血液型
カレン・テイ・ヤマシタ
 結局のところ、自分の血液型が何型なのかよくわからない。けれどもつい最近の日本への旅や毎日の生活のなかで、それがようやく明らかになりつつある。そもそも日本の人びとは、どうやら全員が自分の血液型を知っているらしい。それは、誕生時かそのしばらくあとに鑑定され、出生証明とともに、一種の証書がつくられるからだ。いったい国家が何をもって、法的に人の出自を認定する生命情報とするのかという問題は、つまりそれが当の国家のことや、社会でつぎからつぎへと演じられる事の顛末を寓話的に物語るからこそ、逆におもしろい。いくつかの理由から、ブラジルの出生証明書は、両親の世代だけじゃなくて、祖父母の代の情報をも提供する。たとえ、ブラジルうまれのものであっても、ブラジル人があなたをブラジルの人間と認めるまで、最後まで家族的な系譜をたどるのだ。合衆国の出生証明は、両親のみにこだわる。でも、1951年うまれのわたし自身の出生証明は、アメリカ市民の両親の「人種」を、日本人として記載していた。異人種結婚法がカリフォルニアで提議されたのは、その3年前のこと。第二次世界大戦中の日系アメリカ人の収容も、その6年前のことにすぎない。このごろの合衆国の出生証明は、社会保障番号の給付とともにカンペキなものとなる。血液型が何であれ、勤勉な労働に励みさえすれば、誰だって大統領になれるというわけだ。けれどもいま、日本の出生証明にとって、血の問題は危機的な状況にあるらしい。というのも、あなたが日本人になるなら、あなたの一族も日本人じゃないといけないから。このような意味での日本市民はだんだん消滅しつつあり、今後500年以内に日本人の人口はたった「一名」の日本人へと減少すると試算されている。ラストサムライどころか、最後の日本人になるのはいったい誰? そして、彼女の血液型はいったい何型なの?
 
 ところで、わたしが聞いた話によると、それはまさに死活問題にかかわる情報なのだ。もし事故にあって、突然病院に担ぎこまれ、輸血の必要が生じたら、どうする? あなたは、自分の血液型を知っておかなければならない。昏睡状態におちいるまえに、あなたは緊急救命病棟の人びとに、自分の肉体を形づくるこの重要なパズルピースを、うわごとのようにつぶやく必要がある。わたしはこの最新の知識を息子に教えたが、受け入れられなかった。「だって、みんな日本人なんだろ。だったらみんなおなじ血液型じゃないの?」 残念でした! 日本人には、4つの血液型がある。A、B、AB、O。あなたに関するこのデータは、単なる分類にとどまらない。友人の説明によると、「きみの血液型は、きみ自身の性格を決定する」。毎日ホロスコープをチェックする西洋人なら、アジア人は十二支の動物の暦に夢中だと想像するだろう。それは、虎、ネズミ、犬、竜、兎などの特徴をもつ性格を、天啓のようにして人にさずける。またあなたは、太陽と月、太陽と星の対立のことを思ったかもしれない。しかし実際は、もっと世俗的なこと。つまり性格はすべて、血液型にかかわるのだ。ある日本人の若者がこういって、ほかの皆がうなずいた。血液型の質問は、人が個人的な情報をたずねられる際に、名前と仕事についで聞かれる三番目のものです。彼はいう。少なくとも三回目のデートまで、この第三の質問を黙って推しはかりながらデートをつづけられれば、きっとうまくいくはずです、と。だからこそこれは、まさに死活問題にかかわるほど大切な情報なのだ。
 
 じゃあ、 A型の性格っていったい何なの? 人格的に潔癖で、規則正しく、几帳面。社会の規則や法律事情に、取り憑かれたようにこだわる人だ。この点に関して、わたしの息子はこういった。「でも、それってつまり日本人のことじゃないか?」 ちょっとまって。そこには、まるで正反対のB型もいる。日本の映画や文学のなかには、かならずこうしたタイプがいるものだが、あなたはA型との完全な対立関係に目を見張るだろう。でもB型であることを認めさせるために、ふつう人は性格的な折り目正しさから過剰に逸脱して、わざと はちゃめちゃにふるまう必要もないことを思えば、実はそれはたいした対立じゃないのかもしれない。AB型は? それは、AとBのごちゃまぜだ。社会的な分裂症(スキゾフレニア)になやみ、両極端のあいだをゆれうごく。そして、最後にO型。正直いって、Oのことはさっぱりわからない。たぶん、A型とB型のかたわらを素通りするタイプなのだろう。避けるようにして、あるいはまるで気づかずに。もしかしてカメレオンのように模倣して、あざむくのかも。さすらいのO。いったい何だろう、このO型ってやつは。
 
