個人史を巡る旅:イントロダクション
このシンポジウムは1996年10月、中部大学において行われました。



今福龍太 まずぼくのほうから、今日のこの集まりのねらいについて簡単に話してお きたいと思います。シンポジウムの企画者として、今日の集まりの主題を「個人史を 巡る旅」というかたちに設定した理由、その趣旨についてです。

たしかにこれは、ある意味で奇妙な主題かもしれません。つまり、こうしたシンポジ ウムというのはなんらかのかたちのテマティックな問題が主題としてかかげられるこ とが多いわけです。ところが「個人史を巡る旅」というのは、そういう意味ではあま りテマティックな主題ではないから、それじたいよくわからない。どのようにとるこ ともできる。逆に言うと一つのテーマを設定するということは、まさにこれがテーマ なんだということをあらかじめそのシンポジウムが宣言していることになります。そ ういうテーマが疑問の余地なく存在している、客観的に見てもそこに問題があるんだ と、まずそう宣言してから、それについて議論すると、そういう状況にふつうなって いると思うんです。けれども今日は、あえて、最初からこれこれこういうテーマが存 在しているんだということを言わずに、「個人史を巡る旅」というような漠然とした 、主題設定的ではない枠組みから出発して、それがいったいどういうテーマに最終的 に誘導されていくのか、というのをこの場で皆さんとともに体験してみたいと考えた わけです。最初からテーマの所在というものを名指ししたり断定したりしないかたち でこういう集まりがあったほうが、はるかに柔軟で自由な討論ができるのではないだ ろうかいうこともあります。なにかをこの場で発見したい、という趣旨です。

もちろんそのためにはそういう枠組みにたいして、柔軟に対応していただけるような スピーカーが必要とされるわけで、だからこそ丹生谷さんと鄭さんが、ここにいらっ しゃるわけです。簡単にきょうのゲストおふたかたを紹介したいんですが、紹介とい っても経歴のようなものを紹介するのではなく------きょうの「個人史を巡る旅」と いう枠組みからしても、人間をある種の形式的な経歴のようなもので語るということ からできるだけ離れていきたいわけですから------紹介はまったく僕自身のパーソナ ルな個人的な紹介になると思います。まず、丹生谷貴志さんです。最近たてつづけに 著作を二冊出されて、ひとつは『ドゥルーズ/映画/フーコー』という、これはもう 十数年まえから書かれてきた、映画や思想をめぐるエッセイをまとめられたもので、 もう一つが『死体は窓から投げ捨てよ』というフランス思想を中心にした刺激的な論 集です。丹生谷さんとはたしか2、3年ほどまえに、関西国際空港ができた直後だっ たと思うんですが、ある雑誌の対談で、関空の巨大なターミナルビルのかなり騒がし い場所で、初めて話をしました。そのときの対談のテーマが、「観光都市」というよ うな主題だったと思うんですね。ですから、旅の話ということになったのですが、い ろいろ話していておもしろかったのは、ぼく自身がそのころ、海外を継続的に動きま わるという経験の蓄積のはてで、いつのまにか、次にどこ行きたいかというふうに問 いかけられたときに、どこか特定の土地に行きたいというかたちで返答できなくなっ てきた時期だったんです。つぎはなんとなくインドに行ってみたいとか、つぎはタヒ チに行きたいんだというふうに言えた時もあったと思うんですが、だんだん言えなく なってきて、つぎにどこ行きたいってあらためて聞かれますと、言葉に詰まるという時 期をむかえていました。だけれども、どこかへ出ていくだろうということに関しては あまり疑問もない。そうすると自分はいったいなんのために海外へと旅をするのか、 よく考えてみると、もしかしたら単にパスポートをかかえて、ただ国境と国境の狭間 を渡りながら、ともかく移動しているという感覚自体が、一番心地いいといいますか 、そういう感覚であって、目的地というものを決めるということにそれほど魅力を感 じなくなってきていたんですね。すると、そこに残るのは、パスポートというきわめ て権威的な書類だけが保証してくれる「日本人」という存在証明書を携帯しつつ、ま さにそのことによって、日常的にはめったに意識することのない「日本人」を世界の 果てにまで引きずっている自分自身なわけです。パスポートだけが可視化する日本や 日本人という属性の非常に空虚な主体性といいますか、人工的な主体意識のようなも のをかかえて旅する、その不可思議な感覚について丹生谷さんに話したんですね。そ うするとおもしろいことに丹生谷さんは、自分のパスポートは、もうだいぶ前に有効 期限が切れてしまっているんだ、という逆の話をされるわけです。いまもそのままで すか? まだそのままだそうですけれど、つまり切れてしまったパスポートを所持し たまま、その有効期限が切れていることをどこかで意識しながら、丹生谷さんのなか にある旅の感覚がつくられはじめている。そしてその旅の風景は、しかしぼくのなか にあるものと必ずしも対立するわけではない。かたやパスポートをもって、常にそれ を有効にしておいて、なんとなく国と国との狭間を宙づりになりながらですね、書類 としてのパスポートが保証する主体性だけが空虚に浮かび上がってくる状況で海外を 移動してまわるぼく自身がいる。一方で、切れたままのパスポートをもって旅のフィ ールドというものを、どこか別のところに位置づけようとしている丹生谷さんとのあい だで、非常におもしろい、必ずしもすれ違うわけでもない、興味深い対話をそのとき した記憶があります。

