純粋に日本的
カレン・テイ・ヤマシタ


カレン・テイ・ヤマシタ(Karen Tei Yamashita)はカリフォルニア生まれの日系三 世の小説家。人類学的調査に出かけたブラジルでのさまざまな体験をもとに、奇想天 外な幻想小説『熱帯雨林の彼方へ』(白水社)や日系ブラジル移民の苦難の道筋をた どる歴史小説『ぶらじる丸』(平凡社近刊)を発表。新作『オレンジ回帰線』は民族的ハイブリッド のロサンジェルスを描き尽くそうとする意欲作(Coffee House Press より今夏刊) 。1997年3月より6カ月間の予定で愛知県瀬戸市に家族とともに住みはじめたヤマシ タによる「日本滞在記」は、4月以降毎月、当カフェにおいて英語/日本語で同時掲 載されます。ここに訳出した「純粋に日本的」は、あらたにはじまるこの日本滞在記 へのイントロダクションとして掲載するもので、1995年1月東京において行われた国 際シンポジウム「21世紀アジア太平洋の文化の課題」(トヨタ財団主催)において 口頭発表された原稿です。


 日本のことを今の私はどう思っているのか、日本と私とのかかわり方の今はどんな ものなのか、私のなかの3つのイメージがすこしはそれを説明してくれるだろう。ひ とつめはラ・アルヘンティーナを踊る舞踏家、大野一雄。ふたつめは光沢のある曲線 フォルムをもった車、マツダRX7。三番目はルックスにくわえて声も印象的なピチカ ート・ファイブのヴォーカル、野宮真貴。これらはどれも私の大好きな日本のもの、 いや日本にこだわる必要もない、それはただ私が好きなものたちの一部bbよく手 入れされたつやのある美しさ、かたちや振る舞いのしなやかさ、創発性や表現の独創 性をあらわすものたちだ。それらは文化的なアヴァンギャルドであり、技術力と世界 仕様という、日本製品と世界とをつなぐ今を反映するものたちでもある。

 かつての私と日本とのかかわりはいくらか違っていた、もっと文字どおりのなにか 、もっと追い求めるようななにかだった。1970年代の初めに私は日本にやってきた。 留学生として研究と旅行をするためだ。当時は世界中で現状に異議を申し立てる積極 的な運動がくりひろげられていた。合衆国でも、いわゆるアジア系の運動が花開き、 ベトナム反戦やアイデンティティの探求が盛んだった。私は一年半を日本で過ごし、 そのおもな目的は家族の歴史を調べることにあった。父方の家系を14世代にわたって さかのぼり追跡したのだ。父方の祖父は岐阜県の中津川に程近い小村の生まれで、祖 母は東京生まれ。母方の祖父母はともに長野県松本市の出身だった。私の祖父母はみ な、ベイ・エリアに移民してきた。サンフランシスコとオークランド。世紀の転換点 の出来事。祖父母は明治生まれの日本人だった。

 最初に東京に来たころの私は、髪はショートで金属の細いフレームのメガネにフレ アのパンツ、それに肌は日焼けしていた。アメリカでは典型的なカリフォルニア生ま れのサンセイ=三世、それが私だった。けれども時間がたつにつれて、アメリカ製の 衣服は日本のものへと替わり、コンタクトレンズをつけるようになり、日焼けは薄れ ていった。まわりの日本人の動作を直感的にまねることができるようになった。鼻を 指して自分を指し示す、笑うときには口を隠す、湯飲みを両手で持つ、座るときは足 をそろえる。私は模範的な日本女性を演じた。私は合格した。

 それでもときどき私は自分の祖先のことを遠回しに尋ねられたものだ。岐阜と長野 に遡って終わる両親や祖父母の物語を。その話を聞いた人は一様に驚いた様子で声を あげた。あぁ、それならあなたは純粋な日本人だ! 純粋な日本人? 言うまでもな く私はひどく傷つけられ、憤りすらおぼえた。長いあいだ人種的偏見や差別と苦闘す る人が数多くいる数多い国のひとつに私は生まれた。私もそのなかのひとりだった。 人種の純血性なんて価値もなく、たいして重要なことでもないと思っていたにもかか わらず、あのころの私は受け入れられたい、帰属したい、と必死になっていた。

