「声送り」の日記 『ぶらじる丸』と学び逸れの旅

淺野卓夫






私の様に民俗の採集を学問とするよりも詩とせんものには、この故に旅がやめられぬ。――宮本常一







 「ここには、何かを求めて遠い距離を旅する、わたしたちすべてが共有するであろう一つの普遍的な物語がある。つまり、家郷(ホーム)と呼ばれる何かを求めて旅をする、わたしたち自身を映し出す物語が――」。日本からの南米移民の集合的な歴史体験を、五人の語り手のそれぞれに異なる声とヴィジョンをとおして語り尽くした小説作品『ぶらじる丸』の序文で、まずこう記したのは英語で書く作家カレン・テイ・ヤマシタだった。五〇年代のカリフォルニアに生まれた日系三世で、人類学の調査を名目にサンパウロに渡り、ブラジル人の夫と結婚し家庭をもうけ、およそ十年を当地で過ごした旅する作家だ。

 小説の最初の舞台は、一九二五年のサンパウロ州。神戸発の移民船に乗ったひとりの少年が、南シナ海、シンガポール、インド・セイロン島、アフリカの喜望峰をへて、数ヶ月の航海の後にブラジルはサントス港に到着し、異邦の大地に上陸する、この記念すべきはじまりの一日をめぐる後年のかれ自身による追想の場面から、物語はうごき出す。
 南米の新天地で、キリスト教と社会主義の理念に根ざす農場協同体というユートピア建設を夢見る破天荒な移民集団が、宇野一族を筆頭としてサンパウロ州最奥地の原始林を開拓し、エスペランサ(希望)と名づけられた永住地に入植する。ストーリーの表面的な展開のなかで語られるいくつかの印象的な出来事を挙げてみよう。たとえば、奥地の開拓青年をふくめた戦前日系社会全体に、野球が熱病のように流行したこと。宇野家の長男カンタローの若く情熱的な理想によって、「新世界農場」というコミューンが誕生したこと。そこには日系の音楽家や芸術家や舞踏家があつまり、祈ることと耕すことと芸術することの融合が夢見られたこと。カンタローは同志の青年とともに、養鶏業で一時成功を収め「南米の卵王」と呼ばれるまでになるが、その豪放な性格と浪費癖が災となり農場は巨額の負債を背負って倒産し、やがてコミューンは分裂してしまうこと・・・。こうした挿話の数々を目にする読者が、もしブラジル日系社会の事情に詳しいものならば、その物語の筋は、有名な「弓場農場」をめぐる歴史を創作的に翻案したものだと、すぐに察しがつくだろう。
 そこは、サンパウロ州と南マットグロッソ州との州境に広がる農村地帯に、いまも実在する一大日系集団地、アリアンサ村の一部をなす理想主義的な農場で、武者小路実篤による「新しき村」やトルストイの農民哲学などに直接間接の思想的な影響を受けたと言われるクリスチャンの快男児・弓場勇によって、一九三〇年代に独自に開拓された協同体だ。七〇年代、カレン・ヤマシタが頻繁に訪れ、『ぶらじる丸』の原型となる物語を聞き書きしたこの農場に、およそ二十五年の後に、ぼく自身もまた、この小説を仲立ちとしたさまざまな偶然の出会いに身を委ねながら、フィールドワークをする学生として流れ着いたのだった。

 ほぼ一年を通じて、南国の果実・蕃石榴(ゴイアバ)の甘美な芳香を漂わせる現実の弓場農場を訪ね、そこの空気のなかにしばらく滞在すれば、この移住地の風景そのものが、ブラジルという混血世界の汀に漂着した「日本」の流転の歴史をめぐる、まさに生きられたミュージアムのような場であることを、やがて誰もが気づくことになる。
 農場の共同員の人びとは、大正時代の西日本方言に、ポルトガル語の語彙が混ざった不思議なピジン語を豪快にはなし、朝はコーヒーと卵、昼と晩はフェジョンとアロース(煮豆をご飯にかけた料理)というもっとも庶民的なブラジル料理を常食としながらも、かならず副菜に田舎風の「自家製みそ汁」や「漬け物」を味わうことを忘れない。
 南米の野生の大地に、ノスタルジアに彩られたもうひとつ別の時空の痕跡を無数に残すこと。それは同時に、自らの記憶する肉体に、郷愁のイメージを根こぎにしようとするもう一つの場所と時間が、否応もなく刻み込まれる経験ともなった。かれら移民による、ブリコラージュ(寄せ集め)の方法を基調にした記憶と忘却のつぎはぎの技が、この農場の景観に、エキゾチックでいてどこか懐かしいような、玉虫色のふるさとの像を現象させるのだが、ともかく来訪する旅人をまず驚嘆させるのは、かれらの「表現者」としての旺盛な活動ぶりだ。
 日中は果樹園や牧場で農作業に励む褐色の肌をした労働者は、夜になると庶民派のアーティストに変身することで知られる。晩の黙祷と共同の食事の時間が過ぎるあたりから、あるものは舞踏場で踊り、あるものは闇に歌って、あるものは楽器を奏し、また画布に向かうものもいれば石材や木材に鑿をふるうものもあらわれる。キリスト者らしく、夏の聖誕祭(ナタル=クリスマス)の時期に八〇名ほどの共同員の人びとが全員参加し野外舞台で開催される、農場の生活史を題材にした宗教的移民劇の公演は、すでに一種の民俗芸能のようなものと化し、それは遠方からも大勢の来客が訪れる移住地最大の祝祭行事だ。また敷地内には、開拓初期の古民家も移築され、そこでは移住史関連の資料や写真を閲覧することができ、屋外の庭には日系美術家の彫刻作品が展示されるなど、弓場農場は今や現実のミュージアムとしても整備されつつある。
 そればかりではない。必ずしもアーティストとして自己表現することのない控えめで寡黙な古老の共同員だろうが、まだことばも話せない無垢の幼児だろうが、あるいは何の変哲もない、建物を形作る板材や柱だろうが、敷地にそびえる一本の樹木だろうが、ここではありとあらゆる人間と事物が何らかの歴史的な意味をかならず担わされる。つまり移住という、この地への「はじまりの旅」をめぐる記憶の伝承が書き込まれていない身体や場所は、この農場にはただの一つも存在しない。すべての共同員の自己同一性は、弓場勇ら最初期の移民一世との関係ではじめて規定され、すべての事物は、原始林の開拓からの物語的な時間の文脈のなかでのみ、みずからの存在理由を開示する。

 乳と蜜のながれる理想郷――外部の世界に真実の家郷(ホーム)をもとめ、起源の土地から離散する探求の旅の果てに、ついにふたたび創造=想像された第二の家郷。だがかれらは、蒼茫という経験の深みにおいて、じつはそれがもう二度と奪還しえない、あらかじめ失われた夢の複製品だということも心のどこかで悟っている。
 だからこそ、ここでは人間と事物の風景が、記憶の貯蔵庫としてかれらの実存を内側から支える原理のような役割を果たす。そこにおいて来訪する旅人は、土地を実体としてのみ経験することは、もはやできない。風景を横切るように歩行するものは、ただそうするだけで、誰もが知らぬ間に、かれら日系人の記憶術の迷宮をさまよう観客(オーディエンス)になる。追憶と忘却と幻想の声が渦巻くように木霊する、時間意識の回廊に陳列されるひとつひとつのうしなわれた時の破片と遺物は、カレン・テイ・ヤマシタがそうしたように、訪ね来る他者の眼と耳をとおし、「家郷と呼ばれる何かを求めて旅をする」匿名の魂の物語として丹念に読み解かれ、忘却に抗って新たな声として再生し、テクストとして書きつがれるのを、今もじっと待ちかまえているのだ。

 アリアンサ移住地と町を一つへだてたところに、「新生農場」という別の日系の協同体がある。
 およそ二年あまり、ぼくは、移民の古老の語り部、ワルテル・ユキオ・ホンマの世界観をとおしてその地にねきさしならない関わりをもつようになった。かつてこのあたりの日系集団地で精力的に聞き書き調査をおこなった若かりしカレン・テイ・ヤマシタは、ワルテルのことを父親のように慕い、もっともながい対話の時間をかれのもとですごしたという。小説『ぶらじる丸』の語り手=登場人物のひとり、寺田イチロー(通称エミール)の声の像には、このワルテル・ホンマの面影が色濃く投影されている。
 新生農場は、弓場農場が破産した際に、リーダーである弓場勇と袂を分かった一派によって創設され、日本人カリスマの先導する理想主義的共同性よりも、集団生活のプラグマティズムとブラジル社会との共生に重点を置くコミューンだ。しかし当然ながらこの両者はその来歴の物語をかなりの部分共有し、農場の生活形態からしてもいわば双子の分身のような存在で、お互いの間で親族としての、あるいはかつての同志としての精神的なきずなが完全に断たれたわけでもない。にもかかわらず、これまで移民研究の世界でもジャーナリズムの間でも弓場農場ほど魅惑的なフィールドとして知られてこなかったのは、かれらが表面的には、記憶のアーティストとして弓場農場ほど「饒舌」でないように見えるからだろう。サンパウロの都市部では、ブラジル日系人の知識人のあいだでさえも、その存在はあまり知られていなかった。それほどまでに、農場の生活はひっそりとしていて、今では老人ばかりが暮らすその忘れられた土地は、たしかに、共同体としての歴史的生命をしずかに終えようとしていた。
 けれども、この新生農場というなかば廃墟の館と化した、消失への道を寡黙に歩むコミューンの堪える透明な空気と、そこにたたずむワルテル・ホンマという語り部の孤高の姿に、ぼくは学問的なテーマへの関心以上の不思議な魅惑を感じた。「未知の土地へと旅すること、あるいは未知の土地に住まうこととは、一体どういうことなのか、そこに最後、みずからの「骨」を埋めることには、どういう意味があるのか・・・」。ぼくは、古老のまなざすおなじ空の雲をみつめ、同じ水をのみ、訪れるたびに何日も、何週間ものあいだ、ただひたすら、かれが滔々とつぶやく独創的な思想をノートに書きとめ、ひとことをも聞き逃さないよう一心不乱に耳を澄ませた。いまこの移住村の農場に、放たれた知恵の「声」を自然に受け止める若い存在がいないのならば、自分こそがその最後の「意志の二世」になろうという、切迫した衝動とともに。
 