その対話から半年ほどたって、神戸は大きな震災にみまわれました。丹生谷さんはず っと神戸に住まわれていたわけですから、明らかに俗に言われる「被災者」になった にちがいない、とぼくらも心配して、編集者なども連絡を取ろうと試みたわけですが 、なかなか生死が判明しない(笑)。丹生谷さんどうしたんだろう、と言っているう ちに突如として、『現代思想』誌(1995年3月号)に「不在の災厄」という丹生谷さ んの震災体験記の文章が掲載されてわれわれも「あ、生きてたんだ」と安堵しました。

この文章は非常に刺激的なものでした。おそらくああいうかたちで震災について書い た人はそれ以前も以後もまったくいない。つまり、阪神大震災といわれているものを 自分は経験したことはない、という、そういうかなり大胆な断定にはじまるわけです 、ぼくがくだくだここで要約してもしょうがないんですけれど、要するに震災、地震 の経験というものをどれだけ集合化・一般化してもですね、自分の経験としての、自 分が戸惑い不安がりあたふたして、そういう自分自身の震災の経験と、阪神大震災と いう集合的な事件があったんだと行政やマスコミによって最終的に言われていく一つ の社会的「出来事」とのあいだに、整合的な関係をつくることができないということ です。つまり、経験とか出来事というものがあっと言う間に集合化されて、阪神大震 災、阪神淡路大震災ですか、そういうような名前を付けられていく、そしてなんとな くわれわれ日本人がそれを集合的に経験したというふうに思わされていく、われわれ も知らないうちにそう思いこんでいく、という経験を集合的に固定化する無意識の回 路というものが社会にあるわけです。けれど、丹生谷さんが徹底してそうした社会的 集団化の力に抗して、「阪神大震災」などといわれるものは自分にとっては不在の災 厄でしかない、というかたちで書かれたときに、ぼく自身非常に強烈な印象と共感を 受けました。おそらく今日のテーマも、そういう個人史的な経験というものをどこか らどのように語るか、それを語るときに必ずそれはどこかで歴史的な出来事として、 社会の中で集団化されてゆく、われわれの社会的経験として共有されてゆくという側 面を一方で持つわけですね。そういう部分と、個人が個人として体験し目撃し感じ動 いた、ということとのあいだにどういう関係があるのかという問題が、今日の「個人 史」という枠組みのなかで問われてくるはずです。そういうこともあって、丹生谷さ んに今日は話をしていただきたいと思ったわけです。震災の話でもいいと思っていた のですが、別の話になるかもしれません。

