未来の氷河への速達−『時の島々』をめぐって
(初出=「デジャヴュ・ビス」13号、1998)
亜熱帯の島。独特の瓦屋根の並ぶ集落。家陰にたたずむ妖怪。濡れた石畳の道。人
影に浮かぶ名前の群れ。草を刈った少年。草に埋もれそうな道端の十字架。走る犬。
蠅のおびただしい死骸。子供たち、貧しげで、古びた。オリオン・ビール。鉄条網。
基地。壁の向こう側、肌の向こう側、言語の向こう側。遠浅の海をすすむ竹馬。兵士
、混血児、酒場。サーカス、ナターシャ。老人の顔、馬の顔、犬やチンパンジーそれ
ぞれの儀礼的な群れ、蛙の干物、都市の群衆の投石、奇妙な人々、奇妙な死んだ天使
たち、顔。海辺の儀式。石垣、近寄る夕立、道。濡れた道。
時間には過去も未来もない、ただ過ぎ去ったものの現在と、いまあるものの現在と
、これから生起するものの現在があるだけだというのが、アウグスティヌスの考え方
だった。過去とは記憶に残る心像と言語によって構築された何かであり、未来とは過
去を素材として想像力と言語によって構築された何かであり(したがって未来はすで
に一種の過去としてしか存在せず)、人の意識にとってはただ「現在するものの現在
」があるだけで、それは五感のすべてをまきこみながら「いまここ」で体験され、刻
々と姿を変えてゆく。それなら人間にとってはただ「いまここ」というそのつどの一
瞬に炸裂するようにひろがる空間があるだけで、人は流れる時間をありのままに経験
することはなく、ただあらゆる瞬間に起こる世界の開示か再創造が、人間にとって連
続性の印象をつねにすでに過去のものとして作りだしているということになる。
けれども、とついさっきまでテキサス州オースティンの市内を流れるコロラド川の
岸辺を歩きながら、ぼくは考えていた。たとえば目をつぶって、そのときその場の空
間をよく感じとってみようと試みる。いろいろな音が聞こえる。鳥の鳴き声、車の音
、石に撥ねる水音−−空間を旅して自分に届くそれらの音は、音となって把握される
振動のそれぞれの源においては、同時に生じたものではない。こんどは目を開く。視
界を構成する光は、さまざまな対象物にそれぞれ別々の時にぶつかって反射し、この
網膜まで直線的な旅をしてきたものだ。つまり、「いまここ」という同時的現在を作
り上げているとわれわれが信じる光も音も、あらかじめその空間的拡がりをとおして
、時間化されている。空間とは、一人の人間という観測者の位置をもちこんで考える
ならけっして「一瞬」には存在しえないもの、それはすでに時空の連続体なのだ。空
間にはすでに時間のずれゆきが刻まれ、川の流れにはあらゆる水源や降雨からの水滴
が合流し、私は現在するものの現在をつうじて絶えず時の経過に触れている。そして
一枚の写真は、ある瞬間の空間を写しとるふりをしながら、逃れがたく瞬間を超えて
、歴史を露呈させる。
今福龍太によって再配列された東松照明の数々の写真を見ながら、改めて写真が歴
史とのあいだにもつ不思議な性格を考えずにはいられなかった。写真の画像は、完全
に過去のものだ。過去のその時点で視覚にさらされうる「歴史」を写真はみずからの
表面に刻み、それをわれわれの「現在するものの現在」へと容赦なく送りこんでくる
。その像は、それが絶対的な取り戻しようのない過去に属すれば属するだけ、森閑と
した無音の酷薄さをおびて、現在をおびやかす。そこで一枚の画像を前にして人が体
験する「隔て」の感覚は、もともと写真家がたしかにそのときその場での現在におい
て経験していた何事かを起源としながら、まるで死刑を執行する断頭台の刃の音を思
わせるシャッター音とともに、ある決定的な「隔て」のむこうへと送りこまれたもの
だった。シャッターを押すことは、いわば現在の直接性への断念だ。だがこの断念に
よって、撮影の「場」をなしていた「現在」は、時のずれゆきを構成する細かく見れ
ば無数の傷痕とともに、誰の目に触れるかを予測しえない未来へと、川面に浮かぶ木