 それはぼくが経験しえた、もっとも純粋な、もっとも幸福な、魂の学びの時間だった。






 けれどもそのような学びの機会も、ある日突然中断されることになる。

 二〇〇二年北半球の春、サンパウロから発信された一通の電子メイルが、合衆国西海岸の大学町サンタクルス、日本列島は北海道と本州中部の二都市、そしてイタリア半島の水の都ヴェネツィアへと送信された。それぞれの土地に暮らす、新生農場を介して結ばれあう知の仲間の環へと。それは、あまりにも唐突に、悲しい事実を伝えるたよりだった。

「五月二八日、アラサトゥーバの病院で、わたしたちの敬愛するワルテル・ホンマが、癌のため死去しました」

 コンピューターの画面に浮かぶ、こうした無機質なことばの連なりを眺めても、すぐには現実感が湧かない。ワルテルと死――ぼくの頭の中で、この二つのことばが一つの文の中に隣り合うことは、それまでありえなかった。南米の奥地にこもりながら孤独に世界を見通すような、あの語り部の透徹した意識のなかにたぎる情熱の炎が絶えることなど、八〇歳に近いかれの実年齢を知らないわけではなかったのに、まったく考えもしなかったのだ。
 
 ぼくがこのたよりを受け取ったのは、名古屋でのことだった。それは、日本に一時帰国し、ふたたびブラジルでの長期滞在を実現するため査証の申請など煩雑な手続きや準備におわれ、領事館や役所や大学などを奔走している時のことだった。そうした努力が、すべて水の泡と化すような虚脱感に駆られると同時に、この現実の世界からワルテル・ホンマが消えたという冷厳たる事実を目の前に突きつけられ、ぼくは青ざめた自分の心の中に、溜まった水がぼたりとこぼれるような鈍い音が響くのを、たしかに聴いた。
 
 それから数ヶ月後、ぼくは何とかブラジルに再渡航し、ようやくかれのお墓参りに出かけることができた。

 はるか彼方の地平線が明るみはじめる早朝、いつものように、深夜便の長距離バスで奥地のグアラサイの町に到着する。停留所には、新生農場のMさんが、旧式のアルコール車で迎えにきてくれた。このひとは、ワルテル老人が尊敬の念を込めて「M先生」とよぶ農場の牧師の息子で、自身も聖職者だ。
 赤い土ぼこりを巻き上げるその車で新生農場の敷地内まで入ってもらい、旅の荷物を背負ったまま集会所の板戸をぬけ、悲鳴のようなきしみをあげるいつもの長椅子にまず腰掛ける。
 木彫りの食卓の向こう側に、しかし古老の語り部のすがたは、もうなかった。
 そのかわりこの日は、Mさんとその奥さんがぼくの話し相手になってくれて、いつのまにかそっと食卓に並べられた自家製の食パンとゆで卵、熱いコーヒーの、いつもながらの農場の朝食をありがたくいただく。朝の祈りと食事の場に同席した何人かの農場の年寄りらがみな、まるで示し合わせたように、「どうも、いまでもホンマさんがいなくなったような気がせんのよ」と首を傾げながら漏らす声ばかりが、耳の奥にこびりつく。ぼくも、まったく同じ気持ちだった。なぜ、いつものように、風呂場につながるあそこの食堂の勝手口から、ワルテル老人がひょっこりあらわれないのか。皺だらけの額を掌で何度もぬぐっては、みじかい白髪頭を野球帽の中に押し込め、さあ待っていましたよ、とでもいうようなほがらかな笑みを浮かべ、ゆっくりこちらに歩み寄るはずのかれが、なぜいつまでたってもこの場に姿を見せないのか・・・。

 ワルテル・ホンマは、亡くなるひと月ほど前から腹部に異変を感じていたようだが、いかにも奥地の剛直な農民らしく、手足の動くうちは病院へ行こうなどとは露とも考えず、じっと苦痛をこらえていた。だがある日、とうとう体が言うことをきかなくなり悶絶して倒れ、ちょうど町からもどっていた息子たちがすぐさま病院へ搬送したらしい。検査で発見されたのが、肝臓の癌だった。肉体を蝕む病魔はあっという間に全身に転移し、手術の介もなく最期は肺炎を併発し、入院から二週間もたたないうちにかれは逝った。「ドトール(医師)がオペラ(外科手術)して、おなかをぱっくり開いたときにはね、もう手遅れで。こりゃあダメだって、すぐに、一度開いたおなかをしめちゃったって・・・」。冗談まじりにそう言いながら顔では笑うワルテル老人の妻、二世のヨシコさんの瞳がすこし潤みはじめるのに気がついて、ぼくは驚いた。
 農場の食卓を借りて調査資料を整理したり、せっせとノートに書きものを続けるような作業の合間に、共同の台所でレンガ作りの焜炉の火にあたって、家事をする老母らと談笑しているときなど、ぼくはよく、ヨシコさんからこうからかわれたものだった。あーんな話しぜんぶメンチーラ(嘘っぱち)よ、口から生まれたみたいなジイさんのたわ言ばっかりきいてたら、そのうちお尻に根っこが生えちゃうわ! と。おしゃべりで、冗談好きで、皮肉上手の現実家。そういうヨシコさんが、このときばかりはあまりにも無防備に、伴侶をうしなったかなしみの表情だけを浮かべ、墓参のために訪れたぼくに深々と頭を下げる姿が、かえってこちらの胸を苦しく締めつけるのだった。

 午前九時三〇分、奥地の農場のいくらか早いアルモッソ(昼食)の時間を告げる角笛の音が、みわたす限りの遠くの敷地へと重く響きわたる。労働着そのままの共同員の人びとが、ひとりまたひとりと食堂に集まりだす。フェジョンとご飯、キャベツの炒め物、カボチャの煮つけ。菜食中心の献立。この日は白ご飯のほかに、五目ずしも炊いてくれた。遠方から訪ね来た日本人の青年をねぎらう、精一杯のご馳走だ。食事のあと、Mさんの案内で、小雨のぱらつく曇り空の下、市立の共同墓地へむかった。「あたしは、お墓には行きませんよ。絶対に行きませんよ」というヨシコさんのかたくなな態度が、喪失の痛手の深さをふたたび言外に語りかける。ぼくらが農場のトラックに乗り込もうとすると、いつのまにか庭のどこかで摘み取ってきた可愛らしい色とりどりの花の束を、彼女はなにもいわず窓から差し入れてきた。
 
 インディオの面影を残す混血の墓守りの男に土色の門を開けてもらい、共同墓地の敷地にすこし緊張した心持ちで足を踏み入れる。ブラジルの黒い聖母、アパレシーダの像が死者を見守るように鎮座する礼拝堂を横目で眺めて通り過ぎ、湿り気を帯びた生暖かい風を額に浴びながら、墓地の奥のほうへ、奥のほうへと黙々とすすむ。赤土の上に整然と横たわる、薄茶色の御影石で作られた一個の簡素な長方形の墓石。その前で、おもむろにMさんがひざまずき、しずかに胸の前で十字を切る。ぼくは、無言のままそこに花束をそっとのせた。墓石のあたまのほうには、Wartel Yukio Honma 12/07/1921―28/05/2002、と黒い染みのような手書きの文字だけが記された灰色の板木の十字架が、寂しげにぽつりとたっていた。

二〇〇三年二月一日、新生農場
(Guaracai, Sao Paulo)






 
それからしばらくして、サンパウロでの生活を完全に引き上げて日本に戻り、奄美群島のひとつ、沖永良部島へわたる洋上にぼくはいた。甲板の手すりにもたれかかり、定期船が波のうねりに刻む航跡の白い泡沫を、後方にひとり眺めるともなくただ眺める。頭上の雲は海に落ちるように低く垂れこめ、航行する船が時おり冷たい霧雨のなかを通過するのが、陽に灼けた肌に気持ちよかった。さきほど寄港した与論島を今発ったということは、那覇の港から、もう五、六時間は経過したのだろう。このまま何もかもが自分から遠ざかり、じきにブラジルもまた、夢か幻のような遠い存在になるのではなかろうか――あの国の住人がサウダージと呼ぶ、甘やかな別離の痛みの兆しを、ぼくははじめて自分の心の舌に味わったような気がした。
 ブラジルで暮らした三年のあいだ、ぼくはふたつのプロジェクトに熱中した。ひとつは、カレン・テイ・ヤマシタの小説『ぶらじる丸』を日本語に移し替える作業。翻訳のための取材をかね、作家の彼女が足繁くかよった日系集団地を再訪しながら、『ぶらじる丸』という一個の文学作品が創造されるプロセスを追体験する旅にもしばしば出かけた。ワルテル・ホンマとの出逢いと対話の時間も、そこから生まれた。もうひとつの計画が、ブラジル日系人の言語に関する研究だった。ぼくはある研究所に所属して、サンパウロ州やパラナ州に散らばる日系集団地を渡りあるきながらフィールドワークの訓練を積み、日系人の年寄りらの語るライフヒストリーに耳を傾けながら、「コロニア語」というかれらが日常的に使用するオーラルな日葡混成語の基礎的な調査をつづけた。
 当時のぼくは、より本格的な言語人類学の調査計画とともにふたたびブラジルに何年間か滞在し、研究の成果を現地の大学に提出する学位論文にまとめようかと考えていた。実をいえば、もうそのまま彼の地に永住して「ブラジル人(日系人)」のようになってもいい、とさえ思っていたのだ。けれども、頼みの綱にしていた南米への研究派遣の試験に落第し、公的な制度上・資金上の保証がないとなると、これ以上長期滞在の査証を取得することは事実上不可能だということが判明した。そればかりか、この年、父親がワルテル・ホンマとまったく同じ病に突然倒れたということも、ぼくの足どりを現実的にも心理的にも重くさせ、この列島に踏みとどまらせた大きな要因となった。家庭の事情から、このまま学業を続けることさえ、難しくなった。
 いろいろな意味で人生の分かれ目に呆然と立ち尽くし、強いられる取捨選択に戸惑うぼくにとって、だから島へのあらたな旅は、つかの間、現実から逃避するために必要な救いの道だったのかもしれない。二〇〇三年九月、人類学者・批評家の今福龍太の主宰する奄美自由大学が沖永良部島で開催され、「放擲する愛、南海のオルフェウス」と題された野外劇が上演されるという知らせを受けとった。奄美自由大学とは、島内外からの参加者を得て、島々の自然の地勢と浦の集落を舞台に展開される巡礼型の野外学舎で、この年が二年目の試みとなる。サンパウロ大学の客員教授をつとめたおりにやはり新生農場を訪ねた今福龍太は、何を隠そうカレン・ヤマシタとぼくを引き合わせてくれた張本人の恩師で、かれとはもう数年間、共同で『ぶらじる丸』の日本語版を制作する作業を継続してきた。ぼくは旧知の主宰からの呼びかけの声にすぐさま応え、ほかの参加者よりも一週間ほど早く島に入った。