それから鄭暎恵さん。鄭さんとは、きょうお会いしたのは初めてなんですけど、これ もおなじように共通の友人等がいますので、なんとなくだいぶ前からお互い知っていた ようなつもりになっていました。もう十年近く広島に住まわれて、たんに職場の関係 とかいうことだけではなくて、広島に住むという経験を自らの生活と思考における本 質的な条件として内部化して考えようとされている。もちろん広島自体が、とくに鄭 さんのさまざま個人的な出自であるとか、そうしたことから考えても、あるひとつの 特別なトポスではあるわけです。もちろん戦争や、原爆ということも含めて。そして それ以後の広島という都市が歩いてきた歴史的道筋というか、ヒロシマという言葉が われわれに喚起するさまざまな問題や記憶とともに生きるということにならざるをえ ないわけですね。広島において自分が生きるということ、そういう条件のなかから近 年すごく示唆的なエッセーや議論を広島からたちあげておられる鄭さんを、ぜひお呼 びして、ここで個人史と社会の歴史とをめぐる話をしていただきたかったわけです。

さきほど丹生谷さんの神戸の震災の話をしましたけれども、あえて鄭さんとのつなが りをつければ、神戸と広島というのは、きょうのような集まりで「個人史を巡る旅」 というかたちで話されたときに、非常におもしろいかたちでつながってくる可 能性があるのではないか、という気がしているんです。というのも、たまたま昨日の 朝日新聞の夕刊の一面に、今年のベネチア・ビエンナーレで開かれている建築展の記 事がありました。その日本館、これは磯崎新が全体責任者となって、「震災の亀裂」 をテーマにして、震災の瓦礫をベネチアの会場へ再現するということをやって、大変 な反響を呼んでいるという内容でした。名古屋地方の朝日の夕刊には出てなかったよ うです。たまたま昨日ぼくが東京に夕方いたので、帰りの新幹線に乗る前に夕刊を買 って見たら、そういう記事がありました(朝日新聞夕刊1996年10月11日)。ですから あえて記事の内容をかいつまんでご紹介すると、この展覧会の中心は、兵庫県の芦屋 市や宝塚市から20トンぐらいの瓦礫をベネチア・ビエンナーレの会場に持ち込んで、 それを芦屋市在住で、震災で自宅が全壊したという建築家、宮本佳明(かつひろ)が インスタレーションというかたちで、実際の瓦礫を使って、神戸の廃墟を再現した作 品なんですね、きれいにインスタレーションしたというのではなくて、会場に入って それを見る人々は足を瓦礫や鉄くずに引っかけながら、ようやくのことで会場を歩き 、なかには黄色い砂埃が舞っているそうです。そして、さらに携帯ラジオで あるとか布団であるとかハンガーであるとか、そういうふうにようするに震災直後の 人々の被災者の生活ぶりというものを、そのままのかたちで、そこに再現している、 そして周囲には別なインスタレーション作家が、テレビやラジオをさまざまなかたち でおいて、そこで震災直後の情報の混乱を再現する。さらに壁には、宮本隆司という 廃墟なんかをよく撮っている写真家ですよね、彼が神戸を撮った廃墟の巨大な写真パ ネルを壁に張り巡らせる、そういうかたちで日本館が「震災の亀裂」というかたちで 展示をおこなったそうです。これがベネチアではたいへんな反響をよんで、あるベネ チア大学の建築家は「建築とはたんにつくるものだけはなくて、考えることであるこ とがわかった、人間と建築家のあいだで起こりうる悲劇を表現したものとして非常に すばらしいものだ」と絶賛している一方、建築雑誌の編集者で建築評論家でもある別 の人は、「非常に衝撃的ではあるが、どうも破壊だけを展示するというのは建築家と して最終的な解決を放棄しているのではないか」と、そういう批判もなかにはあがっ ている。だいたい批判はその点ですね、つまり廃墟だけをたんに神戸からもってきて 再現するというのは建築家の目指すべき最終的な解決にはならないのではないだろう か、姿勢が消極的ではないか、という批判がほどんどだったと思いますね。これらの 批判に対して磯崎新は意外にナイーヴなことを言ってまして「都市計画は人間に幸福 をもたらす反面で、震災のような悲劇の根をもそこに秘めている。そのことを伝えた かった。建築することの悲劇というものがここにある」と答えている。つまりそれが 瓦礫になってしまったときに、建築がいかに悲劇的なものであるか、ということが逆 に暴かれてしまうということを磯崎新は言ってるのでしょう。磯崎新がいまさらあら ためてそんなこと言う必要もないと思うんですけれど。つまりある意味では建築の廃 墟みたいなものを彼は建築として造りつづけてきたわけで、なにをいまになってとい う感じもするわけですが、ともかく彼はそういっています。

