「英語」という犬を道連れに
(初出、「広告」1998年3・4月号)
言葉とは一種の犬だ。それは良い主人にも悪い主人にも、おなじように仕える。だ
からある行為に関して言葉そのものを責めようという気になったときには、われわれ
はまず犬を操る、その主人の顔を探るべきなのだと、ずっとぼくは考えてきた。ここ
で問題となる犬の名前は、「英語」。その原産地からいって、ブルドッグとフォック
スハウンドとコリーとヨークシャーテリアをごちゃ混ぜにしたような実に奇怪な風貌
をしたやつだが、愛想は悪くない。あちこちで見かけるし、人によってはそいつを熱
愛したり、逆に「蛇蠍のごとく」という修辞が誇張でもなんでもないほど嫌ったりす
る。ユーラシア大陸の東の端っこに長々としがみついている列島でも、こいつはずい
ぶん幅をきかせている。特に今世紀の後半は、その増長ぶりがはなはだしい、と人は
いう。
列島に生まれた子として、ぼくもこの妙な「カメ」(つまり「カム・ヒア」の勘違
いに由来する明治言葉でいう「洋犬」)と、四半世紀以上にわたってつきあってきた
。相変わらず、その心はわからない。その表情は読めず、そのふるまいは予測できな
い。ぼくはそいつを手なずけたわけではなく、抱き上げたこともなく、ただ一度か二
度、お義理のお手をしてもらった程度だ。ずいぶん犠牲を払ったし、努力もしたのに
。それでもぼくは、この奇怪な犬への接近に費やした自分の年月を、別に後悔はして
いない。そいつのおかげで楽しいこともあったし、新鮮な衝撃もうけたし、そいつの
尻尾についていったおかげでそれ以外の方法ではまったくありえなかった「世界」の
風景を目にすることにもなったからだ。もちろん、その「世界」とは、それ自体、真
に広大で多様な世界のごく限定された一部でしかない。そのことは真先に認めよう。
にもかかわらず、この「英語」という犬の罪を問う民衆裁判があったら、ぼくはよろ
こんで証言台に立つつもりだ。いいえ、そいつが悪いんじゃありません。そいつを使
うときに、人は良い使い方をすることも、悪い使い方をすることもあるのです。ええ
、あらかじめ決まった「良い人間」「悪い人間」ではなくて、一人のおなじ人間でも
、その犬を良い目的のために使うことも悪く使うこともあるのだと思います。ですか
ら、裁判長、私たちはあくまでも、その犬のその場その場でのふるまいを、よく考え
るべきではないでしょうか。だって昔からいうでしょう? 罪を憎んで犬を憎まず、
って。...
二十世紀後半、人類史上かつてなかった程度において、「世界」はたしかに惑星化
した。アマゾンの密林で蝶がはばたけば、東京で竜巻が起こる。惑星文化は、一方で
地域格差と各地域社会内部での差異の戦いを煽りつつ、人間の日常的な身体感覚では
とても対応できない遠い地点を、さまざまな手段で強引にむすびつけた。航空路は、
その手段だ。ロック音楽も、その手段だ。そしてこの数年で見えない大洪水のように
地表を覆いはじめたインターネットも、その手段だ。これら三つの連結手段は、いず
れも英語をその基本的な乗物としている。航空機の管制は国際的に英語でおこなわれ
ているし、ロックは各国語ロックをたしかに生んではいても基本的にはあくまでも英
語の歌謡だし、コンピュータ文化はそのハードウェアの開発にはじまって大部分が英
語の支配下にある。
その背後には、ばかばかしいまでの物量の豊富さと魔法じみた技術革新によって、
世界の他の地域にとってこの上なく「セクシー」なものとして現れた、第二次大戦後
の「アメリカ的生活様式」の覇権があった。星条旗模様のタンクトップを着て、にこ
やかに世界にむかってみずからの優越を宣言する、幻のマテリアル・ガールたち。や
がて東西対立の冷戦構造を瓦解させたのは彼女らであり、ときにはまちがいだらけの
英語の文句の印刷されたTシャツを世界中に氾濫させたのも彼女らだった。イメージ
存在としての彼女らこそ、「英語帝国主義」の巫女たちだ。たしかに英語の横暴は、
アメリカ国家およびそれに連動する国際資本の横暴に平行して、目にあまる。それは
国際航空網のように強引で、ロックのように退屈で、インターネットのように胡散く
さい。消費がすべてであり、金銭がすべてであり、あらゆる知識も才覚もそれに奉仕
するために組織されている社会の愚劣ないやらしさに、英語は正確に対応しているよ
うに見えるのだ。世界が均質化することはありえないが、ある均質な何かによって惑
星の全体が支配されることはありうる。その支配にむすびついているから、英語はう
とましい。多数かつ多様な世界を黙らせ、一言語だけで世界が説明できるような顔を
しているから、英語には腹が立つ。その支配とむすびつくことで個々のローカル社会
にも非情な階層が生まれるから(英語ができると儲かる・便利・格好いい)、心ある
人は義憤にかられる。英語の専制が取り残す影に敏感なこうした反英語的立場は、ぼ
くにもよくわかる。
けれども、だからといって、英語をあっさり無視すればそれですむのか? それで
は話はあまりに簡単だ。それでは英語が強いる死角を捨てるとともに、英語がたしか
にもたらしてくれる圧倒的な視覚を、同時に捨ててしまうことになる。肝心なのは、
この犬との新しい付き合い方、英語の新たな使用法なのだと思う。ぼくがいう「圧倒