 琉球弧の群島を襲いながら勢力を拡大する大型の颱風が、いよいよこの島にも上陸しようとする気配に、待ち構えるひとびとの口数は自然と少なくなり、だからぼくも誰かと多くを語り合うこともなく、この数年の学びの時をふりかえりながら、自分自身との内面的な対話をしずかにはじめた。
 雨の様子をうかがいながら民宿を出て、沖永良部島を歩いてみると、すぐに奇妙な既視感に捕われた。たとえば、ほかの奄美の島々のように垂直性の強い地勢に欠くなだらかな土地の起伏、肌に絡みつくような南の風になびく砂糖黍の畑と赤い土の道、窪地の集落に立ち並ぶ灰色の板木の家屋――これらの要素は、すぐさま新生農場とその周辺の像をまざまざとぼくの脳裏によみがえらせ、驚くほどの景観の呼応性は、あの懐かしいワルテル・ホンマが、まるで島の人間のような顔をしてそのあたりで野良仕事でもしていそうな錯覚を起こさせるほどだった。いつだったか、かれは「最後の夢は、歩くことです」とぼくに言ったことがある。青年時代のように、黄昏時の陽の光りと心地よい風を小さなからだ全体に思い切り受け止め、陸稲の穂や砂糖黍がきらきらと揺らめく農場の道をどこまでも歩きたい、と。その夢を、ふたりで実現したかった。どこかブラジル内陸部の農村地帯を思わせる島の黍畑を路上からみつめながら、ぼくは、胸の奥から熱い感情の波がこみ上げるのをおさえることができなかった。
 
 ワルテル老人は、一家がどういうわけで日本から南米に移住し、またサンパウロ奥地の移住地に定着するようになったのか、個人的な来歴を事細かに説明することをあまり好まなかった。この老人の薄墨色の知恵ある瞳は、つねに過去よりも未来を指向していたと言えるかもしれない。驚嘆すべき想起の力と語りの才術により、土地の「記憶の人」として数多くの聴き手を魅了してきたことは事実なのだが、こと話題の矛先が自分自身におよぶと、なぜかはぐらかすことが多かった。
 かれがしぶしぶ明かしたことといえば、大正時代、日本列島の太平洋沿岸の村で生まれたこと。戦争のまえに、一旗あげようとした若い両親に連れられて、幼年時代に兄弟とともにブラジルへ移住し、サンパウロ州を東西につらぬくノロエステ鉄道沿線の耕作地を転々と移動しながら、奥地のミランドポリス、ついでグアラサイの地に流れ着いたこと、せいぜいその程度だった。弓場農場で暮らした青年時代には、配送トラックの運転手をつとめ、南部の諸州をめぐり歩いた時期もあり、こうした多くの旅の機会から直接手に入れた知識や見聞が、ブラジルの土地なし農民による抵抗運動の問題から、アメリカ先住民のはるかな一万年の旅路への深い関心、国家以後の人間の新しいコミューナルな連帯をめぐるかれ自身の移住哲学を、長い時間をかけ醸成したにちがいない。
 ところがこの古老は、自分のことを、旅人というよりもむしろ大地とともに生きる定住民と考えていた。実際に、南国の強烈な陽射しに黙々と耐えつづけてきたのであろう、苦難の歳月のあとが無数の皺に刻まれたこの老移民の顔には、深々とした土着の威風すらたしかに感じられた。離散と定住の精神は、かれの身体のなかで何の矛盾もなく共存していた。
 旅することのなかに住まうこと*。この機知ある矛盾をはらむ表現は近代の移民以前には、島人の生き方をさすものだった。それは、海の彼方から来訪する神々や人間や事物を受け入れ、また同時に海を越え外界を目指すものらを送り出す、そうした無数の「旅」への想いが内側に折りたたまれた暮らしを日々営む人びとが、ことさら言挙げすることなく生来に抱えもつ島の理だったといえよう。ならばぼくがこの沖永良部島にやってきて、ワルテル・ホンマのことを群島の住民のように空想したとしても、あながち的外れではないのかもしれない。かれもまた、隔離されたブラジルの日系人コミューン、新生農場という陸の孤島に生涯をまっとうした、ひとりの島人(しまんちゅ)だったのだ。

 ただし沖永良部島と新生農場とのあいだには、当然ながら決定的な違いもある。水の存在ぶりだ。サンパウロ州の奥地だと、生活に必要な水といえば、おもに大陸をつらぬく大河とその支流から居住地にもたらされる。しかしこの隆起珊瑚の島だと、それは地層深くを縦横無尽に走る空洞をながれる清水のことを意味する。ブラジルの詩人・劇作家ヴィニシウス・ジ・モラエスの黒人劇『コンセイサンゥのオルフェウ』に着想を得た、今回の奄美自由大学の野外劇の試みは、この地下水のかよう見えざる道を、集落の共同水場の泉から、鍾乳洞や洞窟の風葬地跡、干瀬の波打ち際や海岸を蛇行する細流にたどり、島の生命を司る水への祈りの歩行に参加者を誘う儀礼的仕掛けを、その演劇的な主題の背後に隠しもつものだった。
 壮大な落日を彼方に望む浜辺に忍び寄る宵の気配に、死せる妻を追い求める胎内くぐりの旅から地上に帰還したオルフェウの最期を演じ、砂に崩れる若い舞踏家の肉体と、霊妙な木の実の鈴を鳴らす数名の妖精役のすがたが、仄かな闇にまぎれるようにふっと消えた。終日、かれらの演じる即興劇に導かれるまま真夏の沖永良部島のあちこちをまわり、流れる水の存在をつねに感じながら、遠い新生農場と亡きワルテルのことを想う個人的な冥界下りの巡礼をおえると、それまで知識として所有するようにみなしてきたぼくのブラジルが音もなく終わりを告げ、聴いたこともないブラジルの音楽がこの島から新たな旋律の時間を刻みはじめるように感じられた。そしてその瞬間から、ぼくの発熱する意識の風景のなかで、B・R・A・S・I・Lという言語音の響きは、地図上に実在する南アメリカの密林と大陸の国ではなく、太平洋と東シナ海の境界上に浮かぶ風と水の島の名に変わり、さらに言えば、島とは死の同義語だった。

*J・クリフォード『ルーツ』(月曜社、二〇〇二年[原著は、一九九七年]、毛利嘉孝ほか訳)







 野外劇が終わった夕方、奄美自由大学の参加者がそろって歌遊びの宴に出かけた後もぼくは集落の民宿に残った。にぎやかな客が一斉に出払い、静まり返った畳の居間には宿を一人で切り盛りする皺深い寡黙な老母と、みなが親しみを込めて「にぃにぃ」と呼ぶひとり息子が晩ご飯の食卓をかこみ、ぼくもお相伴にあずかることになった。「にぃにぃ」は、四〇歳を過ぎた今も経済的に母親の世話になり、定職に就く様子もなく日々を遊び暮らしているような男で、けれどもどこか憎めないところのある集落の「ノオテンキ者」だった。この日も明るいうちから黒糖焼酎をちびりちびりとのみはじめ、酔うほどに嘘とも本当ともつかない若かりし頃の色恋沙汰を、ぼくに語るともなく語りながら管を巻くのだった。「にぃにぃ」の千夜一夜の物語はともかく、愛すべき母子の慎ましやかな夕餉の光景は、ぼくの感傷を、いやましにかきたてた。
 その晩は、月明かりがあまりにきれいなので、少し酔いを冷まそうと夜風を浴びに散歩に出かけることにした。足は自ずと、昼間の自由大学の道行きの途上、慌ただしく立ち寄った「くらごー(暗河)」と呼ばれる穴井に向かった。
 沖永良部島南西端の集落、住吉にある「くらごー」は、川と言うよりも深い洞穴の底に湧く泉の流れで、そこは人々が生活用水を汲み、洗濯や水浴びをする日常的で世俗的な場所であると同時に、神秘と聖性の充溢する透き通った水の空間でもある。ぼくはゴム草履を脱いで裸足になり、この穴井の入り口へと、夜露に濡れる羊歯や夏草の生い茂る急な土の坂道をおりた。暗闇の奥に、からからと鳴る精霊の足音のような、珊瑚岩を打つ水のせせらぎだけが不気味に響く洞窟の内部へは、さすがにひとりで入る気にはなれなかった。だがそれでも、虫の音の小さな環が深々とふりつもるこの場の静寂は、たっぷりと潤いをはらむ野生の翳に息を潜める、大いなる存在への畏怖の念を抱かせるに十分だった。ふと頭上を振り仰ぐと、侵入者の存在に驚いた無数の蛍が草むらから飛び出し、お尻の光りを点滅させながらゆらゆらとさまよう様子が、目にとまった。瞬間、ことばにならない宗教的な感情に、垂直に刺しつらぬかれる。それは、聖と俗がまじわる集落の最新部の水場の闇から、何千、何万もの島の魂が、夜毎天界へと旅立つ禁忌の光景のようにも思われた。ぼくは、自分の心に空いた幾つもの小さな穴から、個人の生涯の時間をはるかに越えた悠遠の時の流れが、間欠泉のように高々と吹き上がるのを感じ、ひとり胸打たれた。

