管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ 
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コヨーテ歩き読み6
近藤耕人『映像・肉体・ことば』
(彩流社、1993)

 

 「身を入れて見る」こと、それが現実になまなましい現実らしさを与えるのだとい うことを、飛ぶようにすぎるばかりの日々の現実の現実の希薄さに無情をかこつこと の多くなったぼくは、改めて思った。この本のおかげだ。ソンタグの『写真論』やジ ョイスの戯曲『さまよえる人々』などの訳者としても知られる近藤耕人が、若いころ から一貫してとりくんできた主題である映像と言語の関係をめぐる考察の、いちおう の到達点が語られている。わかりやすい語りではない。迂回にみち、彷徨し、独特な 語法ともあいまって、まるで暗く曇ったヒ−スの荒野を(古い友人のサムと)とぼと ぼと歩むような気分にさせられる。けれどもくりかえし雲の切れ目からアイルランド 風の太陽の光がさし、さらに読みつづけよと呼びかけるのは、ここに繰り広げられた のがそれだけ著者の「身が入った」文だからか。

 視覚という知覚が肉体化されてリアルな自分の経験となる過程を、近藤は「身」( み)と「体」(たい)という二つの用語によって説明する。それらが何を意味するの かは、たとえばこうした一節を読めば、おのずからわかってくるだろう。「歌のテー プや人間の映像という体から、身は再生された音声や顔の感覚として私の体へと届い てくる。私の身は静座している体の中で弛緩し、希薄になっているが、他体の中で生 起した身、あるいは反射的に生じた身は濃密な活力と運動で私の体を満たし、知覚の 手前で受け身になっていた私の身を呼び覚まし、対応する姿勢と運動を引き起こす。 そのような対面においては、朝の目覚めの時とはちがって、身は自分の体の中から身 を引き抜くように生起するというよりも、向こうの体から間隔を飛び越えてやってく る。身はすでに他体の中で活動しており、私の体の中でまどろんでいた身は掻き立て られる。私の体から身が向こう側に乗り出すのではなく、向こう側から身が私の体へ 乗り移る。私の体はそれを受けとめる器である」(46ページ、原文では「身」と「 体」のそれぞれに傍点)。

 こうした「身」をもつのは、芸術作品をはじめとする人工物にはかぎられない。無 作為の無機物にも、動植物をはじめとする自然物にも、「身」があり、「体」がある 。両者は「魂」と「物質(あるいは物体)」なのだと考えても、いいのかもしれない 。ただ「魂」という言葉に含まれる神学的な意味を避けたということなのだろうか。 しかしたしかに、音楽の「身」が、樹木の「身」が、喫される茶の「身」が、海や砂 の「身」が、いきなりそれらの「体」から立ち上がり、こちらに迫り、ぼくらの「身 」を覚醒させ運動させるということは、ある。人が充溢を感じ、感動を覚えるのは、 ただのっぺりとまどろむ「体」が、その「身」の本領をもって卒然と現れ、わが「身 」に呼びかけてくるときだ。私はその呼びかけに「体」ごと反応し、「身」を入れ「 身」を乗り出して、当の「体」に、ひいては「世界」に、むかうのだ。

 デヴィッド・ホックニーが龍安寺の石庭を撮影した、数十枚の写真の組み合わせか らなるフォトモンタージュにふれて、近藤はさらにこう語る。「私の目=身は、私の 足=体によって石庭の世界に踏み出す。石庭の体は私の体とともに動き、石庭の身で 私の目=身を満たし、私の目=身は石庭の身を満たす。ここには窓や戸口の四辺形も なく、私の体と目がとらえる世界の形があるだけである。私の身は体とともに世界に 乗り出しており、世界の身を自由にし、世界の体を私の周りに再構成している。見る とはそういうことなのである」(51ページ)。

 見ること、身を入れて見ることは、全身の運動をともなって「起きる」全存在の覚 醒であり、見る者と見られる者のあいだの「身」の語り合いなのだった。

 文学であろうと美術であろうと、作家研究を志す者にとっては、その作家に「身を 入れる」ことこそ唯一の方法論にちがいない。近藤にとっては、ベケットがその対象 だった。「私は二十代でベケットに出会い、まるで彼は私の内部でつぶやき、その声 は私の口から発し、私は彼の口でしゃべっているようだった。私は三十代で『ゴドー を待ちながら』の二人の浮浪者とともに”歩み”出し、ヴラジ−ミルとエストラゴン は私の頭の住民となり、私の創作した戯曲『風』の登場人物は二人とそっくりのこと ばをしゃべり、一体彼らは同一人物たちなのか、区別がつかなくなった」(199ペ ージ)。

 そこまで「身を入れた」ベケットが晩年をむかえたある年ある日、近藤はパリでこ の「文学の鬼」に会見する。ベケットにひっかかりを感じる人には、この会見記は必 読だ。それからしばらくしてベケットは死に、今年の十二月二十二日になれば、ベケ ットはすでに十年間死んでいることになる。その「身」がいまも生きているとは、い ったいどういうことだろう。

(1999.02.23)

 

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