tonton
[トントンの時間漂流]
第1回:または「もう動き出した」
ひとは生まれるとき、「さあ、生まれようかな」と考えてゆっくり背伸びをしたり、身
構えたりして生まれてくるわけではない。あらゆるひとは、そこにいるとき、もう生ま
れてしまっている。「あっ、生まれちゃった」というわけだ。
これはとりかえしがつかない。
カフェクレオールのマスターの、あのほとんどモナリザ風とも言うべき謎めいたヒゲの
微笑(われわれの年代だと、この言葉は避けがたく、ある死んでしまった女性週刊誌を
思い出させるのだが)にそそのかされて、ついつい乗るはめになった、
この「デジタルライティング」というサイバー・ヴァーチャル・ビークル。
乗りかたも、入り口もわからなかったけれど、えい、もう乗ってしまっている。
行き先も、経由地もわからないけれど、融通がきくからどこにでも寄れる。乗ってる者
の意志でどんな方向にも舵がとれるというわけで、まあ、いいだろう。
もし、どこにも着けなくて、漂流さえできなくなったら、残骸が漂うだけだ。何かいい
残骸があれば、だれかが拾ってくれるだろう。
ひとは生まれるとき、「生まれちゃった」としか言えないが、死ぬときは「わたしは死
ぬ」とは言えても「わたしは死んだ」とは言えない。「生まれる」という動詞に一人称
の現在形、未来形がないように、「死ぬ」という動詞には一人称の過去形、完了形がな
い。「あれは死んだ」と言えるのは他人だけだ。そしてだれかが「あいつは死んだ」と
言ってくれるときに、「死ぬ」という出来事をじゅうぶん生ききる(つまり死ぬ)こと
のできなかった「わたし」に、そのだれかがかたちを与え、成仏させてくれることにな
る。
それまではヒョーリュー。
サイバー・ヴァーチャル・ヴィークルは
「ミクロの決死圏」と「2001年宇宙の旅」とが、同じものだと実感させる。「内的
体験」は「脱存=エクスターズ」なのだ。
それにしても、1970年代に「2001年」の未来を空想すると、惑星間飛行は日常
化しても、宇宙船内でコーヒーを給仕するのがいまだ女のウエイトレス、という度しが
たいマッチョな想像力はなんだろう。わたしとしては、同じ女性の登場ということで言
えば、宇宙飛行士の心のなかのイメージをそのまままとって現れる「惑星ソラリス」の
無形の生き物の方がはるかにいい。そこには、エイリアン同士の、つまり地球人とソラ
リス生命体との間の、「愛」の模倣があるから。
と、まあ、それはさておき、ヒョーリュー。