 ワルテル・ユキオ・ホンマ、という名前を耳にして不思議におもう人もいるかもしれない。戦前にブラジルに渡った子ども移民、日系コロニアのことばで言えば「準二世」、英語でいえばワン・ポイント・ハーフ世代、つまり二世に近い自己意識をもつ存在ではあるにせよ、社会科学的な規定としては一世で、日本生まれの日本国籍者であるにちがいないこの人物が、なにゆえに「ワルテル(Walter)」などという西洋風の名を、みずから名乗るのか。
 この「ワルテル」という名は、じつは、アリアンサ移住地の郡立小学校に通う少年時代に、学校のブラジル人教師が、便宜的にかれにあてがった呼称だった。ユキオやコージやキヨ子といった耳慣れない日本名を頭にきざみこむ代わりに、赴任したてのこの新米教師は、日系子弟をワルテルやトゥリオやセリアなどとある意味で勝手に呼び分けることで、出席を確認するために、授業の前に呼び上げる名前と生徒の顔を一致させる面倒を解消しようとした。 
 おそらく多くの日系の子弟にしてみれば、ポルトガル語風の名前は、ブラジル学校にかようあいだしか意味を持たない、あだ名以上のものではなかったと思う。ところが、少年時代のワルテル・ホンマは、まさにこの「ワルテル(Walter)」という教室用の通称に、「征夫=ゆきお」と同じ存在ではありえない、日本名の外部にたたずむもうひとり別の「わたし」というあらたな人格の誕生を、みずみずしい発見の歓びとともに感知したようだった。
 いくらか天の邪鬼な性格を有するワルテル老人は、誰かから何の留保もなしに「日本人・日系人(ジャポネース)」と呼ばれることを極端に嫌った。かといって、自分のことをブラジル人と規定することもなく、アイデンティティについて問われるたびに、「一介のカンポネース(野の人)に過ぎませんよ」などと答えていた。ワルテルお気に入りのコロニア語的ことば遊びに、「おまえは誰だ、何者だ?(ケン・エ?)」という問いに、「エウ・ソウ・ “ニンゲン”!」と応じるやりとりがある。ニンゲンという単語は、ポルトガル語の ninguem だと「誰でもない、何者でもない」を意味する。日本語だと、言うまでもなくヒト、集合的に人間のこと。だからポルトガル語と日本語のはざまを行き来する日系コロニアの聴き手なら、さきの答えのほうの句を、「わたしは、何者でもないよ!」という意味と、「わたしは、人間だよ!(つまり、何者でもありうる存在だよ!)」という正反対の二重の意味として受けとめることが可能だ。「国籍とか肌の色とか世代とか社会的な身分の高低とかいう意味でのイデンチダーデを度外視してね、何者でもない者どうしで語らうことが、一番人間として通じ合えます」と、ワルテル老人はぼくに何度も何度も強調した。それは、「国家」という幻想的な統合原理と近代の権力に対する一移民としての根深い不信と、人間の存在や関係性を束縛するあらゆる同一律への強固な反抗心に裏打ちされた、この旅する農民哲学者ならではの持論だった。
 「くらごー」の洞窟の前に孤独にたたずむ半時間ほどのあいだに、ぼくはワルテル・ホンマとの学びの時の意味についてあらためて反省しはじめた。テープに録音したりノートに書きためたかれの語りを筋の通ったライフヒストリー風の民族誌に仕立てあげ、出来合いの文化アイデンティティ論としてそれを分析し、社会科学の学術論文にまとめたところで、一時期はそういう企みの気持ちが自分のなかにあったのも事実だが、それは、古老の語り部から授かった教訓をひどく裏切る姑息な行為のようにしか、もう思われなかった。「エウ・ソウ・ニンゲン」、その意味をこれからの人生の中でさらに深く自分なりに探求し、このことばの重みに耐えながらそういう生き方を日々実践することのほうが、はるかにワルテル・ホンマから贈られた声の教えを受けとめる忠実なやり方だということに、愚かにもぼくはやっと気がついたのだ。
 
 この島旅から内地の寄寓先にもどったら、ぼくは荷物を預けたままのブラジルの研究所に連絡するだろう。ぼくはもうそこに、二度ともどれないことをつたえなければならない。日系人の土地土地で収集した録音テープや史料の類は、別の研究者にひきとってもらおう。そして一冊をのぞいて全部あちらに残してきた大量のフィールドノートの山は、ほかの私物や書類とともに処分してもらおう。ただでさえ物の置き場に悩まされる手狭な研究所なのだから、わざわざこちらから指示しなくても、年に一度の大掃除の際に、それらの入った段ボール箱はそのまま焼却処分されるだろう。
 
 ぼくは夜の虚空に、自分のブラジル体験がぎっしりつめこまれたノートが、赤々と燃え上がる様子を幻視した。
 
「野帖の火」

寡黙の時間の宿に
別れを 告げよ

貝殻飾りの縁側に
酩酊する
さすらう時
ひとりが
深夜の石垣の宮に抱かれた
無音に哀訴する
忘れの港から
忘れの港へと
輪廻した愛の小さ子の
瞬間の名の響きの影を
野生の無垢のやさしさのなかに
もう
眠らせよう

この日 隆起珊瑚の島の県道から 月光(つきびかり)の白が延々と 縦にのびる南海に 突然遠隔伝送された画像のような 太古の水の金字塔が 高々と建立される様子を幻視したのは 連続する颱風がひとの心の穴に呼び覚ます 根源的な政治意識のゆえだろうか、

榕樹(がじゅまる)の庭
咳をする
精霊が
歌の祭りのあと
夜のぶらんこで 
宙に
あそび

寡黙の時間の宿に
別れを 告げよ

黒き母神の泉湧く
鍾乳洞の底へ
反転するように
落下した
異人オルフェウの舞踏家の
もがくような
にじるような
墓にすがる
孤独の漁夫のような
冷たくなったつま先の跡を
みずから
密かに
石段の窪みに
なぞうろうか

だからくらごー(暗河)に繋がる 泥土と叢の坂道を下る ゴム草履をぬいだ裸足のひとふみ、ふたふみが 出来事の深層の たっぷりと夜の湿り気をふくむ 路傍の羊歯の葉を 小さくゆらし だからふと頭上を振りあおげば いつのまにか 驚いた無数の蛍の光りが 宇宙論的な浮遊をはじめ 声なき魂らの青ざめた瞳は 底闇に流れる 地下水の世界から 情念の道を退却した 彼方(あなた)に住まう人びとの 静もる脳裏の木立へと 無数の蛍の光りが 天に遠ざかり、

知るということの質量を飲み干す

追憶の学舎は炎上した

野帖(フィールドノート)に記された
文字と涙の列も
剥落する秒刻みの瘡蓋のように
舞上がる
火の粉となり
宙に
消えた

二〇〇三年九月十四日、沖永良部島






「旅のノート断章T」

 混血らしい若い母親が、しずかに寝息を立てる金髪の幼子を抱きかかえる隣りで、ぼくは遠慮がちに車内の座席に腰を沈めた。窓の外には砂糖黍畑の黒い影だけが延々とつづく、深海のような闇のトンネルを夢現つに潜りぬけ、小さな田舎町の発着場で、出発から八時間の後にようやくバスから吐き出される。すると、内陸部に見渡すかぎり広がる壮大な放牧地帯の起伏の輪郭を、淡い何層もの紫色に染めあげる、信じられないほど美しく鮮烈な朝焼けが、憔悴しきった旅人の心をゆっくり溶かすようにして出迎えてくれるのだった。

 二〇〇〇年、南半球の冬からぼくはブラジルに滞在し、サンパウロ州やパラナ州に点在する各地の日系移住地で人類学や言語学の調査をおこなう途上、暇を見つけてはこのグアラサイの地へくりかえし旅をした。早朝、町の組合などへ牛乳や鶏卵の出荷を終えて新生農場へもどる帰路で拾ってもらおうと、迎えのトラックを待つ。そして、朝の曙光に照らし出されるこの無人の路上の風景にひとりたたずむたびに、『ぶらじる丸』という作品に導かれるようにしてこの国まで来て、作家本人にはじめて新生農場を案内されて以来、ぼくは、もはや後戻りのきかない意識の航海へとすでに出発してしまったことを、つねに自分に言い聞かせるようにして、何度も何度も確認しなおしてきたような気がする・・・

二〇〇一年十二月二五日、Guaracai
(Guaracai, Sao Paulo)

 ***
   
 ――ねえアサノ、もしあなたが『ぶらじる丸』の世界の秘密をもっと深く知りたいなら・・・
 
 今日、サンパウロ東洋人街の場末の大衆バールで、講演のために来伯したカレンと久しぶりの再会を祝し、火酒(カシャーサ)のカクテルでまずは乾杯した。前回最後に会ったのはたしか彼女が創作を教えるカリフォルニア大学のサンタクルス校でのことだったから、もう二年ぶりぐらいになるのだろうか。ひとしきり近況の交換が終わったところで、カレンは悪戯っぽい笑みを浮かべて、こう、切り出した。
 
 ――絶対に会うべき人物が、ひとりいるわ。『ぶらじる丸』っていう小説全体を貫いて流れる世界観は、じつは、かれの声によるところが大きいの。なかなかの哲学者で、ちょっと言うことがふるってる。その人は、まあ七〇年代のわたしの「グル」みたいなひとで、じつはかれが語ることをせっせと書き写した何冊ものノートが、あの物語のひとつの原型になってるの。もう八〇歳近くの日系の老人で、サンパウロ州の奥地に今もある農場コミューンで暮らしてる。そこはね、あなたと同じように、若かりし人類学の学生としてわたしが日系移民の調査をしていたころ、何度も通った場所なのよ。

 夜の店内にたむろするパウリスタ(サンパウロっ子)の哄笑と怒号、音楽の喧噪のなかで、いつものような早口でここまで一息に語ると、彼女は鞄からペンを取り出し、ブラジルで最も有名なビール会社のコースターの裏に、秘密めかしてさっと文字を書きつけた。

 Walter Yukio Honma
 Shinsei-Nojo, Guaracai, SP

 ――明日の朝六時きっかり、わたしが今滞在してる義理の弟のアパートの前に来て。そこから、ワゴン車を一台貸し切りにして家族や仲間と一緒に出発するから。ミランドポリスの農場でまず一泊して、このグアラサイってとこに行く予定。長い旅になるわよ。そうそう、奥地の夜はけっこう寒いから、上着を忘れないこと・・・。
 
