写真が可能にした「時」の伝い歩き
今福龍太インタヴュー


…… このコラボレーションの話があった時には、どのように受け止められましたか。
今福 東松さんが自分の写真集の編集を他人に委ねるのは、伊藤俊治がやった『廃園』以来で、これがおそらく3回目になるはずですが、東松さんがそこで意図しているのは、簡単にいえば自分の写真にたいして持っているオーソリティー=作者性の問題について考え直すことだと思うんです。つまり、どこまでが撮影者の作者性に帰属し、どこからが「時代」とか、見る側の人間の想像力とかに帰属するのか。これはもちろん写真に限った問題ではなくて、テクストにも同じ問題があるわけですが、とくに写真の場合には、現実そのものに依存する度合いが高い、少なくとも一般的にそう考えられているわけで、その中で自分と写真との社会的関係についての様々な境界線を確かめる作業の一つであるような気がします。
…… 単に普通に写真集を出すだけなら、東松さんは自分で100パーセントできるし、また実際にやってこられた方ですからね。
今福 そうなんです。一般的には写真家が20年、30年前の写真を改めて編集しなおすという作業の場合、時代時代の作品成立の文脈を追いながらある程度網羅的な全集を編むといったように、自分の作品の歴史的な位置づけを含めた自己検証に近づくと思うんですよ。ところが今回の東松さんの場合、一見したところ自分の作品を投げ出すかのようなかたちで他人にアレンジメントを一任する。もちろんあっさり投げ出すわけではなくて、こちらがどうやるかをじっくり見ているわけでしょうけど。ある意味でこうした身振りは、自分の過去の作品を、未来に向けて投射することによって別種の創造性に賭けるという、非常に興味深い身振りでもあります。
…… 実際にはどういう形で依頼があったんでしょうか。
今福 岩波書店の美術書編集部の多田亜生さんを通して500枚ぐらいの写真を渡されて、まず選んでほしいという依頼が最初にありました。その上で、できれば写真集を編集してほしい、と。最初はこの依頼にどういう意図があって、どこまでぼくが関わるべきなのか、よくわからないところもあったんですが、そのうち東松さんのほうも本格的なコラボレーションを考えておられるという感じが伝わってきたので、こちらも本気になって100枚選んで編集者に送ったんです。その時点で初めて東松さんにお会いしたら、本文テクストはもちろん、写真の選定から、配列、レイアウト、タイトルも含めてすべて任せたいと東松さんが言われたわけですよ。しかもいわゆる「東松照明写真集」にぼくの解説が付くというような常套的な形式ではなくて、連名の著作にして完全なコラボレーションでいきたいという提案でした。ぼくはそれを聞いて「たいへんなことになった」と思いましたけれど(笑)、そのときの東松さんとの対話というのは、もう多くを語る必要がないという感じで、お互いの考えていることが直感的に理解できた気がするんです。東松さんのほうもあまり注文はなくて、ぼくも雰囲気で東松さんが期待していることがわかった。その意味では、コラボレーションと言っても、二人で綿密に議論を重ねて進めていったのではなくて、相互の想像力の中でコラボレートしながら本を作っていったわけです。だけど、ぼくはコラボレーションというのは本来そういうものだと思う。物理的に一緒に働いた時間でコラボレーションの密度が決まるというものでもないでしょうから。
…… 今福さんが500枚の写真からどの100枚を選んだかで、すでに東松さんにはかなりのことが見えていたんでしょうね。
今福 そうかもしれません。そうやって東松さんと初めて会って本の枠組みが決まったのが去年の5月か6月頃で、東松さんは早々とあとがきになる文章を書いてしまいましたから、その後はぼくのほうしかやることがないわけです(笑)。ぼくは8月の末からアメリカにでかけなければいけなかったので、とりあえずその直前までに写真の順序と全体の構成、つまりテクストを挿入する位置とか、ブランクの頁をどう入れるかといったことまで全部指定して、ページを組めるようにしていったんです。編集者が驚いたのはまずその時でしたね。何より、こういう並べ方があまりに常軌を逸していたわけです(笑)。東松さんの写真が置かれていた時代的・地域的コンテクストを全部シャッフルしてバラバラにしてしまいましたから。