O型
 オーケイ、自分はO型だと思う。たぶん。つまりこういうことだ。友人の管啓次郎とわたしは、六本木ヒルズの森美術館の出口で、6月23日金曜日の午後1時に会うことになっていた。そして(これが実にOっぽいところなのだが)不思議なことに、わたしは透明人間になって、蒸発したのだ。

 わたしは約束した時間に、これまた友人の淺野と、出入り口付近でのんびり立っていた。待っているあいだ、淺野とわたしは、啓次郎はどうしたのだろうと話しあっていた。まったくすがたをあらわす気配がない。淺野はインフォメーション・デスクに行って、そこがたったひとつの出口だということを確認した。わたしのほうは、あたらしいトイレの確認。そこらじゅうに、最高に洗練されたトートーの珍妙な装置、たとえばビデ、たとえば水を流す音を鳴らすボタンなどが、そなえつけれている。わたしは、全部ためしてみた。それから、最高に強力なエアフローの機械で、ゆっくりと時間をかけて手をかわかした。おそらく、スポーツカーやジェット機用の排気管でもつかっているにちがいない。わたしの指先に反応する、こうしたすべてのテクノロジーは、深い快感をあたえる。別にお尻のことをいっているわけではないので、あしからず。これぞ、わたしたちがせっせと努力して、資本主義のはてに到達しようとねがう、安心感にあふれる世界のすがたなのだ。

 白状しよう。わたしが、トイレでいつまでもノロノロしていたのだ。でも、淺野は外でずっと立ちっぱなしだった。おそらく誰だって、淺野のことを見逃しただろう。というのも、彼がホンモノの日本人だから。無造作な大学院生っぽい風貌、はき古したジーンズすがたにもかかわらず、彼はまわりに溶けこんでいた。わたしはといえば、亜麻の黒のカプリパンツをはいて、時代遅れのチャイニーズカラーの白いそでなしシャツを着ている始末。奄美大島のビーチで毎日泳いでいるあいだに、すっかり日に焼けて黒くなった肌を堂々とさらして。けっして日焼けした肌を見せない日本人女性とちがって、わたしはその何倍も黒かった。まったく、わたしたちふたりはもっと自覚すべきだったかもしれない。舌足らずの日本語に、英語とポルトガル語をまぜてペチャクチャおしゃべりする、このわたしこそ、まわりからきわだった人目をひく標識だということを。日本人の群れなかにいたとしても、ガイジンを見逃す人はまさかいないはず。40分待ったあと、わたしたちは啓次郎にはきっと何か事情があるのだろうと判断し、約束の場所をはなれ、もしかしたら啓次郎が立ち寄るかもしれないレストランを物色しながら、館内をぶらつきはじめた。こうしてわたしたちは、「家庭料理・婆娑羅」に一縷の望みを託すことにした。

 あとでわかったのだが、啓次郎は奥さんと娘と一緒に、三人で異国風の人影を探しながら、美術館の出口にずっといたのである。そしてかれらも40分待って、約束の場所を離れたのだった。でも「家庭料理・婆娑羅」が、かれらの選択肢になることはなかったのだろう。このすれちがいの起こった空間について考えてみると、わたしたちはおたがいに、数インチの距離とはいわないまでも、それでも10メートルもはなれていない場所にいたのかもしれない。あるいはひょっとしたら、おたがいに平行世界(パラレル・ワールド)にいて、近代美術の迷路から抜け出す最後の出口のあたりを、亡霊のようにふわふわさまよっていたのかもしれない。たぶん、わたしたちは何度もすれちがっていたのだろう。眺めるとなしに眺めるようにして。何度も何度もこころのなかを通りすぎる似たものどうしの人間の顔つきを、霞を見るようにぼんやりとみつめながら―髪の毛を赤く脱色したシャギーカットの女たちの群れを、ジェルでツンツンにヘアスタイルを整えた男たちの群れを。こうした同一性を観察することに気を取られていうるちに、わたしたち自身の差異にたいする注意が、どこかに消えてしまったのかもしれない。