 カレンは、有無を言わさぬ調子でメモを記したコースーターをぼくに手渡すと、はじけるような笑い声を上げてグラスの中身を一気に空けた。『ぶらじる丸』の秘密を探る旅だって? 年老いた移民の「グル」って、一体何のことだろう・・・

二〇〇〇年七月二九日、Sao Joaquim
(Liberdade, Sao Paulo)






「旅のノート断章U」


 前日にふった大雨でぬかるむ赤土の泥道で、ぼくらはワゴン車を降り、ユーカリの植林をぬけて新生農場の敷地に入った。まず右手には給水塔がさびしげに立っていて、つづいて錆ついた農具が並ぶ倉庫があり、大きな水たまりが空の雲を映す土の道をすすむと、ジャカランダの古木がひっそりとそびえ立つ空地が目の前にあらわれる。そのかたわらの共同食堂を中央にとりかこむようにして、粗末な灰色の板張り家屋が、円環状にぽつりぽつりと並ぶ。家々の窓辺にはところどころ熱帯の花が飾ってあり、美しい羽根を高速回転させる蜂鳥が嘴を突き出して蜜を吸いに来ては、虹の光彩をはなって何処かへと素早く飛び去って消えた。路地の奥のほうを覗くと、空っぽの鶏舎が何棟か建っていて、周囲には牧草地と果樹園が、なだらかな起伏にそって広がっているようだった。
 
 「ここはまるで、コーラ族の土地じゃないか。何て言うか、この赤土の道と家並みのあいだを縫うようにして流れる風の感触。そうだ、この煙りの匂い、この牛の啼き声・・・。メキシコの山や湖の高原で、昔ぼくが過ごしたあの土着の空気と、まさかここで、日系人の農場で再会するなんて・・・」。
 
 カレン・ヤマシタの十年来の親友で、今はサンパウロの大学で教える人類学者が、誰に語るわけでもなく感嘆の声を、ふと、こう漏らした。かれはかつて、メキシコ中西部の高地峡谷に居住する先住民、コーラ族の集落を頻繁にたずね、イニシエーションの準備をする新参の若者組と同じ条件で部族の仮面儀礼に参加し、何日もの間かれらと夜を徹して炭焼きの番をしたり、日中の熱気のなかで村じゅうを疾走するという実験をくりかえすなかで、みずからの身体宇宙に生起する変革のドラマを、ただひたすら注視していたという。民俗儀礼の全体的な意味論や学問上の情報にはいつまでも疎かったけれどもそのかわり、肉体の酷使を経由した「物質的恍惚」の記憶が、かれの体内に、火傷のあとにしばらく残る余熱のような、叡智の痕を残した。そして、今なお論理の言葉では語り尽くせない、魂の内奥の芯部にくすぶる、あの祭りの日々の感覚世界を再びまさぐるようにして、しばらくの間視線を中空にさまよわせているようだった。
 すると、ぼくらの目の前で、インディオの部族の古老と見紛うばかりの陽に焼けた小柄な老日系人が、木造長屋から、ひょっこりあらわれたのだ。人類学者は、不思議な既視感にふたたび言葉を失って、この二重三重に転位する記憶の情景に、じっと眼を瞠るのだった。

 「オーパ!」と軽く驚くそぶりをつくって腕をひろげるこの老人の胸に飛び込むようにして、カレンは脇目もふらず、ワルテル・ホンマのもとに駆け寄った。多くを語ることなくじっと抱擁を交わすふたりの姿が、「物語の人(ストーリーテラー)」としての師と弟子が共有する、そばでみていて胸の震えるような時の蓄積と凝縮を映し出していた。ワルテル老人は満面の笑みを浮かべて、共同食堂の長椅子にカレンとぼくらを招き、形式ばった挨拶は抜きにして、いきなりありとあらゆることがらを、怒濤のごとく語りだした。カレン達には、じつに流暢なポルトガル語で、そしてまだブラジルの生活に染まりきってない様子のぼくを気遣って、時々、話の内容を日本語でかみ砕いて説明してくれた。

 「〈山〉から一歩も外に出て暮らしたことがないボクみたいな男にとって、あれはね、ほんとうに人生でたった一度の旅でした・・・」

 暗殺された「森の人同盟」の唱道者として著名なアマゾンのゴム採取職人シーコ・メンデスのお墓参りと、南米先住民スルイ族の集落を訪ねたアクレ州とロンドニア州へのなつかしい旅の想い出。そこから、グアラサイの小農家がかかえる地域経済の制度問題、旧ユーゴスラビア崩壊にみる多民族・多文化共存の困難、近年の日本の論壇にみられる右傾化への危惧から、はてはフランス革命の今日的意味まで、じつに豊富な話題が、この奥地の農場コミューンにこもる一介の年寄りの口から、次から次へと飛び出すことにまず驚嘆した。けれどもこの時は、話される内容以上に、つねにここではない何処か遠くの物語に聴覚のアンテナをむけ、一農夫としての実存の生に裏打ちされた細やかな観察眼をとおしてかれが「世界」を見通す時の、その語り口に込められた透き通った思考のゆらぎのなさに、いつのまにか、ぼくもあの人類学者も、すっかり魅せられてしまったのだ。移住村の古老の「耳を通しての旅」をたどりなおすぼく自身の旅は、このときはじまった・・・

二〇〇〇年七月三一日、新生農場
(Guaracai, Sao Paulo)

 ***

 前に新生農場の人びとが、来客用に建てた離れにある二棟の古びた宿舎で、ぼくら一行は旅の荷物をほどき、日本風のお風呂で長時間の移動の疲れを癒した。深夜になっても、ぼくは不思議な興奮状態に取り憑かれてなかなか寝つかれず、しばらく闇の木立のなかをぶらぶら散歩していた。すると、共同食堂の木造長屋の硝子窓から、まだほのかな灯りが漏れている。恐る恐る扉を引くと、そこにはまだ、カレンとワルテル老人が、マテ茶の薬缶を間に挟んで、熱心に語り合う姿があった。
 さあここに座って、と手招きするカレンに促されて、ぼくも遠慮がちに長椅子に腰掛けた。

 ――ワルテル、さっきはちゃんと紹介できなかったけど、こちらはアサノ。日本から来た放浪(バガブンド)の学生で、このブラジルで、大むかしのわたしと同じことをやろうとしてるそうよ。

 彼女がちょっと冗談めかしてそう言うと、古老は「ほう、それは、それは・・・」とつぶやいて、懐かしむように眼を細めた。「何か尋ねてご覧」と、隣りのカレンが無言のまま合図してくるので、ぼくは、どうしてあなたは・・・

二〇〇〇年七月三一日、新生農場
(Guaracai, Sao Paulo)






どれだけ遠く離れようが、いくつ島々を渡ろうが、B・R・A・S・I・Lの炎の円環はきみの感情の縁をあまやかに蝕み、きみはその分裂の痛みから永遠に逃れられない――それは、絶望的なまでに真実の教訓だ。

二〇〇七年五月二十八日、三浦半島・一色海岸






「旅のノート断章V」


 ワルテル・ホンマは、柵の向こう側の放牧場のなかですこし腰を曲げた格好で歩き、「ヨーイ、ホーイ」と呼び声をあげながら、黒牛の大群を草地の方へ追い立てていた。しばらくしてかれは、最後の挨拶のために訪ね来たぼくの気配に気づいて手ぶりで柵の中に招き入れ、新生農場の風景を一望のもとに見渡すことのできる、牧場内の小高い丘の上の木陰までぼくを案内した。そこは、老ワルテルが牛飼いの野良仕事の合間に、時々独りでしずかに想いにふける、秘密の場所だった。
 
 ――今でも、あそこに歩いて帰る夢をみますよ。

 ワルテルは、すこし虹彩の薄い、灰色にうるむ瞳で遠くを眼差しながら、おもむろに口をひらいた。

 ――まだ若い、ぼくらジャポネースの青年連中が、ひとつの大きな理想のもとに団結して原始林を自分らのこの手で開拓してね、協同農場を建設するために汗水を流したあの時代。ぼくらが弓場さんの農場から別れて、別の道をたどったとしても、あそこの共同員になったおかげで、血のつながった両親からは決して学ぶことのできない、巡りくる自然のリズムちゅうものと一体になって暮らす人間の正しい暮らしの仕組み、そしてね、大地の恵みをお互いにおしみなく譲り合う平等配分という理想っちゅうものを、学ぶことができました。あれは、ほんとうに自由の時代でした。

 ・・・ほら、アンタ、向こうをご覧なさい。あの道をこっちへまっすぐ行かないで、途中で折れる小さな曲り路がみえるでしょう、あっちのほうに、そうね、一〇キロもないでしょうか、歩いて行くと、あそこ、むかしの農場にたどりついて、そこからまた五、六キロ歩けば、今のアリアンサ村ですよ。 いまは、マンガ(マンゴー)とか、アバカシ(パイナップル)とか、バナナの樹林になっておるところも、あの当時は、綿花や陸稲の田畑がひろがっておって、米の収穫の時期になれば、ここらの丘の斜面をだーっと覆いつくすようにみのりをつけた稲の穂がね、こう、夕焼けの陽を浴びてきれいに黄金色にかがやいて、気持ちのいい風になびいて、一斉にゆらゆらゆれてね、それはもう、この世にこれ以上のものがないちゅうぐらいの、歓びがこみ上げてくるほどの絶景でしたよねえ。 

 それにあのころは、月明かりがあれば夜の暗闇の中でもね、自然と何も考えずにどこにでも歩いて行けました。この〈山〉*のあたりを歩いて歩いて、とうとう森の中で迷って、どこにも出られなくなったりして、日が暮れて暗くなってきたから、木に登ったりして、ね、苦労してやっとのことで見当をつけて、また道路にもどって、ああ助かったと思う。そういう経験を何度も何度もつむうちに、ここいらじゃあ、昼だろうが夜だろうが、もうどこを歩いても迷わなくなってね・・・