 それで、あとはテクストを書く作業だけが残されて、ぼくは9月のほぼ一カ月間、アメリカの南西部を転々と車で移動していましたけど、そのあいだずっと東松さんのキャビネ判の写真を100枚すべて持ち歩いていたんです。カリフォルニアから、ニューメキシコ、コロラドと、写真と一緒に動きながら思いつくままにノートをつけていきました。それは必ずしも写真を見ながら書くということではなくて、東松さんの写真の存在を強く感じつつ、それと一緒に動いているという感覚の中で、ふと自分の頭をよぎっていく断片的な言葉や文章を少しずつノートに書き込んでいったわけです。それがぼくにとってはコラボレーションのかたちとして、写真家とテクストを書く人間とが一緒にいて議論したりするよりも、はるかに刺激的なスタイルであると思えたんですね。そうやってテクストの原型が出来上がっていって、日本に帰ってきてからも少しずつ書きつづけて、結局ずるずると12月までかかったんですけど、これはかなり厳しい緊張を要する仕事であったと同時に、ぼくにとっては非常に刺激的な時間でした。

20年ぶりの「沖縄」との再会

…… そこで経験した時間もまさに『時の島々』の中に流れ込んでいったわけですね。
今福 実はこの最後のテクスト執筆のあいだに、これは全然別の仕事だったんですけど、20年ぶりに沖縄に行ったんです。20年前、ちょうど返還後まもない頃に行って、特に与那国にはこだわりがあって2週間ぐらいいたことがあります。それが、不思議な偶然でまた与那国に行くことになったものですから、そこでもテキストを書き継いでいました。20年前の東松さんの沖縄、ぼく自身の過去の記憶のなかの沖縄、そしていま現在目の前にある沖縄の三者が、不思議な熱をもって交錯してある種の幻惑を感じていました。
 さらに言えば、これこそ決定的な偶然なんですけど、そもそもぼくが写真というものを、単なるピクチャーからフォトグラフィーというものとして、つまり芸術的、文化的意味を担うべき表現として自覚的に見るようになった最初の写真が、東松照明の『太陽の鉛筆』だったんです。まだ雑誌に断続的に掲載されていた頃ですから、70年代の前半、ぼくは大学の一年生だったと思います。それまで写真というものが社会性を持った表現媒体として自分の中に意識されることはなかったんですが、『太陽の鉛筆』によって写真というものと本格的に出会うことになった。だから東松照明の「沖縄」というのは、ぼくの中で決定的なものとしてあったわけです。
 もちろん当時はぼくにとっても、東松さんの写真は徹底してあの70年代の時代性と結びついたものだったし、非常にポリティカルな文脈の中で見ていました。だから、沖縄を訪ねたあと、返還直後の沖縄をめぐる思想活動にけっこう本格的に関わることも考えていたんです。沖縄だけでなく、公害訴訟やエコロジー運動へ言説的に介入したいという欲望もありましたし。つまり、その頃はちょっと遅れてきた政治青年的なノリで東松さんの写真に惹かれていたわけですね。しかし、その後いろいろあって、ぼくはそういう政治的な世界と直接的に関わるようなかたちでものを考えることから離れていきました。そしてアメリカ、メキシコ、カリブ海へと長いあいだ出ていってしまって、沖縄も遠くなってしまった。
 ところが、例の少女暴行事件に始まるここ数年の沖縄の問題、沖縄の本土に対する本格的な叛乱の態度表明以後、ぼくもその問題に傍観者でいられなくなった。新たに沖縄という場に本質的に関わっていく糸口がないかとずっと考えていたんです。ただ、今の沖縄をめぐる論争は、どうしてもそのままの形では入っていけないものがあった。つまり、非常に近い過去を客観化し、歴史化しなければいけないという真摯な思いが逆に一つのオブセッションになってる。これは教科書に「正しい」歴史をどう書くかという例の問題とも関わってきますが、わずか50数年前のことですから、一方ではまだまだ歴史として客観化できない形で刻み込まれた個人的な生々しい記憶の層があって、それと客観的な歴史を要請するメンタリティとのあいだの調停がついていないのが今の状況です。そのなかで、沖縄にしろ、あるいは従軍慰安婦問題にしても、物証とか、公文書とか、信頼できる証言とかいったものを示すことで、これが唯一の歴史の真実だというものを皆が出そうとしている。しかし、さまざまな立場にいる人間が、それぞれの「正史」のヴァージョンをこれが本当の歴史だと言い合って論争していても出口はありません。歴史というのは、つねにそれを語る人間の創作物としてしか提示し得ない。これはもう言うまでもないことですね。実証主義という形で、物証や証言に基づいていると言っても、同じ物証や証言が逆の歴史解釈を呼び出すことはままあります。つまり、最終的に歴史を実証的な手続きだけで客体化することができない何かがあるわけで、そういう論点を沖縄は見事に示しているわけですね。たしかに日本国家が公式な唯一の歴史というものの中に沖縄を取り込んでしまったことが、まさに沖縄の悲劇だった。国家の正史のなかで沖縄は無化された。だが一方、民衆史観に立って沖縄を犠牲者として認定するというのも、結果として沖縄の周縁化に別のやり方で貢献することになってしまう。この両者の言説的対峙関係には、結局出口がないんです。だから、ぼくは今の沖縄問題に直接関わっていくことにちょっと躊躇いがあって、もっと違う方向からアプローチできないか、ぼくの介入のスタイルはどこにあるのかと考えていました。