 数年後、私は奨学金を得てブラジルへ調査に旅立った。その国への日本からの移民 を調べるというのが当初の目的だった。ブラジルは150万人以上の日系移民とその子 孫たちの故郷で、その人口は日本国外ではもっとも多い。このコミュニティには長き にわたる魅力的な歴史と複雑で多様性に富む社会がある。しかし到着したときにはこ うしたことをほとんど知らなかった。偶然と直感が私をブラジルに送り届けたのだ。 暖かな熱帯の魅惑的な土地で過ごしたかったのも確かだけれど、私はまだ純粋な日本 人について知りたかったのだと思う。その本質とはなにか、新しい文化や社会に取り 込まれて消化されなお生きつづけているものはなにか、北米のコミュニティを南米 のこの土地や遥か極東と結びつけるものはなにか?

 多くの疑問のためその後のブラジルでの3年間は調査で大変だった。私は日系開拓 者の努力について知りたかった。彼らが処女林を切り開いたときのこと、農業におい て広範囲に成し遂げられた成果、社会構造や政治行動、娯楽や考え方を知りたかった 。私は知るのに一生かかるくらいたくさんの問いの答えを知りたかった。教育はどう だろう? 自由については? どんな幸福観をもっているのだろう?

 そうこうするうちに私は建築家でありアーティストでもあるブラジル人と結婚し、 こどもたちがサンパウロで生まれた。9年間のほとんどをブラジルで生活しつづけ た。喧噪とした市街中心部の高層アパートの14階に住んでいた。そこから見おろす通 りはそれだけでちょっとした町のようだったbbかどにあるポルトガル人のパン屋、 向かいのコリアンの食料雑貨店、文具店、床屋、玉突き場、地元の飲み屋、イタリア 人の肉屋、日本人の加工食料品店主bbちょっとしたコスモポリタンな町だったのだ。

 日系食料品店の店主のことを近所ではオ・ジャポネス(日本人)と呼んでいた。私 は昼食用にと、トウフやアーティチョークをオ・ジャポネスに頼んでとっておいても らうこともしばしばだった。ある朝のこと、いつものようにベビーカーの娘をつれて 通りを歩きながらいつもの場所で買い物をしていた。するとオ・ジャポネスが好奇心 を隠しきれない様子で話しかけてきた。彼はイッセイで、1930年代のブラジル移民だ った。彼のこどもたちはニセイ。私は自分がサンセイであることを彼に話した。私自 身のルーツを聞きたがるような人にはもう長いあいだ会っていなかったけれど、どう してもと言うので、私は話のなかで彼を日本へと、そして岐阜と長野にまで連れてい った。そう、私は徹頭徹尾、純血の日本人、だった。そのときの彼の表情を今でも思 い出せる。あぁ、彼は驚きと疑いを隠せないといったようすで声をあげた。三世代の うちにこんなにもちがってしまうとは! ダーウィンの進化論が暴走して生まれた突 然変異体の標本でも見るかのように彼は私を見た。けれども、ブラジルは暖かく気さ くな土地。誰かに怒りを向ける気にはなれない。彼の態度もまた、正直で悪気のない ものだったのだ。笑いと、笑いがもたらす幸せとともに、私はつねにある。

 1984年、私たち家族はロサンジェルスへと移住した。夫やこどもたちと行動をとも にすることで、私自身がもう一度自分の国へ移民することになったのだ。私たちは世 界中からここをめがけてやってくる巨大な移動の渦の一部でしかない。ロサンジェル スは東京やメキシコシティーに匹敵する環太平洋地域の一大中心地。コスモポリタン 都市の膨大なエネルギーによって変化しつづける壮大な実験場だ。さしあたり、私た ちもまたその変化をつくりだす当事者である。入植者、移民、亡命者、旅行者、デカ セギ、難民、観光客、人、異邦人、それら家路へと向かうすべての旅人とともに。

 私はふたたび、話し始めたことろへ、あの3つのイメージへと戻ってゆく。大野一 雄、RX7、ピチカート・ファイブbb古くて新しい、破天荒で革命的で創発的な世界 仕様、それはユーモアにあふれ、恐れを知らず旅をつづけてゆく。純粋に日本的なもの。

宮田和樹訳


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copyright 1997 Karen Tei Yamashita

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