 ああ、でも今はダメです。

 もうこの年ですからね、雨が降ると、もう腰も膝も痛くていたくて、しゃがむこともできない。だから余計にね、ここのヤマから、むかしの農場のあたりまでまた以前のように歩ければなあ、迷うことなくどこにでも歩くことのできたあの自由な感覚を、もう一度あじわいたいなあ、って時々思いますよ・・・ぼくは、もう歩けませんから・・・**

二〇〇二年一月八日、新生農場
(Guaracai, Sao Paulo)

*新生農場や弓場農場の人びとは、自分たちの土地を〈ヤマ〉ということばで呼ぶのだが、農場の周囲にはゆるやかな丘陵こそあれ、実際の山はどこにもみあたらず、また誰もこの呼称の正確な由来を知るものはいない。ぼくは、これは中世史でいう「アジール」としての山林=ヤマの意からきていて、日本の俗世間を離れてブラジルという異郷で自由の実現を夢見たかれら移民の無意識が、ふるい記憶の層から現代に呼び覚ました、時空を超越する言語的転用の例ではないかと思う。またコロニア語におけるこの〈ヤマ〉という響きには、一昔前の炭坑夫のひとびとが、労働現場の「鉱山」のみならずをそこをふくめた一山一町的な生活世界を〈ヤマ〉と呼ぶ時の言語感情とも一脈通じ合うものがあると言えるかもしれない。

**ここに引いた声の断片が、ぼくが実際に耳で聞いたワルテル・ホンマ最後の語りとなった・・・。







 
沖永良部島の旅からもどると、闘病中の父が逝った。父の葬儀を済ませると、今度は母が病に倒れ、日々の記憶を失いながら呆気なくこの世を去った。同じ年の冬、大阪のディアスポラ(民族離散)の哀愁ただよう路地の町で、みどり児が元気な産声をあげた。ぼくは、父親になった。
 こうした一連の出来事は、自分に限らず多くの人の身にも起こりうる、単なる人生の偶然にすぎない。とはいえやはり、世代から世代へ、死から生へ円を描くように循環しながら流れる何ものかの影を、ぼくがいやがうえにも、この頃から強く意識するようになった。
 
 大学を退学し研究所を辞した後も、カレン・ヤマシタとは、彼女が訪日するたびに東京近辺で会った。もう五、六年も前のことになるが、ブラジル日系人の世界へ旅立とうとするぼくをもっとも力強く応援してくれたのが、ほかならぬこのカレンだった。またぼくが勉学の道からドロップアウトしたとき、電子メイルのやりとりをつうじて深い理解を寄せてくれたのも彼女だった。ぼくにとってカレン・テイ・ヤマシタという人物は、もはや単なる翻訳者にとっての原作者以上の存在に変わりつつあった。海の向こう側にいる、頼りになる大きな姉のような存在だ。
 最初の出会いの日のことは、今もはっきりと覚えている。ぼくは、以前彼女が日本の愛知県に滞在し、客員教授として時おりレクチュアをおこなっていた大学の生徒だった。自分の通う学校に、愛読する作家が教えに来ていることを知ったぼくは、早速そのクラスを訪ねることにした。大学中央の研究棟のエレベーターに乗り込むと、何と偶然作家本人に出くわした。ぼくは思い切って、下手な英語で自己紹介をしてみた。彼女はぼくのことばにやさしくうなずいて、一瞬間をおいた後、こう質問をしてきた。

 「インタビューのことを、日本語では何と言うの?」

 当時のカレンは、名古屋近郊を拠点に列島各地を旅しながらブラジル人の集住地を訪ね、後に『サークルKはめぐる』と題される多言語紀行と短編小説集の執筆のために、出稼ぎの人びとを相手に根気よく取材をつづけていたから、ふとそんなことが気になったのかもしれない。ぼくが、インタビューは日本語でもイ・ン・タ・ビューと言いますよ、と答えると、彼女はうれしそうに、ああ、カタカナ語ね! と機敏に応じた。ともかくこの日からふたりの交流の関係がはじまり、ぼくは時おりカレン・ヤマシタの研究室や、瀬戸市に借りた一軒家を訪ね、すると彼女は、小説『ぶらじる丸』の創作にまつわる数々の挿話や秘密、かつて彼女が何百人ものひとびとにインタビューをした南米の日系人コミューンに関する知識を、惜しみなくぼくに与えるのだった。

 最近のぼくらは、親子とか家族のことを話題にする機会が多い。
 
 ワルテル・ホンマは、ある時ぼくにこう語ったことがある。「言わば、カレンははぼくの長女、ヴァレリアはぼくの次女、それからアンタは末っ子の息子だ」と。カレンの言うように、それはぼくに対する最後の遺言だったのかもしれない。血のつながった子どもでも、新生農場の若い仲間の共同員でも、かれの話を真剣に聴くものが年々農場から消え、しかし今度は放浪癖のある学生だったぼくらが次から次へとあらわれ、奥地に暮らす移民の知恵に何か大切なことを学ぼうと、文字通り夜更けまで、時には夜空が白みはじめるまでその問わず語りの声に耳をかたむけることに若い情熱を注いだ。この実の父ではない精神の父のもとで、ぼくらはそれぞれに第二の誕生を遂げたのだ。カレン・テイ・ヤマシタは約一〇年におよぶサンパウロの生活から合州国ロサンジェルスのふるさとにもどったあと作家になり、南米へのサウダージの気分につらぬかれた二冊の小説『熱帯雨林の彼方へ』(邦訳は白水社刊)と『ぶらじる丸』を発表し、すばらしい成功をおさめた。カレンがおこなった聞き書きのフィールドワークをひきつぐように、ヴァレリア・ジ・マルコスというアナーキストの学生が後に新生農場に二年ほど暮らし、日系人コミューンの政治経済の仕組みに関する浩瀚な学位論文を大学に提出し、さまざまな社会運動に実践的に関わりながら、イタリア留学を経て最近ブラジルの田舎の大学で教師になった。ぼくはといえば、ブラジルから帰国したあともあいかわらずの放蕩息子ぶりで、いまだに何者にもなれない出来の悪い末っ子にすぎない。
 それはともかく、カレンとヴァレリアとぼくは、ワルテル・ホンマという第二の父をつうじて、血を分けることのないかわりにひとつのおなじ知恵の声を分かち合う姉弟の関係になった。それならば、ぼくらにとって、精神の母、第二の母とは誰だろう?

 二〇〇六年十月、カレンがふたたび来日し、東京の大学でいくつか講演や朗読会をおこなった。ふたりの共通の語り部の師への追悼の想いを捧げた、『ぶらじる丸』『サークルKはめぐる』の英=日=葡多言語朗読会をひらき、ぼくが日本語テクストを代読したりもした。環太平洋世界の戦争の記憶とアジア系アメリカ人の社会運動を題材とする最新作の執筆準備のために今回日本を訪れた彼女は、台湾、韓国をまわり、東京滞在をおえると、今年九十一歳になる日系人二世の母親をアメリカ西海岸から呼び寄せ、沖縄の国道58号線から沖永良部島へと、琉球弧を精力的に北上する旅に出発した。ぼくも自分の家族を連れ、その旅に一部同行した。
 ぼくはカレンの母あさこさんの腕をとって、快活なダイアレクトが飛び交う横浜の中華街や那覇の国際通りの近辺を案内した。あさこさんは、その年齢に見合わないほどしっかりした足どりで道を歩き、中華料理だろうがブラジル料理だろうが何でもよく食べ、かつて教師だったことをしのばせる折り目正しい丁寧な英語を話すのだが、時おり町の風景の印象に何かを思い出したように立ち止まり、やせ細った胸を小さく膨らませ、「そう、そうね」と日本語のつぶやきを溜め息とともに漏らすのが、かたわらをゆくぼくの耳に、なぜかすーっと染み入るのだった。ぼくは、あさこさんのいつもおだやかな笑みを絶やさない表情に、自分の実の母親がとうとう達しえなかった老境を、ひそかに想った。
 日系カリフォルニアの、聖なる媼(おうな)。その小柄なからだのなかにひとつの世紀にも匹敵する無数の時間を充満させ、「いま」を生きながら、ぼくら世俗の人間には推し量りようのない始源の夢見の時空に人知れず歩を進める、あさこさん。彼女とカレンとの関係は、側でみていて不思議なほど親密な、自由な空気を堪えていた。それは実の母と娘の生々しい愛情の関係というよりも、年上の叔母と姪のからっとした友情のようなものに近かったと言えるかもしれない。おそらく作家カレン・テイ・ヤマシタは、今回の島旅をつうじて、成人し家を離れた自分の娘と息子のこともふくめ、親と子、世代と世代、教え手と学び手との関係のあり方を、心の襞をまた一段折り畳むように、しずかに振り返ろうとしていたのだと思う。





10
「旅のノート断章W」

 新生農場にもどると、ワルテル老人が数十年の間つましい生活を送ってきた小部屋に、妻のヨシコさんの招待ではじめて案内された。ひとりの旅人の人生が終息した、最後の部屋。湿った土の匂いのこもる、薄暗い室内には、清潔なシーツの敷かれた粗末な寝台と、小さな文机、椅子が、かれの生前そのままに配置されていた。寝台の脇の壁には手製の棚がしつらえられ、武者小路実篤の『空想先生』のふるびた単行本と、ぼくが以前かれに贈ったH・D・ソロー『森の生活』の文庫本の二冊をのぞけば、十冊ほどのポルトガル語の書籍がひっそりとならべてあるだけで、しかし表題をみればいかにもこの老移民の、土地土地を自在に渡り歩く想像力の宇宙を象徴するようで、J・ミッチェナー著『サヨナラ』『ハワイへの北西風』といった翻訳ものの大衆小説、熱帯有用植物の事典・図鑑類が数冊、『ブラジル史を創造した人びと』『プラハ闘争』など読み物ふうの歴史書、日系女性の書いたマニュアル『ヨガと健康』、それにかれの親友であるUSP教授、アリオバウド・ジ・オリヴェイラによるマルクス主義的ブラジル農村地理学の小著が刺戟的にとなりあって、何枚かの手紙や新聞の切り抜きが無造作にしまわれていた。
 そして小さな文机の上には、ブラジルの全国紙O Estado de Sao Pauloの十二月六日付け国際時事欄、「アメリカの同一性(アイデンティティ)の精神を具現する二本の尖塔」と題された、崩落間際のWTCの写真が掲載された特集記事が、中断された時の残した不気味に沈黙する予兆の気配だけを辺りにただよわせ、しかし何ごとかを声高に主張することもなく、冷たくなって打ちひろげられていた・・・

