管啓次郎
Keijiro Suga

BAD言語の誇りと苦悩−エボニックス広告、背中読み


本稿は「広告」1999年3+4号に掲載された文章の別ヴァージョン(約2倍の 長さ)です。アトランタのアフリカ系アメリカ人の専門職の人々の団体による、エボ ニックスをめぐる意見広告の解説エセー。対象となった広告には、マルコムXを思わ せる黒人の男の後ろ姿に、I has a dream. というコピーがかぶせられていました。


 

 さてと、この広告。おや、なんか変だな、とは誰でも思うだろう。ええっと、I と きたら、やっぱりhaveでしょう? あるいは過去形だとしたってhad だし。これ、ま ちがってるんじゃないの。しかしこんなシベリアに椰子の木を植えるような大誤植が 堂々とまかりとおるはずはない、よね? 幸か不幸か日本でも中等教育の第一年めに 習得させられる英文法の知識があれば、このセンテンスには違和感を覚えるはずだ。 たてならびの単語と、ことさら大きなHAS が効いている。後ろ手を組んだ怪しい後ろ 姿の男、黒ずくめの服装に黒い帽子をかぶって−−肌の色も黒い。それからやっと右 下にあるEBONICS の文字が目に入る。ああ、そうか。これはエボニックスの広告なん だ。なるほど、道理で。でも、ところで、エボニックスって何だっけ?

 エボニックス、それは黒人英語(ブラック・イングリッシュ)のこと。ブラック・ トーク、ゲットー・トーク、ストリート・トークといってもいい。言語学者たちの呼 び名でいえばアフリカン・アメリカン・ヴァナキュラー・イングリッシュだ。ヴァナ キュラーという単語は「公式の文章語」に対立させて「日常の話し言葉」といった意 味で用いられ、しかもスラングやダイアレクトと呼ぶ場合のようにその言語を「崩れ た」「だらしない」「まともな場には出せない」ものとして貶める含みを、避けられ るようになっている。ダイアレクト、つまり地理的/社会階層的「方言」だって別に 何はばかることなく堂々とどこでしゃべってもいいはずなのに、現実にそれが「標準 的」「公式」の言語から馬鹿にされ片隅に追いやられてしまうことは、否定しがたい 。

 一方、このエボニックスという名称自体は、一種の粉飾だといっていいだろう。エ ボニー、つまり「黒檀」の言語、という含みの造語だ(初出は一九七三年らしい)。 エボニーはたしかに美しく見事で、六〇年代の「ブラック・イズ・ビューティフル」 の掛け声以後にあっては、それが「黒い」アイデンティティの象徴と見なされてきた のもうなずける。でも同時に、そこに元来こめられた強烈なアイロニーも、忘れるわ けにはゆかない。もともと「エボニー」とは、近代両アメリカ大陸の基礎を作った奴 隷貿易の時代に、たくましい体をした見事なアフリカ黒人奴隷をさして使われた言葉 でもあったのだから。さまざまな単語にこうして二重の意味を与えてゆくこと、支配 者たちの与える意味を逆転させてみずからの矜持のために使うことは、「新大陸」の ブラック・イングリッシュが常道とする戦略だ。

