現された欠乏を知らなければおまえは人間の存在条件を自覚して真の人間となることはない」と大見得を切ってみせるのだ。われわれの人生は一枚の画であり、だからこそ画に描いた餅が力をもつ。人生は言語の描きだす文様であり、だからこそ詩がある本質的な力をもつ。

 芸術は芸術からのみ生まれる、とウォルコットのエピグラフは語り、芸術だけが人を真の人間にする、とスナイダーのエピグラフは語っている。いずれも、「詩人」が自己の出発点をふりかえって、その最初の自己契約(ぼくは詩人になる、という約束)を確認している言葉だと考えていいだろう。新たな「詩集」という花束を提示するにあたって、詩人は「はじまり」を反復する。そして人は他人の力を借りないかぎり、その「はじまり」をはじめることはできなかった。

 ここに「詩人」の逆説があるともいえる。詩人とは独自の声の洗練をめざすものであり、創作が差異を賭けたきびしい戦いであることは逃れがたい事実だ。けれども、そうした独自性は、多くの異なった先行する詩人たちの声を自分の中に呼びこめば呼びこむだけ、強く増幅させてゆくことができる。いわば自分でなくなればなくなるほど、詩人は(さらには芸術家一般は)、より自分になってゆくのだ。引用をエピグラフとして掲げる行為には、そうした自覚も前提とされているのだと、この二つのエピグラフを見てぼくは考えた。

 

  

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