…… そんなときにこの本の企画が持ち込まれた。それもすごい偶然ですね。
今福 だから非常に驚いたわけです。20年前のぼくの沖縄体験、そして東松照明の写真との出会いが、長いブランクの後に突如として蘇ってきた。まったく偶然の再会ですけど、それはある意味で必然でもあったのだと確信しました。写真家東松照明とコラボレーションするということを通じて、ぼく自身が沖縄問題や今の歴史論争みたいなものと関わるためのスタートラインを、この本によって作れる可能性もある。20年前のぼくにとっての沖縄、あるいは東松照明の写真というものを、徹底的に異化して、その上でそこに今のぼくのアクチュアルな歴史観を組み込むことによって、沖縄へ再び入っていくための道が開けるかもしれないと思ったんです。もちろんそれは単に限定された地域としての沖縄ではありません。いま沖縄において凝縮的に語られているような歴史の問題、あるいは思想的な一つの構えの問題になってくるわけです。
…… それで、テクストから固有名詞を排除されたわけですね。
今福 読まれてわかるとおり、それはあらかじめ考えていました。ぼくが沖縄の問題に参入していく新しい方法は、沖縄という場所から固有名を取り除くことから始まるんじゃないか。だから、ここではあえて特定の人名も地名も時代性も一切剥ぎとってしまった。たとえばある文章には「南の島」を訪れる一人の亡命詩人が登場します。メカスと沖縄の関係を多少とも知っている者にとって、明らかにそれはジョナス・メカスだとわかるわけですが、テクストではあえてメカスだとは言っていない。メカスのような詩人が出てきたということでいいわけです。メカスによく似た詩人というのは、メカスでもあり、同時にメカスではない。いわばジョナス・メカスという固有名を宙づりにする方法ですね。そうやって土地や時代や人物の固有性をある意味で解体してしまって、その上で東松さんの写真を、今まで解釈されてきたような「時代性」との関係からではなく、写真の持つ多様な「時間性」、写真が喚起するさまざまな時間の層に置き直してみる。つまり写真には、時代を超えた抽象的な時間指向性みたいなものがあります。その意味で東松さんの写真は、たとえば70年代の沖縄で撮られたという一つの時間性に固定的に帰属するものではなくて、現在のわれわれの個人的な記憶との間に時間の揺らぎを生み出したり、さまざまな時間の経験と複雑な関係を作りだせるだけの喚起力を持っているわけです。だからぼくは、100枚を選んだときも、特定の土地や時代が直接にイメージできるような写真はなるべく捨てて、抽象的な意味や多様な時間性に広がっていくような写真を選んだんですね。ぼくが書いたテクストも、自分自身のいろいろな時間との関わりあいや、時間というものに関するさまざまな経験のあり方を一つ一つ辿っていって、写真が可能にしている「時」の伝い歩きと、ぼく自身の「時」の伝い歩きとを反響させようとしました。だから、写真と直接に対応しているような文章はここにはないと思うんですね。写真の被写体とテクストの内容を直接対応させるという意図は最初からまったくなかったんです。

ドキュメンタリー写真の現在

…… 一般にいわゆるドキュメンタリー写真というは、まさに歴史主義的な、公式な唯一の歴史の証言として見られたり用いられたりしてきたわけですね。東松さんの写真もそういう見方をされることがク多くて、そうでなければ、逆に何らかの美学的な主題のもとに非歴史的に見られるか、どちらかだったような気がします。『時の島々』はそのどちらでもない形で、東松さんの写真と歴史との関わりを見せているところが重要だと思うんです。
今福 その意味でぼくは確かに、東松さんの写真、あるいは一般的なドキュメンタリー写真にある固有の時代性を貼り付けるような素朴な歴史主義にたいして明らかに批判的ですけれど、一方ではもっと大きな意味での「歴史」というものを徹底的に引き受けようとしているつもりです。だからこの本は、東松さんの写真を脱歴史的な概念や記号性に飛躍させるポストモダニズム的な評論のあり方にたいする問いかけにもなっていると思います。素朴な歴史主義、時代依存主義みたいなものは、批判する対象ではあるにしても、つねに存在する。むしろぼく自身が思考するときに一番のターゲットにしているのは、言論に潜んでいる、歴史を棚上げし無化しようとする政治学のほうですね。だから、歴史の固有性みたいなものに特権を与えることなく、歴史を受けとめる方法論がないだろうかということなんです。