 黒人の話し方が「ちがう」ということは、まあ、(普通に日本で暮らしていても) みんな気づいてきた。ソウルやブルースやラップを聴いても、映画やテレビを見ても 、話し方も身のこなしも服装も髪形も、プロテスタント白人ミドルクラスの「アメリ カ人」とは、ずいぶんちがう。たしかに、テレビ番組を例にとっても、二〇世紀中葉 の明るく清潔な白黒画像のノスタルジアにみちた『名犬ラッシー』や『パパは何でも 知っている』の時代は遠く(ぼく自身はもう少し若くてせいぜい『パートリッジ・フ ァミリー』を観て育った世代ですけれど)、そんな理念的な白い「アメリカ人」像が いまもそのまま通用するわけはない。わけはないが、ウィル・スミス主演の『フレッ シュ・プリンス・オヴ・ベルエア』を主流派の白人も少数派のラティーノ(ヒスパニ ック)やアジア系も大喜びで見る現代にあっても、アメリカ合衆国が「きちんとした 英語を話す白い標準的アメリカ人」に支配された社会であり、「まともな英語のしゃ べれない黒い(あるいは褐色の、あるいは黄色の)アメリカ人」が、さげすまれ、貧 しさにおしこめられ、万事あまり希望のもてない状況におかれがちだということは、 どうやら厳然たる事実なのだ。肌の色の支配は、言語やファッションや食物やその他 いろいろな文化表現をたずさえて、いまもつづく。その支配ぶりは、手をかえ品をか えて複雑化し、水面下に沈み、いよいよ強固なものとなる。だいたいいまあげた『フ レッシュ・プリンス』でさえ、舞台となるのは高収入の黒人ミドルクラス家庭であり 、アフリカ系住民たち内部での階級差、文化差、言語差が、笑いの発生源にされてし まう。

 "I HAS a dream" と公の場でいえば、聴衆の中には必ず失笑する連中がいる。いう までもなくこれはキング牧師の有名な演説で高らかにくりかえされる "I have a dream" の、エボニックス訛りだ。失笑する連中は、それを人称の区別にしたがって 動詞を変化させることができないための、文法的失策だと考える。でもそれは、けっ してそうとばかりもいえない。ブラック・イングリッシュにおいては、語尾の子音の 出現規則がちがうのだ。たとえば "I said" だって、語尾の [d]が[z] の音で置き換 えられるため、文字に書かれるときには"I says"となったりする。そしてこれはアフ リカン・アメリカン・ヴァナキュラーだけではなく、その影響を強くうけた南部白人 の訛りサザン・ドロールでも現れる(フォークナーの小説に出てくる南部のプアー・ ホワイトたちの言葉を見るといい)。言語とは、どんな言語でも(訛りでも方言でも )、話し言葉としては一貫した体系をなしているものだ。ところが子供たちが学校に やられ「標準」英語とその文法を教えられるときがくると、混乱がはじまる。子供た ちは自分たちが家庭で耳で聞いたとおりの音を、何とか文字で表そうとする。すると それが学校の先生によってはまるでちがった単語をさすものと解釈され、「文法的ま ちがい」の烙印を押されてしまう。ここで「標準」英語の文法にどうにも「乗れない 」子たちが、それ以後、成長しつつどんな苦痛を味わうかは、想像できる。

 かれらの話す英語は、笑われるのだ。ストレートな意味で「バッド」な、つまり「 悪い」、クォリティの低い言語として。しかしそれはあくまでも「やつら白人たち」 の見方だ。その言葉を話し、生き、その言葉により血と汗と涙と笑いを知ってきた自 分たちにとって、それは逆転的な意味で「バッド」、つまり「いいぞ! スゴイぞ!  カッコいい!」の言語であり、家族の、兄弟の、姉妹の言語であり、他人が何とい おうとぜんぜん変えるつもりはない。けれどもこの「われわれ」の論理は、たちまち 壁にぶつかる。ある社会において、標準語とは何よりも「行政」と「学校」の言語だ 。いずれの場合も、文字言語ないしは文章語としての役割が大きく浮上してくること に、注意してほしい。さらに「行政」と「学校」の言語は、そのまま「契約」や「取 引」の、ひいては「資本」の言語へと、流用される。お役所のように話し、文書を作 れること。学校にちゃんとゆき、学校で教わるとおりに話し、文章を書けること。そ れが万人が万人にとっての狼であるアメリカ後期資本主義社会で、お金の儲かる仕事 につき、生活水準を向上させる、最低限の条件なのだ。それを否定して、なおもお金 を儲けようと思うなら、資本主義の裏ワザ社会であるギャングの世界で生きるしかな い。事実、「バッド感覚」はつねにそうした「ギャングスタ」(gangsta) の世界をコ マーシャルな意匠として利用し、そこから新鮮な刺激と活力を汲み上げてきた。

