管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ 
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コヨーテ歩き読み9
小泉義之『弔いの哲学』
(河出書房新社、1997)

 

 −弔いは、誰かの死と私の生の断絶を思い知ることである。
 −モラルは、<生きることはよい>と<殺すことはない>だけで足りる。
 この二点をめぐって、粘り強い思索がつむがれた。小さいが、ずしんと響く本だ。 弔いという人間の課題が、いかに妄想と世俗の利得と政治によって、無用に複雑で貧 困で下劣なものにおとしめられているかを、考えさせられる。人の生死をめぐって、 われわれは迷妄のさなかにあることを、社会から、制度宗教から、国家から−−利害 関係と支配関係におもねるそれらすべての道徳から−−強いられてきた。それを見直 すところから、「真の宗教性」とでも仮に呼べる領域がはじまる。それは妄想的超越 性を引き合いに出さずにマテリアルな存在のみを見つめる態度であり、自然プロセス として流れ、火のように灯ってはいつか必ず消えてゆく人の生をそのままに甘受する 態度のことだろうと思う。

 「弔い」を、著者は冒頭でごく明解に次のように定義している。

 

 誰かが死ぬ、私は生きている。誰かが死ぬことと、私が生きていることのあいだに は、何の関係もない。誰かの死と私の生は、徹底的に断絶している。誰かの死と私の 生の断絶を、さらには、誰かの死と誰かの生の断絶を、思い知ることが弔うというこ とである。
 しかしこのような断絶を人はたやすく見失う。おぼろげに見てはいても、それを直 視することに人は耐えることができない。というのは、誰かの死と誰かの生が、この 世ではいつも関係づけられてしまうからである。ほんとうは断絶しているのに、そこ に何らかの関係があると思いなされてしまうからである。そのような思いは、<妄想 >である。(9ペ−ジ)

 

 誰かの死と私の生の断絶をきちんと見すえるかぎり、国家主義や民族主義や世俗宗 教による死者の再利用というかリサイクリングは、ありえない。ところが現実には、 人々は手もなくそうした仕組みにひっかかり、いらぬ彼岸の支配力に身をゆだね、彼 岸を利用する者たちのいうことをよろこんで聞き、死が死を呼ぶ頽廃の循環にたやす くおちいってゆくのだ。

 小泉がここでしめすのは、神話(たとえば『古事記』)や宗教(たとえばイエスを めぐる伝承)が語るような、死体の隠匿にはじまる死者と生者の観念的関係づけと手 を切って、ソクラテスが生き死に死体へと移行する自然で正当な過程をきちんと書き こむプラトンが体現する、哲学的覚醒にむかう道だ。それは誰の死によっても誰の生 をも支配させないという、強い意志に支えられないかぎり、歩くのがむずかしい。だ が正当な弔いにより、亡くなったひとりの人間の生涯をきちんと輝かせる(その残さ れた物質的断片としての「骨を拾う」)ためには、どうやらそれ以外の道はない。

 弔いの態度を、著者は死んだ子供をしのぶ『土佐日記』の紀貫之に学んで、こう述 べる。「死者を弔うということは、死者についての作品を破棄することだ」。ただ、 こうして断絶を思い知ったのちにも、人は死んだ子の顔を想起し、歳を数え、その名 を呼ぶ。そのすべてが砂のように崩れ飛ぶか、あるいは降りつむ雪におおい隠される までは。こうしたことは、ぼくらの誰もが経験し、知っていることだ。それを知りな がら、別の何者かの介入をずるずると許し、その浸食により人はよく弔いを怠ってき たのだと思う。

 弔いとは、一面では、顔と名をよく知った死者を、漠然と存在する数多くの死者た ちの群れの中から、見分けることだ。もちろん、後者(死者の群れ)は観念にすぎな い。イメージと言語によって、他人からすりこまれたものにすぎない。どれほど社会 的枠組がひろがろうと、われわれひとりひとりの有機的な生が相知る人間の数がかぎ られている以上、弔うべき死者が誰であるかもおのずからはっきりする。身近な死者 についての弔いは、それでいい。

 それでも疑問は残る(あるいは著者はすでにそれに答えていたかもしれないが)。 ぼくが最後に抱いた疑問は、観念的ナショナリズムや政治的な過剰同一化により亡霊 たちとともに狂奔することなく、逆に積極的無関心主義によりあらゆる遠いものへの 無縁・無責任を主張することなく、なお遠い死者たちと自分とのあいだにどのような 関係がありうるだろうか、ということだ。

 妄想を抜きにして、遠い関係は成り立つのか。いわば遠隔倫理とでもいえる領域を 、世俗的利害や政治(大小の権力奪取をめぐる闘争)の落とし穴を避けつつ考えるこ とは、できるだろうか。「生きることはよい、殺すことはない」という<神すなわち 自然>の戒律を、小泉に習って、ぼくも認めたい(その判断を守り抜くのは非常にむ ずかしいだろうが)。しかしこの自然の<掟>にもかかわらず殺された者、殺されて ゆく者たちを、ある生者たちの都合によりどのようにも利用される亡霊としないため には、どうすればいいのか。

 ぼくらには、はたして、遠い死者を弔えるのか。

(1999.03.25)

 

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