ぼくはこれを読みまして、神戸の廃墟をベネチア・ビエンナーレの展覧会場に移して 復元していくというやりかたに、やや違和感をもちます。それは決してここで批判さ れているような、建築家としてたんに廃墟を再現するだけではなんの解決にもならな いのではないか、というような批判とはちょっと違います。そうではなくて、廃墟あ るいは瓦礫というものを、ある意味であまりに安易に、復元しさまざまな場所にもっ ていくということ、そしてそれによってその廃墟や震災や被災やそうしたものの経験 というものが、共有できるというようなナイーヴな思いこみをどうしても感じるわけ です。もちろん、このインスタレーションをおこなった建築家自身も、自分自身の家 が全壊し事務所も半壊しているという経験をもっている。だから彼は「生活の記憶が 染みついた瓦礫を世界の人々に直接見てもらいたかった」というふうに言うわけです ね。ですがまさにここが実は問題ではないかと思うんです、つまり自分たちの苦難の 記憶が染みついた瓦礫を実物としてもってくることに、どれだけの意味があるのか、 ということですね。それがなぜたとえばレプリカではいけなくて、やっぱり実物の瓦 礫を20トンももっていくとすればたいへんはお金も当然かかっているんでしょうけど 、その実物の瓦礫でなければならなかったのか。それはおそらくそのインスタレーシ ョンをおこなった宮本さんの問題ではあるかもしれませんが、それを見る側の問題と は直接関わらないのではないか、つまりわれわれの問題ではないのではないかという 気もするわけです。実際宮本さんは、自分がそうしたものをつくりながら自分が癒さ れていく経験をした、ということを非常に強く語るわけですよ。それはべつに否定し ません、というかそれはもちろんそうかもしれません。しかし、だからこそなおさら 、廃墟あるいは瓦礫というものを、他者にたいして安易に共有しうる経験として提示 することはできないのではないか。廃墟は、いわば、それ自体さまざまな歴史的な記 憶にかかわっています。ヨーロッパの人間であれば、それを見て当然、イタリアです とイタリアも地震国ですからさまざまな地震の経験や被災した経験をよみがえらせた 観客もいたかもしれない、あるいはごく近くのサラエボ、ベネチア100キロか150キロ の距離だと思いますが、の最近の内戦による廃墟のというものを、これによってよみ がえらせるという人も当然いたかもしれません。ヨーロッパ人にとって、神戸の廃墟 のイメージというのは、そのまま神戸の人間の悲惨という文脈から、すぐにでもサラ エボや別な廃墟の悲惨というものへと移行していく十分の理由というものをもってい るはずです。