 しかしそうだとしても、まさにこれこそ、わたしがO型であるという証拠だ。カモフラージュの才、忍びの術。透明になって、A型とB型のかたわらを素通りする。自分でもまったく信じられないけれど、そうするつもりはまったくなかったのに、わたしは日本でつかの間、透明人間になったのだ。

A型
 淺野とふたりで美術館の待ちあわせ場所をはなれるまえに、啓次郎が遅れてやってくる場合にそなえて、フロントデスクにメッセージを残しておこうと思った。レストラン「家庭料理・婆娑羅」にいるからそちらにきて、と言づてをすることもできるはずだ。さっそく淺野が伝言をたのみにいって、わたしは、美術館の制服によくにあう帽子をかぶった受付嬢を観察した。わたしの目に映る彼女は、ほんとうに可愛らしく、あらゆる仕草が美しい。カンペキなメイクアップ、カンペキなヘアスタイル、カンペキな笑顔、何もかもがカンペキなまでにカンペキ。この受付嬢はびっくりするぐらい、広告写真にそっくりだった。ところがわたしは、この受付嬢がこともあろうに、淺野にむかって深々と頭を下げるのを見たーみすぼらしい大学院生タイプの男にむかって、最高の地位の人物にたいして抱くようなひどく慇懃な気遣いを込めて。彼女は儀式的な文句をつむぎはじめた。「モウシワケアリマセンガ…」。わたしは頭のなかでことばをひとつひとつ翻訳してみる。It is unforgivable (a great shame even), I am so very sorry, but it is not possible.(決して許されることではありません(大変にお恥ずかしい限りであります)。ほんとうに申し訳ございませんが、それは不可能なのでございます)。

 どうして?? まったくもって不可解だ。それってどこかに書いてあるの? 伝言メモを預かることの危険性について? 彼女はクビになるのだろうか? 一枚のメモが、武器や爆弾やスパイ道具になるとでもいうの? テロリズムに対する恐怖が、これほどまでにお客様サービスの内容を制限してるわけ? もしかして彼女は、そのようなメモをあとで誰かに手渡すことの責任について心配しているのかしら? オーケイ、たしかに彼女はメモをあずかる必要はない。もし啓次郎が実際に受付にあらわれて、たまたま彼のほうから声をかけてくるを待って、啓次郎への伝言を頭のなかにしまっておくこともできるのだから。でもそれじゃあ、受付嬢の仕事っていったい何なの? おそらく、それは彼女の業務マニュアルに記載されていなかったのだと思う。マニュアルにない例外はすべて、モウシワケアリマセンということになる。その可能性につきましては、プログラムされておりません、と。そうはいっても、たぶん彼女にしてみれば、わたしたちがどうしてケータイという奇跡の道具をもちいて連絡を取りあわないのか、不思議に思ったにちがいない。おたがいのすがたを目で見て確かめあうまで、両者の現在地を正確にマッピングすることもできただろうに。いやはや、モウシワケアリマセン。彼女は何も悪くない。わたしたちが、シリコン・チップの奇跡や、小型キーボードを打つ親指の電子的進化に拒絶反応をしめしているおかげで、もっといえば、テクノロジー的な障害者であるおかげで、このような始末になったのだから。

 4年ほどの時をへだてた、再度の訪日体験。そのあいだ、わたしの日本への旅はあくまでヴァーチャルなもので、つまりそれは三本の映画鑑賞という形式をとおしてだった。「ロスト・イン・トランスレーション」、「ザ・ラスト・サムライ」、「ア・ジャパニーズ・ストーリー」。映画のなかの国にたいしては、もう自分がまったくそこにいないような気がして、どの映像的な表象によってもちっともこころが動かされなかった。それどころか、わたしの出会ったタイプの日本人は、当の日本人を描いたと称するこれら三作品のどれをとっても見られなかった。トム・クルーズがアカデミー賞の候補になったとか、「ヒロシマ・モナムール」(邦題:「二十四時間の情事」)のリメイク版だとか、せいぜいその程度の映画なのだろう。日本はいまもなお、ほかの土地ではありえない独特の島々である。このまえ、久々に日本にやってきた時に目についたもっとも劇的な変化は、食料雑貨店のコンビニエンス・ストアの氾濫だった。「コンビニ」は、狂ったように分裂する細胞のようにありとあらゆる街角に繁殖している。それによって、何かが永遠に失われたのも事実。例えば、たたみ店、豆腐屋、鉛筆屋、青果店、蒸しパンの屋台―こんなふうにして、人は個人的なノスタルジーに名前をあたえ、ひとつひとつ呟くものだ。