…… 写真を「時代性」に従属させるような歴史を批判することは必要だけれども、それは決して歴史を棚上げすることではないし、ただ単に抽象的で非歴史的な写真というのはつまらないわけですね。それに関連しますが、たとえば今の沖縄をめぐる言説や写真のほとんどは、沖縄という固有名において語ることによって、むしろそれを一般性に還元してしまっているような気がします。歴史主義への批判が大きな意味では歴史を引き受ける方法であるのと同じように、先程の固有名の問題にしても、いったん固有名を取り除くことによって、最終的にはむしろ沖縄なら沖縄の真の固有性が出てこなくてはならないし、また実際にこの本はそういうものとして意図されているのではないでしょうか。
今福 おっしゃるとおりです。固有性というのはしばしば誤解されていますが、それを抹殺することで普遍性に至るというものでは決してないわけですね。つまり今の沖縄問題のリスクは、あまりにも沖縄という場所や特定の時代に特権を与えて、それをディスクールのなかに中心化する力が強すぎることにあります。その一つの結果として「沖縄に住んでない人間に何がわかるか」というようなディスクールが必ず出てくるわけです。しかし、固有性をまさに単独性をもった普遍性として問題にするためには、そういう固有の経験を徹底して脱中心化しなければいけない。つまり、いったん固有名を剥ぎとる必要があるわけです。そうしてそれを誰の社会性とも接続しうる可能性として開いた上で、あらためて沖縄の固有性をめぐる議論はなされるべきでしょう。 …… それから東松さんの写真の中で、この本に収められている50年代から70年代にかけてのドキュメンタリー写真と、近年のある意味で「美的」な作品とを、どう関係づければいいのかという「問題」があります。過去の写真をこういう形で見せることによって、最近の東松さんの写真の見え方もまた違ってくる可能性がありますね。
今福 そうだとすれば、それはこの本の予期せざる副産物かもしれませんね。東松さんの最近の写真も、やっぱりある意味でいちばん生々しい歴史性に介入しようとしている部分は絶対にあると思うんです。しかし一方では、具体的な時代状況に自分が関わっていくときに、写真が必ずしもその関わり方をそのまま写し出すものではないということを、東松さんは長いキャリアの中で明らかに学びとっている。その意味では、過去の写真のほうが、彼自身の時代との関わりと、写真というアウトプットとの関係がスムースな整合性を持っていた。その関係は今のほうがはるかに屈折していると思います。というのは、東松さんに限らず現代は、写真家の行動のストレートなアウトプットとして作品を位置づけることが、ほとんど不可能になってきている。たとえば、かつての報道写真家が戦場に行って最前線の決定的瞬間を撮るという行動と、そこで撮られた写真の存在は、まったくパラレルなものだったでしょう。ところが、ドキュメンタリー写真というものが成立する地平がどんどん変わっていった。今では、写真家の身体と、最終的にわれわれが目にすることになる写真との間に、無数の政治的、歴史的、あるいは私的なプロセスが介入するようになってきたわけです。
 だから、今のドキュメンタリー写真家の仕事というのは、要するにそのすべてのプロセスに写真家自身が徹底して関わるということに意義があると思うんですよ。写真家がある時ある場所で写真を撮ったという経験と、われわれがその写真をある時ある場所で見るという経験の間に横たわっている様々に錯綜した関係性のなかにこそ、写真のほとんどすべてのリアリティーはある。そういう自己と他者と歴史の関わりの総合的なプロセスを見ることが、結局写真を見るということの内実となるはずです。いまのドキュメンタルな写真が独立した「作品」として弱いということではなくて、いま写真とはそういうものなんですね。写真にとっての「イメージ」の比重は相対的に弱くなっているといえるでしょうが、そのことは、イメージ芸術として生まれた写真の敗北ではなく、むしろ新たな生命として自らが生きる多様な「時間性」を発見したという、写真の力です。だから東松さんの最近の写真も、われわれがアウトプットとして目にする作品のイメージそのもののが何であるかは別として、写真家としての身体性がかかわりつづける時間と空間の連鎖のプロセスを同時に見ていかねばならないでしょう。
(1998年2 月26日、東京にて 聞き手=八角聡仁)
<初出:「デジャヴュビス」1998年>