の葉のように、はじめて送りだされてゆく。
まだ「歴史」と呼ぶにはふさわしくないそれぞれの土地/時代にあっての日常の場
をさまよいながら、ひたすら受け身であることに徹し、光景がむこうから襲いかかる
のを待ち、待つうちに羽虫にむかってすばやい舌をつきだすカメレオンのような敏捷
さである一瞬に凶暴な「隔て」の一撃をくらわせるスナップ写真は、人々の集合的な
「暮らし」が言説によって組織され局部的な擾乱はあってもやがては川の流れにたと
えられるひとつの大きな「歴史」へと流されてゆく直前の無言の地帯で、互いに遠く
孤立した場所たち時間たちの印象を、ぐるぐると循環させる。絶えずそれらを並べ替
え、点滅をくりかえす。メディアの爆発的肥大によって、生身の視覚像の総体をはる
かに超えた途方もない量の複製イメージが人の世界観=歴史観をかたちづくるように
なった世紀の終わりをむかえて、われわれは自分が「歴史」と呼ぶもののどれだけが
、そうした循環し点滅する画像の、大洋にちりばめられた島々のような点在によって
支えられていることかと、驚かずにはいられない。他の誰にもまして「隔て」の専門
家としての写真家こそ、「歴史」の直接の製作者なのだ。われわれは写真家による「
隔て」をなぞるようにして、はじめて「歴史」に立ち会う。その「歴史」とはたとえ
ば敗戦国「日本」に貫入した「アメリカ」の存在であり、君臨するこの異物との境界
面にシャッターの逆説的打撃を加えることが、東松の出発点となった。
一九五〇年に写真を撮りはじめて以来、沖縄を舞台とする『太陽の鉛筆』刊行まで
の四半世紀、彼がモノクロームで執拗に追ったのは、「主題」としてはたしかに「ア
メリカ」による「日本」の物質的変容だったといっていいのだろう。だが、この意志
の軸に沿って撮られた写真群をこうしてまとめて見るとき、そのように要約して語る
ことのできる歴史的主題をはるかに超えて、個々の写真のはらむ過剰が、まるで唸り
を上げ振動するような強さで迫ってくるのだ。それはたしかに写真の審美的次元であ
り、その層に触れるとき、われわれは言葉を失う。その失われた言葉のかたわらで、
結局は「天佑」とでも呼ぶしかない、写真を支配する奇蹟的な偶然が浮かび上がる。
なぜこのような構図が成立したのか。なぜこのような表情が撮れたのか。少年は何を
思ってカーテン越しに亡霊のように顔を出したのか。白いスーツにサングラスのやく
ざめいた男の陰に立つ少女の鞄には、なぜ「Everything is good」の文字が書かれて
いたのか。なぜ二人のバスガイドが、そのとき窓の外を歩いていたのか。いったいな
ぜこの小さな女の子は鉄の格子扉を舐めているのか。とても作為ではありえない、奇
妙さ。しかしそれをいうなら個々の人の表情のすべてが奇妙であり、すべての風体が奇怪であり、すべての光景がどこかしらに透明な謎を秘めているように見えてくる。
こうした細部によって、スナップ写真群は、ひとつの主題におさまることはけっし
てない。そしてそれが、「時」に「島々」が潜むことの意味なのだ。群島の思考はロ
ーカルな解決の積み重ねだ。写真「集」というかたちをとっても、系列はみずから崩
壊し、流れは遮られ、予測不可能な何事かがつねに出現し、具体的な事物の背後を探
る視力は挫折し、われわれは不透明な、たしかにかつてそこにあった過去の現在に、
改めて直面する。「氷河期とは未来の範疇で/そのとき人はついに誰も愛さなくなる
/自分自身さえ」(ジョゼフ・ブロツキー)。写真家は状況を「隔て」の一撃により
「歴史化」し、写真はすみやかに、そして必ず、未来に送り届けられる。未来に住む
われわれはその像を見つめ、沈黙のうちに、過去から現在へと噴出する「世界」の貌
を、はじめて学ぶことになる。
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