二〇〇三年二月一日、新生農場
(Guaracai, Sao Paulo)

 ***

 語り部の古老が消えた意識の風景に何が残されたのかを思ったとき、WALTELの木、ということばのイメージが、ふと脳裏に浮かんだ――そう、ぼくは、ぼく自身の聖なる魂の畠の隈に、この目に見えないちいさな、しずかなWALTELの木を、二本植よう。それこそが、未来へと伸びるぼくの鎮魂の意志だ・・・

二〇〇三年二月二日、新生農場
(Guaracai, Sao Paulo)










死者の道、〈マラメイペテル〉は、この世に生あるものの夢のなかに、あらわれる。こうした道を、呪術師とその弟子は、イニシエーションや、この世の人間を治癒するために旅するあいだ、しかと踏みしめるように歩く。死の間際にいる病人は、この宿命の道へといずれ導かれることになろう・・・亡者の道たる〈マラメイペテル〉の先、つまり精霊ゴアネイの水の王国、精霊ゴアレイに属する天空の王国・・・旅は、パロプの家郷にたどり着くために、川を渡ったあとに、いよいよ終わりを迎えるだろう。岸辺には、小舟のような形をした渡しの乗り物がある。――スルイ族の呪術師イタバラとディクボラ





11
 カレン・テイ・ヤマシタの小説作品『ぶらじる丸』についてまっこうから論じるには、まだぼく自身の頭の整理がついていない。というよりも、ぼくはこの小説を、机上で文学批評的に読むという態度から最も遠い水準で、十年来翻訳しつつ、読書という名の個人的な旅をつづけてきたのだった。だがそうだとしても、一見ノンフィクション的な歴史小説の体裁をとりながら、『ぶらじる丸』が単なる実話の改作や脚色にとどまらない不思議な魅力を持つのは、断片的で流動的な記憶の語りを文学言語に汲み取り、それらをふたたび一つの物語として纏めあげてゆくときのそのユニークな話法(ナラティウヴ)にある、とだけはとりあえず言っておこう。
 この小説のなかでは、性格と年齢と性別、あるいは世代や言語も異にする五人の語り手が、エスペランサという移住地で過去に起こった出来事を次々と回想し、告白することで物語が前進する。作家はみずからの作品を特徴づけるこうした多声性を、「羅生門」的方法論(芥川の「薮の中」と黒沢映画にならった表現手法)と呼ぶのだが、だからここでは、歴史学的なリアリズムよりも、むしろ世代を通じて語り継がれる歴史や記憶のもつ本質的な揺らぎや曖昧さを受けとめる、マジカルで寓意的な語りの戦略のほうに、むしろ表現としての可能性の道が見出される。時に豊かに響き合い、時に激しくぶつかり合う、複数の伸縮自在な追憶される時の風景、つまり日系移民と二世による虚実入り乱れる証言ならぬ証言として、この物語は、直線的な歴史語りの道筋をいつしか逸脱し、読む者のより自由な想像力を刺戟する。
 それが歴史的事実かどうかを実証するかことはできないが、確かにそうだった、としか語りえない、「いま、ここ」における語り手の頭脳のなかのリアリティをひとつまたひとつとめぐり歩きつつ、しだいに読者は――たとえばガルシア=マルケス『百年の孤独』の舞台「マコンド」の地がそうだったように――人間の出来事の歴史の背後で、夢の蜃気楼のようにゆらめくエスペランサの大地的無時間の生命そのものが、そこをさすらう数人の声を借りてみずからの孤独の伝記を語ろうとする気配にも気づくだろう。  
 たとえば、つぎのような喚起的な場面が、それだ。

 エスペランサへの入植から十年後、宇野カンタローをはじめとする青年達が、養鶏農業を基盤とした実験的コミューン建設のため、あらたな原始林開拓に汗を流す間、インディオの墓らしき塚の跡を発見する。年上の開拓青年らの背中をまぶしそうに見守る寺田イチローは、同船の日本人アマチュア考古学者による発掘作業を手伝うことになった。少年の純朴な好奇心は、いつしか人類の長大な移動の歴史へのファンタスティックな夢想へと接ぎ木される。結局この塚の遺跡は熱帯の大雨に流されてしまうのだが、イチローはその考古学者が発掘に成功し、展示用の小屋に並べられたインディオの遺物のコレクションを眺めながら、自分たちがはるばる移住したこの森の大地の静けさのなかに、じつはアジア・ユーラシア大陸からベーリング海峡を渡り、はるか南米の地へたどり着いた先住民の長大な歩行の記憶が木霊していたことに、深く感動する。足元にぽっかり口を開く時の深淵を覗き見て、言葉にならない畏怖と憧憬の感情を抱く少年のこころに、ひとつの予兆のような光景が、ふと浮かぶのだった――

 「ぼくは、いつか自分が墓のなかに静かに眠る太古の祖先となった時、インディオの残したこれらの遺物のように、一体自分の何が未来へと残されるのかと、不思議に想うのだった。はたして、ぼくの骨は発掘されるのだろうか? ぼくの頭蓋骨は、展示されるのだろうか? そして、ぼくの物語は未来に語り継がれるのだろうか?」。  
 
 あるいはもう一人別の語り手=登場人物、エスペランサ生まれの日系二世で狂気の画家でもあるゲンジ。ボリビア国境地帯で乗り合わせたセスナ機が事故で墜落した後も、何かに取り憑かれたようにして紙片にデッサンを描きながら、ジャングルでひとりしぶとく生き延びる。例の日本人マチュア考古学者が、マットグロッソ州奥地での調査行の途上で、森のインディオの部族のあいだで、下手くそな日本語の署名の記された、奇妙な絵が保管されているのを偶然発見する。「ゲンジが生きている・・・」。食料品を掠めようと近隣の町に時々出没して意味不明の言語をわめく、「失われた部族のインディオ」の噂も周辺の町に流れだすのだが、ある日ジャングルで、ゲンジらしき黒々とした長髪を肩に垂らす痩せ細ったモンゴロイドの青年の姿が、銃殺体として発見されることを伝える新聞記事の引用で、この小説は物語の幕を閉じていたはずだった・・・。
 
 ほぼ百年前に始まった日本からのブラジル移民というポスト国家的な人びとの命運を突き動かした皮相な歴史の波が、数千年、数万年に及ぶインディオの渡りの旅程が宿す、国家以前の神話的な時の汀に回帰するように、南米の大地に打ち寄せる。『ぶらじる丸』で語られる近代移民集団の歴史の地下水脈に、通奏低音のように鳴り響く、死せる土着の旅人達の声にならぬ声。時おり物語世界の表面に甦るかれら死者の曖昧な面影が、作品の幾つかの挿話と人物像に重なり合いながら刺戟的な時間の混乱をうみ、歴史における集合的な記憶と忘却、人間の誕生と死の連鎖をたどり、時空を貫いて移動し放浪する記憶の声達が一堂に会し、あらたな対話をはじめる。
 小説全体が発する「移民文学」としてのより直裁的なメッセージ性からすると、これはすこし些末な問題意識かもしれない。単なる深読みかもしれない。けれどもそのような旅する声の転位と回帰と結ぼれの運動に、ぼくは最も強く『ぶらじる丸』という作品のフィクションとしての可能性と魅力を直観する。
 
 ワルテル・ホンマをふくめた、おもにアリアンサ移住地や弓場・新生農場に暮らす大勢の日系人に対するインタビュー調査を通じ、さまざまな移動の来歴のヴァージョンがみずからの声で語りだすのを、カレン・テイ・ヤマシタの耳と手が記憶し、それら語りの集合体は、最終的に『ぶらじる丸』という、架空の移住地をめぐる歴史のナラティヴとして組み立てられ、小説という表現ジャンルで再話された。
 そして作家が、一度は去ったそのフィールドに、翻訳者の青年を連れて帰還する。フィクションの物語は、発表からおよそ十年の時間を経てふたたび、ワルテル・ホンマの語り部としての生身の身体に贈り返され、その声との新鮮な響き合いをうみだした――たとえば、先ほど少し触れたブラジル日系人の移民史と南米先住民の環太平洋的移動の交差というこの小説の無意識に潜在するテーマが、晩年のワルテル老人自身によるインディオの部族を訪ねる旅をめぐる語りのなかに、ぼくという聴き手をえてふたたび肉声として結晶化するという興味深い出来事も起こった。『ぶらじる丸』執筆の時点で、カレンはこの話を聞いていない。
 九〇年代の中頃、ワルテル・ホンマは南マットグロッソ州のカンポグランジ市から、「開発」の悪名名高いBR=三六四号線をたどってはるばるアマゾンの密林を訪ねる旅に出た。サンパウロ大学で教えるかたわら、ブラジルの土地なし農民運動に関わるアクティヴィストの人文地理学者で、しばしば野外実習の学生を引率して新生農場を訪ねたことがあったかれの長年来の友人が、それまで百姓一筋で旅行らしい旅行をしたことのなかったワルテル老人をこの旅に連れ出した。年々ひとが少なくなる協同農場の仕事もだいぶ暇になり、一度外の世界をみるのもいいだろうと思い立ち、かれは同行することにした。
 それは、少年時代にサントスの港に停泊する移民船からそびえ立つ緑の大地を目撃した時以来の鮮烈な印象を、ワルテル・ホンマの脳裏に刻むことになった。かれは、自分の知らない第二のブラジルと出会ったのだった。
 帰路、旅の一行は、インディオのスルイ族の集落を偶然訪問することになった。スルイ族とは、ブラジル北西部ロンドニア州の森林地帯、セッチ・デ・セテンブロ保護区に居住し、言語的にはトゥピ=モンデ語派に属する部族で、みずからのことを「人」を意味するパイテルと自称する先住民だ。ワルテル・ホンマらは、そこで部族の首長から、貴重な品々を大量に贈られる盛大な異人歓待の儀礼を受けた。かれは、自分とよく似たかれらのモンゴロイド的な風貌以上に、その惜しみないすがすがしい贈与の精神に深く共感した。そして自分たちが数十年の日系人コミューンの生活のなかで培ってきた、キリスト教と社会主義の考え方に根ざす土地の恵みの共有と平等分配の精神が、何千年、何万年もの昔から、土着のインディオによってこの同じ大地で平然と生きられていたという事実に、驚嘆したのだった。最晩年のワルテル老人は、「人間が出現する以前から存在し、人間が消滅しても存在しつづけるに違いない世界に対して、謙虚と、節度と,分別を持ちなさいという教え」(C・レヴィ=ストロース)をこのスルイ族との出会いに学び、日々乳牛や農作物の世話をしながら、新生農場の暮らしの協同体的な仕組みと先住民の贈与論を結びつける思考実験を、たったひとりでつづけていた。そうすることでかれは、おそらくブラジルの野生の大地との最後の移り住みの契約を交わそうとしているように、ぼくには見えた。

