管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ 
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コヨーテ歩き読み15
石塚道子編『カリブ海世界』
(世界思想社、1991)

 

 カリブ海のことをもっと知りたいと思って、日本語で読める本を探しにいった。ど んな地域を対象とするにせよ、その自然や地理的条件から歴史や文化的現状までを「 一冊」という限られた時空に封印するのは無謀なわざで、描写は精密になればなるほ ど万巻を費やしても足りなくなるに決まっている。それを認めた上で、何か「一冊」 を求めたくなるのも、特に自分の手持ちの知識と資金が限りなくゼロに近いときは、 人情というべきだろう。しかし、その気持ちには逆らわなくてはならない。世界は( そのどれほど小さな一部でさえ)何をどうやったって言語とイメージの「一冊」にお さまるはずがないし、土地の認識はきらめく閃光がつみかさねられ互いに干渉する紋 様としてもたらされる以外にはありえないのだから。

 それで、目についた何冊かを買いこんだが、もちろんこれだけでも十分ではない。 もっといろいろ出ているかと期待していったら、そうでもなかった、残念。カリブ海 の歴史・地理・政治・経済・音楽・美術・文学を題材にして日本語で考えている人や 書いている人の数はけっして少なくもないはずなのに(実際、世界をフィールドとし て考えられるかぎりのあらゆる分野に研究者がいるのが日本だし、またそうでなけれ ばこれだけの人口と詩学的浪費−−とはいま考えついた言葉だが狭義の実利性を超え て何か新鮮でおもしろく美しいかたちを作りだすための積極的無駄遣い−−の余地を もっている意味がない)。これは各分野の研究者の文章の多くが(想像だが)大学の 紀要のように一般には目にふれにくい形態ばかりで流通しているからなのだろうか。 あるいはカリブものは、採算がとれなくて企画になりにくいとでもいうのだろうか。 何にせよ、ともかく何冊かの礎を手にして、ここからまたあちこちの方向に漂流をく りかえすしかないだろう。そんな島伝いの学び方は、特にカリブ海域については、細 分化され秩序だった学習よりも、ふさわしいような気がする。

 この本は四人のカリブ海研究者による論文集だ。編者の石塚は、はしがきでその心 意気をこう述べている。

 

 本書の執筆者四名は、研究領域、テーマをそれぞれ異にするが、いずれもカリブ海 という地域が放射する生気に深く魅了されて調査・研究活動に足を踏み入れるうちに 生気の根源や意味の解明の重要性を認識するに至った者である。/この共通認識に立 脚して私たちは、五百年という時間に生起した事象のすべてが埋めこまれた空間をい ま自分たちの地域として生きようとするカリブ海の人々の意識と行動の総体を、それ が放射する生気を失うことなく描き出したいと考えるようになった。(iペ−ジ)

 

 「いま」の空間の中に歴史のすべてが埋めこまれているということ、そしてこの空 間がそこに生きる人々とともに織りなす「地域」という複合体が、きわめて語りにく く捉えがたいがたしかに存在する「生気」を放射しつつあると実感すること。その「 生気」にわれわれ自身がいわば印画紙のように感光することで、感光の痕跡としての われわれの記述自体が必然的に別のかたちに変容した「生気」を発散しながら読者に 伝えられてゆくこと。感光したわれわれ自身も変わり、自分たちのいま暮らす社会に 別の態度をもちこめるようにすること。これらは地域研究の前提であり目標だが、あ えて「生気」を語る姿勢を、ぼくも支持したいと思う。

 そして生気は、細部に宿る。どの一編もアカデミックな体裁と文体で書かれていて 、特に色彩や躍動感にみちているわけではないが、さすがに教えられることが多く、 (ぼくにとっての)発見があるたび、そのページは輝いてみえる。いくつかの学びの 成果をあげておこう。

 (1)カリブ海ではバスケット細工というとドミニカのそれが有名。先住民族カリ ブ族の手になるものだが、なぜドミニカばかりに先住民族の血と技芸が生きているの かと、不思議に思っていた。理由は種明かしされてみると簡単だった。

 

しかし先住民が今日まで集団として存続しえた島嶼は、山がちで険しい地形のためプ ランテーション開発に不適とされたドミニカ、セント・ヴィンセントの二島にすぎな い。(石塚、11−12ページ)

 

 これはマルティニックやグアドループで沿岸漁船として使われる丸木舟ゴミエの素 材についての次の報告と、直結する。

 

ゴミエは軽量で機動力に富み、とくに赤魚漁に最適だといわれる。しかし、ゴミエの 用材はドミニカ島でしか入手できず、また最近では、祭りの競艇時以外にゴミエを見 かけることは稀である。(石塚、211ページ)

 

 なるほど、そうか。こう聞かされるとグアドループとマルティニックの中間に位置 するドミニカが、木や舟や籠(そしてそれらとむすびついたカリブ族の伝統)の供給 地として近隣の島々に特別な意味をもっていたことがわかるし、この島の首都ロゾー でクレオール白人として一八九〇年に生まれた作家ジーン・リースについても、連想 の風景は大きく組み換えられることになる。