 そんなバッド言語としてのエボニックスが脚光を浴びる事件が、一九九六年十二月 にカリフォルニアで発生した。サンフランシスコ対岸に黒人コミュニティとして発展 してきたオークランドで、市の教育委員会が、アフリカ系アメリカ人の子供たちに効 果的に「標準英語」を教えるための手段として、「独立した言語」であるエボニック スを教室で使うという決議を発表したのだ。それだけなら、わからなくはない。とこ ろが委員会はエボニックスを英語の「ダイアレクト」ではなく「遺伝的に決定された 」別の言語だとする珍説をもちだした。これが論争の火種となった。翌月、アメリカ 言語学会が専門的見地からの声明を発表する。要約してみよう。(1)エボニックス はアフリカン・アメリカン・ヴァナキュラー・イングリッシュと呼ぶべき英語の一変 種であり、それを「スラング」だの「壊れた英語」だのと呼んで貶めるべきではない 。(2)ある言語を独立した言語と呼ぶか、方言と見なすかは、社会的・政治的問題 である。(3)ヴァナキュラーを維持することには個人的・集団的な価値がかかって いることはもちろん認めるものの、アメリカ合衆国国民として標準英語を習得するこ との利益は疑えず、生徒がその習得を望むとき、そのための十分な資源を与えるのは 当然だ。(4)したがって標準英語を教えるためにヴァナキュラーを援用するという 教育委員会の決議は、言語学的にも教育法的にも妥当なものだといえる。

 これは良識的でもっともな意見だと見える。けれども社会制御の観点からすると、 そこには厄介な問題がある。カリフォルニアでは百を越えるという、移民の生徒たち の家庭言語すべてに、それぞれ対応できる教師をそろえようとするなら、莫大な社会 的費用がかかる。あれこれの「外国語」を自由に流通させるなら、アメリカ合衆国は バベルの混乱を生きなくてはならない。現実の多言語使用を前にして、行政の一言語 主義はひるまざるをえない。アメリカ合衆国は英語国家、ドルという通貨はあくまで も英語通貨であり、それ以外の言語の増殖を許すことは、システムの全面的見直しを 要求するのだから。

 ここで、この公共広告のコピーにこめられた苦渋がはっきりしてくる。四百年以上 にわたって、われわれ(つまりアフリカ系住民)は、声を手に入れるという権利のた めに戦ってきた。エボニックスは、はたしてその「声」たりうるのか、というのが、 コピーの投げかける疑問だ。「白いアメリカ」というシステムは、言語の統制によっ て効率よく機能している。「きちんとした英語」を読み書き話せることこそ、システ ム内で有効な「声」を自分たちのものとする唯一の手段だ、というのが、深南部の中 枢都市アトランタの黒人専門職の人々(弁護士や医師をはじめ高等教育と高収入をす でに手に入れた人々)の組織のために構想されたこの広告のメッセージだ。アメリカ 社会を特徴づける法律家の異常な多さも、MBA(経営学修士)という学位プログラ ムのばかばかしいまでの繁盛ぶりも、すべてはシステムの語法を普及させ、その支配 を貫徹するためにある。エボニックスは、そのシステムの語法には、食いこむことが できない。正当な社会的発言権を得るためには、「やつらの言葉」を話すしかない。 エボニックスを表だって「言語」として公認させ、それで発言権を得たつもりになっ ても、事態はまるで変わらない。みずから「白い英語」を身につけた人々がこの広告 で指摘するのは、そんな逆説だった。

 アフリカ系住民には限らない。チカーノ(メキシコ系アメリカ人)の作家リチャー ド・ロドリゲスもまた、二言語教育には反対の立場をとっていた(おかげで彼は同胞 たちからひどい非難を浴びた)。家系の伝統言語であるスペイン語を教え、学校でも 社会でもそれを可視化し、音を響かせるのはかまわない。しかし、「白い英語」が支 配するこの国で、「言語は力」という冷厳な事実に対処するためには、あえて情感に あふれた家庭の言語を水面下におしこめてでも、システムの言語を学ばなくてはなら ない。