 今回は、公衆トイレにおけるトートーの恩寵的な達成のみならず、小型カメラやヴィデオ録画機やインターネットの通信システムとともに、ケータイ電話がテクノロジー界の女帝として君臨していた。ケータイに加えて、新種の女性の登場にも気づかされた。モウシワケゴザイマセン型の、いわば人造レプリカントの美女。彼女はわたしの大切な願いを、最高の慇懃さでもって拒絶する。いや、この人造レプリカントがくりかえしいうように、相手が外国人の旅行者で、つまり大切なお客様であるがゆえに、例外的な特別サービス、予想外の施しや親切を得られないのかもしれない。わたしのほうが、彼女の論理に従えば、完全無欠で十分に訓練され、誤りを犯さない人間だということになる。もし合衆国のJALが、誤った情報をあなたに伝えたら、モウシワケゴザイマセンとなる。けれどもチケット代は他社とくらべて実に二倍で、その差額はしっかり払わなければならない。モウシワケゴザイマセン、お客様は一名様でお部屋を予約されておりますが、大盛りのビュッフェの朝食を(それは宿泊代に含まれておりますが)お子様とお分けになるのであれば、たとえお母様が小さく噛み砕いたものを食べさせるのであっても、食事代をもう一人分お支払いしていただきます。自分にさずけられた日本語はごく初歩的なものなので、わたしはこうしたくどくどしい口上とかしこまったことばづかいによって、単純につきはなされるだけだ。そのことばは、まるで琴で演奏されるパコベルのような、軽やかな調べで語られる。でもわたしには、これが官僚的なことばづかいなのか、はたまた働く女性の言語能力なのか、あるいはこのようなA型っぽさがほんとうに標準的な美学とされるのかどうかはわからない。どうやって、怒ればよかったのだろう? それってあなたの仕事じゃない。あなただってちゃんとプログラムされて…いやいや、ちゃんと訓練されているはず。あなただって血の通った人間で、わたしの敬意と理解に値するひとりの女性なのだから。それにしてもやっぱり、まるで不可解だ。もしかしたらデルタ航空のスチュワーデスも、日本人にとってはおなじぐらい謎めいた女性なのかもしれないけれど。

 さらにいえば日本では、店を出入りする際に挨拶したり感謝したりする習慣がある。4年後にはあらゆる自動ドアに、店に入るときに「イラッシャイマセーッ!」、店を出るときに「アリガトウゴザイマシターッ!」と叫ぶ声がプログラム化されると予言しておこう。もちろんこの自動ドアは、客が店に入るのか、あるいは店を出るのかをしっかり識別するのである。現在、かなりの店において、従業員全員がこのきまり文句を叫ぶ。こうしたかけ声は従業員から従業員へと感染するようにして響きわたる。ところが誰ひとりとして、来店する人のほうにも、犬のほうにもわざわざ顔をむけようとせず、まるで脳に組みこまれた自動センサーのプログラムが集合的に反応しているかのようだ。あるいは、8時間のフライトをピチャピチャと雨音を立てる窓側の席ですごしたあとに、飛行機から降りたときのこと。そこでわたしは白いリネンのブラウスに赤ワインをこぼしたり、コンタクトレンズが乾ききって目にぴったり貼りついてしまったりしのだが、するとそこにもやっぱり連中がいた。「挨拶屋」が階段や通路を曲がるたびにあらわれて、丁寧におじぎをするのだ。かれらの発することばの意味を、わたしは文字通りこう理解した。You are honorably tired and have arrived.(大変おつかれさまでございました。無事到着いたしました。)どこをとっても、この発言はまったく正しい。わたしは返事をしたかった。わざわざ知らせてくれて、ご苦労さま。でも、この挨拶屋の存在を気にもとめないほかの乗客の、「お疲れさまでした/到着いたしました」式の挨拶への対応に、わたしも見習った。かれら乗客は正しいと思う。人間の相互関係のビジネスは、あくまでビジネスにすぎない。そしてかれらおじぎ屋だって実際は、成田空港の国際トランジットセンターからわたしが逃亡しようとすれば、これを阻止する凄腕のカラテ護衛官でもある。

