. . ..トントンの時間漂流5 . . . . |
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職場まで、オートバイを走らせていて、ふと思う。 オートバイなどに乗っていると「カッコいい」とか「ステキじゃないですか」とか言われる。そんなふうに言われて、いわく言いがたい軽いイラダチを感じる。「違うんだよな・・・」と。そのうえ、度しがたい俗物どもが、「うけ、ねらってんだろう」とか言う日には、「てやんでぇ、死ね!」と吐き捨てたい気分だ。 要するに、乗っている者の気持ちは、それを見ている側とはまったく違ったところにあって、というのが大げさなら、ともかく乗ってる者の気持ちと、乗らずに見ている者が想像する乗る者の気持ちとでは、どこか決定的なずれがあるということだ。 オートバイなんか、カッコよくもクソもない。代官山あたりで無神経に車線かまわず走ってゆくポルシェやベンツの方がカッコいいにきまっている。だいいち、あいつらは金持ちだ。どうしてあんな若い連中が、豪華な車を乗り回しているんだろう。オレはこの年になっても、カローラ(あの国民的大衆車?)一台買えやしない。いや、こんな走れない、駐車もできない東京で、買う気なんかないんだけど。 でも、何で今ごろオートバイなんだ? 車の方がいいにきまっている。四つ足だからふらつかないし、ぶつかっても相手がトラックでなけりゃ安泰だ。それにこのごろの車はショックに強い。少しばかり当たっても平気だ。だから安心して下手な運転もできる。オートバイに乗っていると、車を運転する者ほど横暴な連中はいないと実感する。ウインカーも出さずに車線は変えるわ、後ろはみていないわ、止まったらドアは開くわ、駐車した車で見えない死角から平気でぬっと鼻は出すわで、オートバイから一日何度どなっても足りない。事故を減らそうと思ったら、車はすぐに壊れるように弱く作っておいた方がいい。当たったらお陀仏、そうなればみんなもっとまともな運転をするだろう。オートバイはそのつもりでないと(当たったらお陀仏)乗れないんだから。 それに雨の日のカッコの悪いこと。出かけるときに雨が降ってりゃ始めから乗っては出ないが、途中で天気が崩れたときには、みごとに濡れネズミだ。どこかのピザ屋の出前でもなけりゃ、二輪に屋根なんかついてないんだから。 エアコンつきのオートバイなんてのも、聞いたことがない。カリブ海に行くと、昔のサトウキビ農場が観光地になっていて、エアコンつきの奴隷小屋に泊まれると聞いたことがあるが、冷暖房完備の奴隷小屋、ムチも拷問道具もあるだろうし、ちょっとした倒錯趣味には向いてるかも。オートバイにゃ、チェーンがついてるけどね。(大型に乗る連中のなかには、カーステレオをつけるのもいるそうだが、そんな連中は早くバイクをやめて車に乗ればいい。) と、まずろくなことはないんだ。冬は冬でまた寒い。冷え込みの厳しい日は、五分も走ると手が固くなり、十分もたつと指先の神経が麻痺してくる。早く目的地に着こうと思って飛ばすから、よけいに冷える悪循環だ。 誰がこんなものを発明したのか? でも、考えてみれば、生まれたのは自動車の方が先だったに違いない。汽車が最初にできて、それが無軌道になったのが自動車だ(自動車というのはほんとうに無軌道だ)。その頃(十九世紀末)自転車が登場する。オートバイはそれにエンジンをつけたものだ。 とすると、二輪は四輪よりもソヴァージュだとか、プリミティヴだとかいうのは、進化の図式にとらわれた迷妄だということになる。機械的進化が、移動する人間をも動く箱の中に詰め込み、外部の空間から遮断されて保育器のようなものに入って悦にいるという退化のプロセスに迷い込むことから、本能的に脇道にそれたのがオートバイなのだ。 自動車は身体の移動をまったく機械に委ね、人間にとっての移動を視覚化してしまった。ひとは窓の外に空間の移動を「見る」だけだ。