的な視覚」とはあくまでも実用的なものだが、その「実用性」とはビジネスに役立つ
といったことではない。自分がこの広大な流動する世界の一隅を生きつつ、はるかに
遠い土地、自分とはまるで無縁に思える人々とのあいだに突発的な回路をひらくため
に、現実の問題として、英語は相対的に [相対的に、に傍点] 他の言語よりも圧倒的
に広い通用範囲を確保してくれる、ということだ。
英語はたしかに史上最大の「帝国」を築いた。しかし、その帝国はいたるところで
刻一刻と崩壊し、崩壊しつつ異質な要素どうしの新たな結合を絶えずくりかえしてい
る。広い空間をカバーし、ものすごい数の人々にさまざまな場面で使用されることに
より、英語においてはつねに新しい語彙・言い回し・使用法が、猛烈な速度で開発さ
れている。ゲルマンとラテンの混血によりはじまったこの雑種言語は、次の千年紀を
前にして、他のどの言語にもまして、人類史的な実験の言語となっているのだ。イギ
リスの英語があり、コモンウェルスの英語があり、アメリカの英語があるだけではな
い。アフリカの英語があり、アジアの英語があり、太平洋の英語があり、非英語圏の
英語がある。そしてそれらすべてのインターフェースに、日々新たに火花を散らす複
数化した英語がある。「帝国」の支配者たちは、今後もこの犬を支配の道具として使
いたがるだろう。だがその犬に親しむことによって支配に抵抗し、その犬を連れてか
つて見たことのなかった地平線をめざして旅に出るのは、英語を少しでもかじったあ
らゆる「われわれ」にとっての、誰にも邪魔できない権利だ。
つまり、英語は奇妙な逆説を、その内部に秘めている。英語の通用範囲が広がれば
広がるほど、それは「一つ」の言語ではなくなるのだ。それはあらゆる他の言語と交
配され、あらゆる反乱の余地をみずからのうちに抱えこみ、あらゆるリズムとメロデ
ィーとステップを覚え、カーニヴァルのような混乱を生きることになる。その規範的
な使用法によって「階級」と既得の「資産」を守ろうとする者たちが一定数いても、
そのかたわらで、お行儀の良さなんかおかまいなしに崩れた文法と限られた語彙とひ
どいアクセントで、ただし気前の良さと爽快な心意気はたっぷりもちあわせた未知の
友人たちが、そのつどある種の 英語を使ってお互いに話しかけ、一緒に笑い、食卓
をともにし、誰に頼まれたわけではなくとも、新しい歌を編みだすための共同作業にとりかかる。これは仮定ではない。今日も、惑星のどこかで、確実に起こっていることなのだ。
ぼくとしては、そんな英語に、自分の何かを賭けてみたい。本当は別に英語じゃな
くてもよかった。スペイン語やアラビア語やスワヒリ語でも、ぼくをそれだけではあ
まりに狭苦しい母語の檻から、確実に連れだしてくれたはずだ。しかし新しい言葉を
覚えるには時間がかかる。この生涯では、ともかく英語を、もう少しは追求してみた
い。どこかに旅しようとしまいと、英語を手がかりにして見えてくる風景を、まだま
だ探ってみたいと思う。そのための最良の指針となってくれるのが、外国人・移民・
亡命者の英語、特にそういった人たちによって書かれた文学言語ではないかと、ぼく
は考えている。なぜ「文学」か、というと、人が何かを理解するには時間がかかるか
らだ。異質な世界との衝突の意味、「世界」そのものの複数性をよく考え、それを自
分にとって不自由を強いられる言葉で手探りで綴ったのが、かれらの文学だ。これを
「エグジログラフィー」(エグザイルの記述)と呼ぶことにしよう。そこにこめられ
た経験の多層性、葛藤の痕跡を十分読みとるには、読者の側も少しは時間をかける覚
悟でつきあわなくてはならない。それはどのような一冊の「国語辞典」でも対応でき
ず、どのような一国の歴史によっても説明できない、抵抗にみちた世界像を描きだし
ているからだ。
そしてまさに、こうした非母国語・亡命言語としての英語で書かれた「作品」の途
方もない豊富さによって、現代英語は目の眩むような厚みと魅力をそなえているのだ
。別にノーベル文学賞が文学の絶頂を保証するものだとはいわないが、ロシア出身で
アメリカの桂冠詩人として死んだ亡命者ヨシフ・ブロツキー(一九八七年)や、カリ
ブ海のフランス語系パトワ(混成言語)を背景とする流浪の詩人デレク・ウォルコッ
ト(一九九二年)といった近年の受賞者たちを見るとき、ある個人の生の冒険がどの
ように独特な英語を生み、どのように新鮮な変容をその集合的な魂にもたらしている
かがわかってくる。別にわれわれがそのような英語表現の空間に参加しなくてはなら
ないというのではない。かれらの経歴と作品にくっきりと書きこまれた、世界の多様
性と混乱と広大さと美しさが、ぼくら自身の人生という個人的な冒険のための、得難
い刺激になるということだ。
英語という犬を選べ、というつもりはない。でもきみがそいつとともに旅に出るこ
とを決意するとき、そいつはあらゆる「実用性」の彼方に、砂漠から密林、雑踏から
無人の荒野まで、輝やくすばらしい新世界を、他のどの言語よりも広範囲にわたって
、たしかに案内してくれるはずだ。
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