 ついでにおなじような具合に、機械がレジ係にとってかわることも予言しておこう。空港レストランに腰を落ちつけて、じっくり読書をして次の飛行機の時間までの暇をつぶしていると、レジ係の店員が支払いを済ませる客と言葉をかわす声が聞こえた。規則正しく、彼女は大声を出して勘定の額を読みあげていた。現金を受け取ると今度はお釣りの額を声に出し、さいごに客に感謝の言葉を述べた。彼女はこれを何度も何度も単調にくりかえす。値段とお釣りの金額のほかには、まるで変化がない。そこでは、ちょっとしたおしゃべりもかわされない。どれだけ子供が可愛いかをほめることばも、ネクタイの色に触れる誘うような一言もなければ、料理のほうはいかがでしたか、とさえいわない。オーケイ、民主的じゃない。店員はすべての人にたいして、「寸分の狂いもなく」まったくおなじように接客する。それでもやはり、ブラジルのレストランではおなじレジ係でも、冗談をいったり、色目をつかったり、調子はずれな話題を持ち出したりすることを、あれこれ思い起こさずにはいられない。でも、だからといって客から文句をいわれることなんてあるだろうか? さて、わたしもまた現金を出して、勘定を支払い、お釣りを受け取った。おしゃべりもないので、安心して透明になれる。詮索好きなブラジル人にジロジロ見られることもない。疑りぶかいアメリカ人に睨みつけられることもない。インターナショナルなわたし。ポスト人種なわたし。たぶん、わたしはA型の世界を旅するO型だったのだ。

B型
 ほんとうのことをいえば、自分は実はA型かもしれないとも思う。わたしは事前に計画を立てる。細かいことが、大好きだ。請求書も税金も遅れずに支払う。きれいな文法や句読法を評価する。自分の本の執筆を準備するための組織だった方法がある。でも状況次第では、はちゃめちゃで予想のつかない、反抗的なB型としても通るかもしれない。ところでわたしは、旅の読書のために、オリヴァー・サックスの『火星の人類学者』をもってきたのだが、この本によって突然あらゆる謎が氷解した。日本の標準的な世界で、わたしはトゥレット症候群的な反応、つまり抑えの利かない身振りや口やかましい発声を世間にさらしているのだ。それは、かならずしもわたしの個人的な責任とはいえない。わたしのからだや脳みそが、そのような具合に社会化されてきたのだから。たとえば、わたしは道に迷う。かなり図々しい。大声で笑う。まるで生きもののように動く生命のない物体の声にも返事をしたがる。何にでも触りたい。知りたがり屋だ。わたしの詮索好きには、やや強迫観念めいたところがある。それゆえ、チャンスをつかみ損ねることをひどく恐れる。この奇妙なふてぶてしさは、つまりは異なる知識を手に入れるための口実、何かとつながるための方便なのだ。

 でもだからこそ、わたしは「奄美の考古学者」に出会えたのだった。奄美は琉球弧の最北端に位置する群島で、かつては島のサトウキビを支配する薩摩藩に属していた。奄美の人びとは文化的には沖縄人により近く、かれらの歴史と創造力は、何百もの浦の集落がそれぞれに抱く、豊かな亜熱帯の海とサンゴ礁の汀が育む生命によって織りあげられてきた。奄美の考古学者、中山清美とわたしがおなじ血液型かどうかは知らないが、いずれにしてもふたりそろって卯年うまれだった。これは、満月で餅つくウサギが、わたしたちに反抗的な性格という恵みをさずけたことを意味する。1951年にはじまるおたがいの人生の物語を交換するうちに、自分たちが「ウサギの月のアナーキスト」であったことに、わたしはあらめて気づかされた。