 (2)あるいは「ベケ」という言葉。グアドループやマルティニックといったフラ ンス領の島々では、島の白人植民者たちをさしてそう呼ぶ。そう呼ぶことは知ってい たが、いったいどこからその言葉が来たのかは、まるで不明だった。そこに意外なと ころから、解決の手がかりがやってきた。ジャマイカ研究者の長嶋佳子が書いている ことだが

 

つまりプランテーションおよび社会の上層にごく少数の支配階級の白人「バックラ 」(backra)」、その次に黒人と白人の混血ムラート(自由人が多かった)、あとの大 多数は被支配階級の黒人奴隷という堅固なピラミッド型ヒエラルキーが存在したので ある。(88ページ)

 

 ここではじめて知った名称「バックラ」が−−この単語自体の語源はわからないが −−フランス領での「ベケ」という呼び名の源なのではないだろうか。「ベケ」が先 ではなく「バックラ」が先だというのはただの勘にすぎないが、それには類推できる 例が他にもある。マルティニックで都会(つまりフォール・ド・フランス)に流れこ み半端仕事の請負でその日その日を暮らす人々を「ジョブール」と呼ぶことは、ビド ンヴィル(郊外の掘立て小屋地区)でのジョブールの生活世界を描いたパトリック・ シャモワゾーの小説『テキサコ』などでよく知られるようになったが、これも長嶋に よるとジャマイカでは

 

キングストンというさまざまな人間、物資や情報が行き交う刺激のある都市の中で、 プランテーション労働ほど過酷ではないさまざまな仕事に従事した黒人の存在も、教 会発展のもう一つの要因となったと考えられる。たとえば重労働ではあったが拘束が より少ない請負人(jobber)は、プランテーション内の他、教区内の道路工事にも従事 した。(113ページ)

 

この「ジョバー」という単語がそのまま輸入されて「ジョブール」となったことは、 まずまちがいないだろう。英語圏、フランス語圏といった枠組み内だけで考えていて は、どうにもならないということが、改めてわかる。

 (3)マルティニックとグアドループがあまり仲のよくない、どうやら何かにつけ て反目しあう傾向すらある島々だということは、これらの土地を訪れてみるとうすう す気づくことだが、その歴史的背景がざっと三百年は逆上れるものだということも、 石塚は明快にまとめている。

 

 マルティニクでは、グラン・ベケの存在によって一七世紀以来のいわば”古典的” 植民地支配構造が温存され、グアドループではフランス本土資本の圧倒的支配による 従属構造が形成された。/行政的には両島ともに、一九四六年以降DOMとしてフラ ンス政府の統治下にあるが、経済的には常にマルティニクが優位を占め、それが人々 の意識にも反映されている。たとえば、マルティニク人の間では、「グアドループの ケンボワ(呪術)のほうがより強力だ。それは彼らがよりソヴァージ(野蛮)だから 」などの表現がみられる。一八四八年の奴隷制度廃止以降、両島には農園労働力とし てインドから契約移民が導入された。島民たちは彼らをクーリーと呼び、「クーリー は犬を食べる」などと侮蔑の対象とした。インド系移民人口が、グアドループにより 多いこともまたマルティニク人の優越感の要因となった。マルティニク人は、グアド ループとの生活習慣や文化・社会的差異をヨーロッパ文明の尺度でとらえ差別化する のである。それがグアドループ人の反感を増幅する。(203ページ)

 

 集団がもつこうした意識とは一般に語りにくいもので、たしかにあるようにも思え るし、そうでもないのではないかと思えることもあるし、かといって自分にはその適 否を判断しえないという場合がほとんどなので、結局はすべて漠然と「そういうこと もあるのかもしれない」と了解しておく程度がよさそうだ。それでも、マルティニッ クでは人々がグアドループのことをどう思っているか/いっているか(あるいはその 逆)は必ず事実として存在するわけだし、これは両島に限った話ではなくて、フラン ス語の島々にとってのジャマイカ、あるいはキューバなど、どのようなイメージで捉 えられどんな反応をひきおこすのか、知りたいと思うことは多い。そうした手がかり も、これから探してゆきたいと思っている。

 こうしてこの本は、ぼくにとっては、たしかに細部に生気をみなぎらせた、おもし ろい読書を提供してくれた。ありがとう。カリブ海を主題としたこうした論集が、せ めて毎年一冊ずつ出版されてそれが十年くらい続けば、教えられること知ってよかっ たと思えることは、ずいぶん多くなるだろう。もっとも、そうした手頃なかたちで知 識がお盆にのせてさしだされることばかり望んでいても、仕方がないね。ともかくカ リブ関係の本をしばらく追ってゆくことを、今後のこのコーナーの一本の糸としよう 。

(1999.06.20)

 

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