それが蒿じると、その風景さえ余分になって、最近のように運転席の隣の小さなデジタル・スクリーンで、地図の上での移動を目で確認するだけになる。コンヒュータのナビゲータが自動操縦装置と連動する日もそう遠くはないだろう。そうなると「移動」はまったく「身体」と遊離して、移動の 現実の方が体験を伴わないヴァーチャルな出来事になり果てる。 最近、ミナト・チヒロとかいう人の『映像論』(NHKブックス)という本を、ひとがしつこく面白いというので、だまされたと思って読んでみた。だまされてよかったと久しぶりに思った本だ。なんかこの人は写真家というふれこみだが、たしかに写真家だと思った。というのは、ふつう写真や映画の本がおもしろくないのは、書くのがたいてい評論家で、かれらはカメラを手に持って映像を作るわけではないから、そのところの身体感覚が欠けているからだ。映像の話をすれば、それで映像が論じられると思っている。そこにはきっとコーゾー主義とか、テキスト主義とかいう、カマボコよりもカマボコの板を問題にするような流儀の悪い影響が、当人たちの気付かないまま浸透しているのだろう。ところがミナトくんは、写真が目と関係があって、それも機械的、構造的に関係があるだけでなく身体的に関係があって、生きている人間がいないと映像なんてなんでもない、ということあ前提にしゃべっている。だから、もっとも基本的なイメージ(映像)は幽霊だ、なんてうれしいことを言ったりする(そんなことは言っていないけれど、言っているような印象を受ける)。そうすると、ゾッとするアフェクションまで映像に浸透してきて、ほんとに映像というのは身体体験なんだなあと納得するわけだ。 写真と蒸気機関、映画と自動車はほぼ同時代の産物だけれど、ミナトくんがいろいろ面白く指摘しているように、一九世紀の文明が「視覚」というか「見る」ことのオプセッションにとりつかれていたとすると、これまた納得できるものがある。つまり、自動車の発明は(汽車もそうだが)、「移動」という生き物のもっとも基本的な運動を「視覚化する」発明だったのだ。自分でエネルギーを消費して運動する代わりに、石油を燃して、人間のすることは「見る」ことだけになる。自動車とは、移動の視覚化装置なのだ! 少なくとも、自動車の進化は現代まで、そういう方向に従っている。 それはそれで便利なことかもしれない。箱に入って動かないことが、移動にいちばんふさわしい姿勢ということならば。でも、そうなると「身体」はまったく余分なものということになり、人間の有意味な活動の領域から排除されてゆく。 それがテクノロジー的「進化」だとしたら、オートバイはそのようなベクトルからの「身体」の逃走であり、人間的に言えば「移動」における身体の留保である。オートバイには風がある。空気が「外部」化されない。つまり「移動」に外部と内部が生じない。カーブはハンドルを回すのではなく、体を倒して曲がるのだ。そうして遠心力を相殺する。スキーやスケートと同じことだ。 「移動」の理想は身体の抹消である。それが「光の世紀」のめざすところでもあった。それは「速度」の理想であるとともに、「安全」の理想でもある。けれどもこの「理想」のなんたるシニスム! 完璧な「安全」とは、「安全」を必要とするものを抹消すればよい! 完璧に維持される生命の理想、つまり永遠の生命とは死と区別できない。テクノロジーによる効果性原理のこの盲目のパラドクスに抗して生きること、それが身体的生であるとすれば、やっぱりオートバイはいい!! テクノロジーの進化に逆らわず、なおかつ身体的生を全開する、そういう機械の足がオートバイなのだ。そこには「危険」もある。オートバイは「完璧な安全」という、人間の倒錯的妄執にはじめからとらわれていない。ただ、そんな妄執に盲目になって、自分の「安全」を振り回す自動車がいなければ、その「危険」もたいしたことはないのだが。 |
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