 中山は群島中の一島、奄美大島でうまれ育った。わたしのほうは、日系アメリカ人の居住区で。そこも、ロスアンジェルスという巨大な島のなかの、一種のシマ社会だといえる。中山は、彼の通う高校に講演をするためにやってきた、小説家の島尾敏雄の声と存在感に圧倒された。わたしはアレックス・ヘイリーの語りによって目を見開かれた。『マルコムX自伝』や『ルーツ』のこの著者が、わたしの大学に講演のためにやってきたのだ。中山は大学に進学するために上京したものの、農民の権利のために闘う運動に没頭するようになった。成田国際空港の建設によって強制的に移転させられることになった、「三里塚」の農村を守るために。わたしもまた、日本語を勉強するために東京へやってきたものの、岐阜と長野で祖先の家系の探求にのめりこむようになった。中山は、自らの政治的・道徳的な共鳴が、奄美の田舎という自己のルーツと結びついていることに気がついた。わたしは、自らの政治的・道徳的な共鳴が、アメリカ社会にふかく根ざすと感じられる人種主義(レイシズム)の歴史のさらに先にある、自分のルーツと結びついていることを理解した。1969年ごろ、中山は「全学連」という学生運動に参加した。1969年、わたしはベトナム反戦運動と、のちにイエローパワー・ムーヴメントと呼ばれるアジア系アメリカ人の運動にかかわった。中山は、世界を知る手がかりとして考古学という道を選択し、わたしは人類学と文学という道を選択した。その何十年もあとになって、わたしはいま、1960年代と70年代のアジア系アメリカ人の運動のことをしらべている最中だ。小川紳介によってフィルムに記録された全学連や三里塚闘争の情況は、合衆国のアジア系アメリカ人からも注目をあつめ、それは世界じゅうの学生による、革命運動の国際的連帯をうながすほどの影響力ある作品だということも知った。

 さらにまたしても1969年、友人のベティ・ノブエ・カノは、カリフォルニア大学バークリー校のスタジオ・アートの大学院プログラムに入学したものの、同年彼女は急進的な政治運動にたずさわるようになり、アジア系、黒人、チカーノ、先住民系の学生のための「第三世界大学」を創設するために組織された「世界解放前線」のアジア系アメリカ人リーダーのひとりとなった。最後にはかならず学生と警察の暴力的な衝突によって大学を封鎖させることになったストライキや抗議集会を組織するために、中山と同様、彼女もまた学業を放棄した。わたしは、この運動をめぐる彼女の個人史をつうじて、ベティと知りあうようになったのだが、不思議なことにわたしを奄美へと誘ったのは、彼女の祖先がもつこの島とのきずなだった。彼女の祖父母の姓、嘉野(カノ)と祈(イノリ)を心のなかで唱えながら、わたしは、島の人びとが「トフル」と呼ぶ場所の入り口にいた―そこは、生と死を結びつける小さな回廊、死者の骨を納める洞穴のまえの聖域のことだ。海岸沿いの一帯では、珊瑚の破片が人骨のなかへと紛れるようにして押し流され、それは千年の時をへて、美しい白い砂となるまで絶えず波に洗われる。ベティの父親、嘉野トシオは、何十年もまえにこの浜辺から旅立って、別の海岸を目指してトフル墓を越えてゆき、二度とそこへもどることはなかった。

 こうしたあれこれを語りあいながら、中山と彼の友人は、われらが世代の革命の季節を、世界を望みどおりに変えられなかったわれらが世代の挫折を、サトウキビの黒糖焼酎やオリオン・ビールをあおりながら嘆くように懐かしむのだった。わたしたちが情熱的だったことは、間違いない。世界じゅうで多くの人びとが、不公正な社会機構や既成事実と化す戦争機械に抗して、より小さいもの、より弱いものの側につく原理に従って行動を起こした。多くの人びとが逮捕され、収監された。拷問を受け、殺される人もいた。わたしたちの行動は、今も昔も不法行為と見なされる。それにたいして発動された鎮圧は、見事なまでになしとげられた。これは、何ひとつ汚れを知らない無謀な青春時代をめぐる、ある人にとっては恥辱の記憶でもある秘められた物語だ。時代の生き証人であるわたしたちは、いまもなお、ウサギの月の存在を信じている。けれども同時に、あの時代のことが明るみに出されること、子供たちに自分たちが何を試みたのかを語ることがまねく結果を、恐れもする。