ところがまさに、そこにひとつの落とし穴があると思うんですね。それが広島の問題 、つまり鄭さんがずっと問題にされてきた、「記憶の風景」として固定化されている 広島の原爆の瓦礫の風景の意味の問い直しとかかわってくる。実際神戸の地震の直後 、原爆投下後の廃墟や大空襲の廃墟の記憶が、日本人の多くの人々によって喚起され たわけです。実際神戸の地震の時にテレビで、瓦礫になった被災地から中継がありま した。そのリポーターは戦後生まれの若いバイリンギャルらしいリポーターでしたが 、そのリポーターが、50年ぶりの廃墟です、というふうに語りはじめたわけですね、 50年ぶりの廃墟とは、言うまでもなく広島をはじめとする戦争末期の各地の大空襲や 最終的には広島長崎の原爆、その廃墟の記憶の風景、あるいはメモリースケープとい うふうにいわれることが最近は多いのですが、そのメモリースケープというものを、 そのままこの神戸の震災の瓦礫の山に流用しているわけです。この二つを直接結びつ けて語ることの重大性というか、迫真性というものをおそらくそのリポーターは訴え たかったんだと思います。ですが、まさにその点についてぼくは違和感を抱くわけで す。というもの、先ほどからいっているように、記憶の風景というものを凍結してわ れわれは保存しているわけです。ある意味で瓦礫の風景、戦争の廃墟の風景、そうし たものがすべて同じ、悲惨な瓦礫の風景、そういう抽象的な、あらゆる人間が共有し うるメモリースケープとしてストックされているわけです。そして結局震災の日の神 戸が、そのリポートの段階で、すでにもう瓦礫をめぐる記憶の風景のなかに凍結され ようとしているわけです。そういうふうにしてメモリースケープというものを固定化 し凍結化し、別な廃墟のメモリースケープへと安易に結びつけてゆくということがな にを意味するかといえば、結局その廃墟において人間と廃墟とのあいだに存在しうる 無数の関係、エンゲージメントとぼくは呼んでいますが、無数の介入や交渉の関係が 、すべて切り捨てられてしまう、ということです。そして廃墟というものが非常に固 定的な風景として特権化されてしまうということでもあります。われわれは知らず知 らずそういう記憶における廃墟を一つの集合的な風景として固定化し、その固定化さ れた記憶をさまざまな現実に流用し、濫用するという行為をつづけている可能性があ る。神戸と広島という二つの街は、そういうかたちで不思議に昨年、結ばれたわけで す。もちろん実際広島で被爆した人が現在神戸に住んでいるという人生の偶然もあっ たわけですから、一生において二度、同じような廃墟を経験するということが実際に 身にふりかかった人もおそらくいたにちがいありません。しかしそれはあくまで、そ の人のある意味でまさしく個人的な経験のなかで意味を持ってくることであって、そ れを集合的に社会が、50年ぶりの二度目の廃墟である、と語ることとは決定的にちが うわけです。ちょっと、あまりに本質的なところにいきすぎてしまったかもしれませ んが、丹生谷さんと鄭さんをお呼びするという、ぼく自身の潜在的な発想のなかには 、不思議な偶然によって結ばれた神戸と広島という、二つのトポスにたいする問題意 識が、あるいはあったのかもしれません。この点についてはあとで鄭さんのほうから 、広島というもののあらゆるさまざま在り方、さまざまな記憶のされ方と結びつけて 、きっと話していただけると思うので、楽しみにしています。

ともかく「個人史を巡る旅」という枠組みで言いたかったことは、個人史というもの を特権化するということから、どれだけ離れられるのかということです。われわれは これまで個人の歴史、個人がたどってきた人生の経験というものを、それがどのよう な個人であれ、もちろんそれが有名で英雄的な人間であればなおさら、最初から歴史 的に特権化され英雄視されるというかたちで語るという習慣を免れなかったわけです 。逆にそれが庶民の、大文字の歴史からはとるにたらない経験であったとすれば、今 度はそれを逆の側から、民衆史というようなかたちで、おなじようなかたちで特権化 する、特権化というと多少語弊があるかもしれましんが、民衆の声を中心化して伝え る、という試みが一般化する。いずれにせよ個人史というものが、特定個人の声や経 験を中心化して、それによって語られるものであるということは変わらなかったわけ です。ですから、きょうはできる限り個人史というものを特権化せずに、個人の、あ るいは「わたし」といった方がいいかもしれませんが、「わたし」というもののなか に必然的に浸入してこざるをえない、他者であるとか社会であるとか世界であるとか というもの、そういう異物の浸入を感じながら生きていくというのが、私という個人 が生きてものを考えていく土俵だと思うんですね、そういう意味でこの「個人史を巡 る旅」という枠組みを考えたい。「旅」というのはですから、ここでは地理的・物理 的な移動だけをさしているわけではないことになります。それは政治的な旅でもあり うるだろうし、言葉のうえでの旅でもあるかもしれない。そう考えることで結局それ は「わたし」という複雑な構成体そのものの来歴を問うことになります。はたして「 わたし」というものに歴史があるのか、ということも重要なポイントだと思うんです けど、ともかく自己の履歴、来歴、経路を問うという意味において、旅という比喩も ひとつのキーワードになりうると思うんですね。やや言葉足らずかもしれましんが、 こうした思想的な展望のなかで、この「個人史を巡る旅」という主題を提案したいと 思ったわけです。

それではまず丹生谷さんの方から、話をお願いします。

(丹生谷貴志「中上健次を巡る旅」は準備中です。)



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