 いずれにせよ、二重化が迫られることになる。一方で、アフリカ系コミュニティ内 部での新たな階級分化。この階級分化は、そのまま言語の分化をともなうことになる 。他方で、一個人内部での言語の分化。どれほど標準英語を「力の言語」として社会 的に利用するようになろうと、家系の伝説や成長の記憶にむすびついたブラック・イ ングリッシュは、さまざまな味や光の濃淡や色合いとともに、あいかわらず日常生活 を彩るはずだ。そこに、いわば「二枚舌」の戦略がよみがえる。時と場合に応じて、 相手に応じて、話す言葉を変えてゆく。そのリズムを、メロディーを、語彙を、母音 や子音の発音を、文法すら、変えてゆく。さらには標準英語とエボニックスを、二つ の言語として分離するのではなく、あくまでも連続体として捕らえ、そのスペクトラ ムをできるだけ幅広く、自由自在に往還しながら生きてゆく。それはすでに、話芸の 世界だ。そして物語と歌と日常会話がすべてひとつになって流れるような口承性が脈 々と息づいているアフリカ系住民の言語宇宙は、元来そうした離れ技めいた話芸を、 お手のものとしていたのではないか。

 エボニックスの公認化というあまりにも好意的な動きは、このような話芸的精神と は、残念ながら相いれないものだといわざるをえない。表の言語である標準英語に対 して、ブラック・イングリッシュはその「裏をかく」。この表と裏の二重性の解消を めざすことは、言語がその現場とし母胎とするストリートから陰影を奪い、衛生化す ることにしかならない。けれどもストリート・トークの魅力は、まさにそれが「行政 」や「勤労」や「効率」や「教室」になじまないことから来ているのだ。システムの 公式言語がどれほどお行儀よく立派で丁寧な話し方をしようとしても、アメリカ英語 は着実に「黒く」なっている。スペイン語系住民やアジア系移民だけでなく、「白い 」ミドルクラスの子供たちだって、どんどん「黒い」言葉を覚えている。一般小学生 の言葉が、どれほど「黒く」なっているかは、驚くほどだ。友達には「デュード」と 呼びかけ、挨拶には片手をぶつけあって「ハイ・ファイヴ」、かっこいいは「クール 」で、がつんとくらわすのは「スラム・ダンク」、のんびり楽しくやろうは「チル・ アウト」。で、みんなでポケモンの名前をラップで歌う。もちろんマイケル・ジョー ダンやタイガー・ウッズといった天才アスリートの人気は、肌の色も社会階層の区別 も、あっさり超えてゆく。いったい何が起きているのか?

 ここで気をつけておきたいのは、アメリカ社会で、「白」と「黒」が均衡のとれた 対をなしていたことはいちどもないという事実だ。「白」は、あくまでも「純血」の 神話を信じられる程度に白くなくてはならない。これに対して「黒」の血が一滴でも 混ざっていれば人は「黒人」であり、黒人には白から黒まであらゆるグラデーション の表現型が含まれる。みずから「カブリネイジアン」(カリフォルニア/黒人/ネイ ティヴアメリカン/アジア系)と名乗った混血児タイガー・ウッズは、かつてジミ・ ヘンドリクスがそうだったように、混沌とした多様性の夜をはらむ「黒」の、最先端 に位置するひとりだ。ここまでくれば遺伝学を離れて、いわばシステムにしがみつく 求心的な動きを「白」、システムからはみだしてゆく遠心的な動きを「黒」と名づけ ても、的外れとはいえないだろう。

 ぼくの結論をいおう。エボニックスは公認化を必要としない。けれども親心にみち たミドルクラス専門職業人たちの禁圧も必要ではない。エボニックスは、みずからを エボニックスと呼ぶ必要すらない。それはわめいたりささやいたり、笑ったり泣いた り、歌ったり踊ったり、おどしたりなだめたりしながら、つねに独自の話法と溌剌と 跳ねまわるための空間を見つけようとしている、タフでクールに生きるための技芸の 言葉なのだ。

 


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