 中山はこう告白した。実はつい数ヶ月まえ、妻が自分のヘルメットと鉢巻きとゲバ棒をゴミ箱に放り捨ててしまった、と―それらは、彼の革命の過去をめぐる最後の形見だった。わたしはいった。でも、あなたは考古学者じゃない。彼はわたしのいいたいこと、つまり考古学者の使命が人間の遺物の保存と発掘にあるということを理解して、悲しげにうなずいた。それにもしかしたら、おなじような知的欲望に取り憑かれた未来の誰かが、トフル墓にむかって祈りの言葉をつぶやきながら、珊瑚の骨をふるいにかけ、彼のゴミを発見し、隠された物語を解読するかもしれない。

 小川作品の白黒の場面が、こころのなかの闇のスクリーン一面に映し出される。それは、成田空港上を果てしなくのびる、カンペキにアスファルト舗装された滑走路沿いに塀で仕切られた、何だか場違いで、まるで絵画のように美しく改装されたいまの農家の風景と好対照をなした。30年以上も前の記録映画において、小川プロダクションは、7年にわたっておなじ土地を注視しつづけた。遠くまでひろがる稲田が農民一家の日々の生活を支えていた時代―老いも若きもつつましくものしずかで、しかし祖先の土地を死守するためなら石のように頑として一歩も譲らない。空港建設を中止させるために、かれらは塔を建て、穴を掘り、バリケードを築く。闘争の最終局面では、女たちが自分の体を、バリケード沿いの一本一本の木に鎖でつないだ。農村の放送塔から流される怒号が、盾で身を護る暴虐な警察と金で雇われた空港からの盗賊という何百人もの軍勢にたいして、武器を取るよう呼びかける―にじり寄る警官隊が、竹槍や石で武装する村人や支援者と対峙する。十人の青年からなる学生の集団が一丸となって前進するのだが、カメラは最初のひとりが大地に倒れるのを見逃す。泥のなかで踏みにじられ、頭を何度も執拗に殴られ、苦痛に満ちた瞳が、別のもうひとつの聖域のはざまで鋭い光を放つ―ヘルメットとマスクのはざまで、青春と信念のはざまで。「大変おつかれさまでございました、無事到着いたしました。大変お疲つかれさまでございました、無事到着いたしました。」

AB型
 わたしと淺野は、「家庭料理・婆娑羅」でメニューをながめていた。この店の提供する料理が、まるで助六が「暫く!」と声をかけて登場しそうな(「助六所縁江戸櫻」の冒頭場面)、歌舞伎的な見栄をきった家庭料理であることをわたしは悟った。これまたハイブリッドな、いかにもABっぽい瞬間だ。アットホームなのに、なぜかワイルド。わたしはガーデナ(ロスアンジェルスの日系人居住区)にある食堂、「オタフク」でも食べられる親子丼ぶりにした。たぶんワイルドな役割は、千年紀の変わり目にはじまった新しい人生のことを語る、淺野が演じたのだろう。ブラジルでの旅、もうすぐ父親になること、そして共通の師である1920年代にブラジルに渡った日系移民、ヴァルテル・ホンマをめぐる思い出。この老師の逝去を、ふたりは追悼した。淺野の物語を聞きながら、ことあるごとに、わたしは涙を流したり、爆笑したりした。痛快な笑いと深い悲しみのはざまを縫うようにして、わたしたちのサウダージが心のトフル墓を満たす。ヴァルテルは、実の子ではない子供達について語ったという。それはわたしたち、放浪の学生のことだった。長距離の旅路も厭わずに、グァラサイの新生農場にある彼のコミューナルな家をたずね、その知恵が自分に伝えようとしている何かを知るために、夜更けまで話しこんだ三人のこと。70年代、わたしは一度の訪問のたびに数週間をそこで過ごし、コミューンの人びとの個人史を記録した。80年代には、別のもうひとりの学生ヴァレリアが、わたしの役にかわった。そして世紀が変わって、最後が淺野。ヴァルテルはこういった。それは淺野への遺言だったのかもしれない。カレンはボクの長女、ウヴァレリアは次女、そしてあなたは末っ子の息子だ。オヤコをこえた交感関係(コミュニオン)。わたしはその意味についてじっくり考えてみた。

 リカとレイはそれぞれ9歳から10歳に、4歳から5歳になろうとしていた。このきょうだいは、姉弟のあいだの愛情と反感のぶつかりあいによって、固くむすびつけられている。それはまた、わたしの子供達がしめす特徴でもある。ジェイン・テイとジョンなら、リカとレイのなかに自分自身のすがたをすぐに認めるはず。おたがいに依存しあいながらも、性格がまるで異なるのだ。レイは、ジョンのように、リカの膝のうえで大の字になって甘美な夢にまどろみ、リカは、ジェイン・テイのように、服に滴り落ちる鼻水とよだれに必死に耐える。
 
 奄美では、島の画家田中一村の作品を収蔵するミュージアムをたずねた。リカとレイが、館内をふわふわさまよいはじめる。英語が流暢なリカは、わたしのガイド兼通訳として振るまった。彼女は、お気に入りの絵を見せてくれた。前景にアダンの木の果実、背景に大洋と珊瑚礁のビーチが描かれた一枚。お絵かきの好きなレイは、この作品の目も覚めるような鮮やかな色彩と躍動的な動植物の生命感に反応して指差した。一村の絵画に対するレイの興奮は、誰の目にも明らかだった。彼は晩年の作家の肖像写真をじっと眺めながら、しばらく声もあげずに立ちすくんでいた。

 数日後、わたしたちは田中一村がかつて住んでいたという家もたずねた。織物を染めるのにつかう泥の池のある一角に移転・改築された古民家。一村は晩年、生計を立てるために染め物をしていたというので、ここはいかにも彼にふさわしいたたずまいだ。果実をぶら下げたアダンの木、ソテツ、パパイヤや菩提樹―家屋を押しつぶすようにして丘の斜面に群生する、一村絵画の主題となった樹木たち。家の戸が開かれているので、室内が見えた。ほこりっぽく、いまはもう誰も住まなくなった一連の部屋、ボロボロに破れた障子紙、ほつれた畳、蜘蛛の巣。見捨てられ、荒れはてた古めかしい住居。レイの失望が、叫びにかわった。「アァ、キタナイッ!」 わたしの耳に聞こえたのは、このことば通りの意味(It's dirty)じゃなくて、彼の深い落胆の声だった。ミュージアムでの興奮ぶりを目の当たりにしていただけに、わたしにもレイの悲嘆が痛いほどよくわかった。愛する画家の不在、美術館へと消えた彼の全作品。画家の貧乏な暮らしぶりと生前に認められなかった不遇の境涯を見せつけられた、悲しい瞬間。しかし間髪を入れずに、旅慣れた人類学者の娘が弟をたしなめた。You shouldn't say that!(そんなこと言っちゃダメ!) リカはこのつつましやかな場所をのぞきこみながら、こう叱りつけた。おそらくそれは、ブラジルで見たことのある簡素な家並みの風景を彼女に思い起こさせたのだろう。レイは、自分の悲しみを表現する言葉が見つからず、リカを蹴り飛ばし、涙を流して泣きわめいた。予想通り、きょうだい喧嘩がはじまる。人類学者の父とアーティストの母は、ふたりの子供を引きはなした。

 後日、はるか北方の島の札幌で、わたしたちは、およそ20名の参加者を得てライティング・ワークショップを開催した。最初に、参加者にA型かB型かをたずねて別々の列に並ばせる。それから、AとBのペアを組ませる。たとえるなら、人類学者とアーティストのペアのようなもの。こんなふうにして、「わたしはカメラ/わたしは写真家」というゲームをはじめた。カメラ役は、まず自分の目を閉じる。写真家は撮影場所にこのカメラを連れてゆき、フレームを定め、彼ないし彼女の肩をポンとたたく。すると、カメラ役はシャッターの機能をはたす自分の瞳を5秒間だけ見開いて、映像をこころに焼きつける。わたしたちはABのペアが、森のなかや野原を越えて、札幌大学の敷地のほうぼうをさまようのを観察した。写真家の目に見えない記憶をたよりに導かれる、目の見えないカメラの歩行の軌跡を。

 カリフォルニアにもどったわたしは、かかりつけの医師に電話して自分の血液型をたずねようかと思案中だ。あすにでも電話してみようかしら。いや、やっぱりやめておこうかな。

2004年8月9日      


翻訳:淺野卓夫(B型)