 ・・・カレン・テイ・ヤマシタの旅、『ぶらじる丸』の旅、そしてワルテル・ホンマの旅。それぞれに固有の時間の濃度や色合いや速度をもち、時に合流し時に分岐するこれら三つの――作家と小説と語り部の――旅をめぐる物語の奔流に、次から次へと否応もなくのみこまれる自己の内面世界で、これから一体どのような心象の風景が出現することになるのか、じっと注視しつづけること。そしてそれを地図化するようにして転写し素描するに足る、みずからの旅する言語をすこしづつ鍛え上げること。亀の歩みのような、そうした測量技師的努力の道だけが、少なくともぼくにとっては、『ぶらじる丸』をめぐるもっとも充実した読み解き作業のエッセンスを意味していたのだと、今では思う。





12
 
沖縄の那覇では、カレン・ヤマシタと今福龍太とぼくとの三人が移動と移動のはざまに集合し、『ぶらじる丸』の日本語訳の出版のための最終的な話し合いが行われた。共訳者の今福龍太は、ぼくが数ヶ月前にかれに手渡した翻訳草稿に寸分の隙間もなく、びっしりと赤を入れてきた。この真っ赤に染まった原稿をみて、さすがにカレンも舌を巻いていた。言うまでもなくこの修正の赤の多さは、ぼくの英語運用能力と日本語表現力の貧しさに起因する。しかしそれ以上に、今回今福龍太は、作者の許可を得て『ぶらじる丸』の英語原文の細部へとふみこみ、ナラティヴの前後関係に照らし合わせて表現としてやや曖昧な点、近代の日本史や移民史の時代考証的な事実に関してより正確を期すべき点を、じつに精緻に検証してきたのだった。
 したがって今回世に問われる『ぶらじる丸』の訳書は、日本での出版にあたってカレンが特別に執筆したボーナストラックの一章も含め、著訳者が共同で制作した新装改訂の日本語オリジナル版とも表現しうる書物だと言えるかもしれない。
 カレン・テイ・ヤマシタが、ポルトガル語と日本語による南米移民相手の聞き書きの旅をもとに、およそ五回、書きなおしに書きなおしを重ねて英語で創作した『ぶらじる丸』という小説作品を、作品の舞台の背景をなす日系ブラジル世界(Nipo-Brasilandia)を再度遍歴する取材をしながら、ぼくがともかく数年がかりで日本語に移し替え、その日本語版の草稿をもとに、ぼくらと新生農場というおなじフィールドを共有しもする今福龍太が、批評とポエジーの鑿をふるって文を彫刻する改訂作業をおこなう・・・。だからこの真っ赤に染まった『ぶらじる丸』の原稿は、何語によるものであれ、それが作家カレン・テイ・ヤマシタに帰属する作品だということは間違いないのだが、どこかで著者も翻訳者も改訂者も求心的で絶対的な声のオーソリティを放擲することで、最終的に「作者の死」の地平にたどり着いた、はるかな言語の旅路を内に秘める声のテクストのようにも感じられた。そして今、浮遊する幽霊船を思わせるこの声は、さまざまな媒介者の耳と手の連絡を迂回し、それがもともと最初に語られたのとおなじ言語環境のもとに、ただし別の時代と別の場所に生きる日本語の汀に、海の「ゆりむん(寄りもの=漂着する贈与物)」として回帰しようとしているのだろうか・・・。

 カレン・ヤマシタと今福龍太らはその後、沖縄の国道58号線を本島最北端の岬まで車で疾走する旅に出発した。けれどもぼくは、那覇に来る前に立ち寄った久高島で子どもが高熱を出したこともあり、今回は妻にこの旅の目撃者になってもらうことにして宿で留守番をすることにした。午後九時、およそ一二時間におよぶ、境界の島を来襲した歴史の暴風のつめ痕を探る道行きのドライブからもどると、かれらは翌日またあわただしく沖永良部島に渡り、そこからカレンと彼女の母は、東京を経由してカリフォルニアにもどるという。数日後、ぼくは、家族とともに内地の寄寓先に帰るだろう。
 しばしの別れの時が来た。かれらが旅立とうとするあの島の忘れられた海岸には、ぼくの心の「トフル墓」がある。トフル墓とは、島のことばで、森の山や海岸にある横穴の洞窟にしつらえられた風葬地跡、今も整然とご先祖様の白骨がまぶしく並ぶ死者の家のことだ。そこには、ワルテル・ホンマの灰色の魂が、さらなる出立の時を待機しながら、やすらっていることだろう。今福龍太と、かれが群島渡りの旅にかならず持ち運ぶ三味線のケースにしのばせる、あの『ぶらじる丸』の翻訳原稿の束とともに、カレンとあさこさんは、明日の朝早く那覇の港を出航する。無き父の墓前を訪ねる、母と姉のことを見送るような気分にぼくは浸った。人通りの少ない夜の国際通りの裏手の路上で、瞳にうっすらと涙を浮かべるカレンのからだをしっかりだきしめ、あさこさんの両手をやさしく握った。その手はおどろくほどやわらかかった。けれどもその感触は、サンパウロ奥地の新生農場に今も暮らすヨシコさんの農婦の手の堅さとも、死の瞬間までさすりつづけた無言の母の手の冷たさとも、不思議とまっすぐにつうじていた。

 歩み去る彼女らの後ろ姿とともに、ぼくは、ぼくという岸辺から離れようとする、誰のものでもないひとつの声を、懐かしい未来の家へと送り出した。


「灰色歩行」

棚雲りの天蓋の下に
声の渡る道を歩くように

垂れこめる
この水繭の内側にたわむ
光りの声だけの渡る道を
歩くように――

ぼくらは露地の角から見送った

岬から岬へ 

KAREN・TEI・さん あたらしい 結ぼれの旅をはじめた あなたに 年老いた母 (あさこ、おばさん?) を連れ 鎮魂を ふたつ 北の島 沖永良部に渡航する あなたに 海辺の墓地の奥の阿檀の林の いしょ道の洞(パサージュ)を浜に下れば あなたの父 年老いた あなたの母 (あさこ、おばさん?) の亡き夫の歌の場所に あなたとぼくらの師父も 砂に蛇行する細い流れの先の 薄明の珊瑚板に腰かけ おだやかな 少し、虹彩の薄い 灰色に潤む瞳の眼差しの内部に 三十三年目の時を待機する 無人の 干瀬の能舞台が きっとありますから、

だから今ここで
希いの耳を澄ませる
意志の二世らは
ことばよりも早く
それぞれの緯度を
地図に置き去りに出発し

ひやるがあーよいさー、とーよいーさー、とーとー

流れの交わる河のほとり

忘れられた木の根元に

歌とともに

さあ、ぶらじる丸よ

さあ、時刻の南風よ

出自を知らない詩のみを低く轟かせる 海峡の裏航路を 吹き流れる世代から世代への旅の撚り糸に あらたな百年の色を繋ぎなおす 母娘の 繊細な指先の 幽かな 心の潮騒ぎの環に

消尽の旅の第四日目
所有なき
夜明けの嘆息を
うしろの岬から
ぼくはひそかに重ね

虎が死んだ後は、その皮が、人の死後には名が遺されると言われている。人の名とは何だろうか、彼の河床、それとも水なのか?**

明日になれば
寡黙のあゆみは
ふたたび声の貝殻拾いに
露地に隠れる
別のリズムの浜へと
出発するだろう

棚雲りの天蓋の下に
追慕する歩行がやみ 
巨人の孤独のような波の教訓を 
感情と感情のしじま 
雨の一日の最後 
温もりを喪いかけたこの掌にすくう

世紀の響きの海の名(エテロニモ)を 
干瀬の突端で忘れるために

声送りの日記――

二〇〇六年十一月二十七日、沖縄・那覇

*沖之永良部島の孤高の「じゅーて」(地謡い)、福山利明翁がつたえる、特別な呪謡の一節。このひとを三絃の師とあおぐ今福龍太が主宰する奄美自由大学の、第二回(二〇〇三年)野外劇「南海のオルフェウス」は、島内外の参加者が、この「じゅーて」の師弟による魂唄(たまうた)にみちびかれ、瀬利覚の泉(ホー)から浜への閾(マタ)を越える音の巡礼路を下るところから始まった。詞の意味は、「魂よ、空に舞って、飛んでゆきなさい」。

**A・ソクーロフ「撮影日記」(『ドルチェ――優しく』岩波書店、二〇〇一年、児島宏子訳)、(五十九頁)。A・ソクーロフ監督の映像詩作品『ドルチェ―優しく』の撮影過程では奄美での案内役をつとめ、みずからは群島の生命に息衝く深い陰翳を主題にした二重露光作品を制作する異形の島の写真家、濱田康作さんの「野性の水の目」をかりるような、引用の試み。そう、写真家が光りの時のおとずれを待機するのは、おそらくこういう「死ノ河床」だった・・・。Gallery Maki連続企画「論証:群島のアート考古学『時間の灰 Cinza das horas:濱田康作共鳴体』」(映像インスタレーション、二〇〇六年七月十一日〜七月二十九日)に際し、ぼくの無意識の即興は、この一文を展覧会パンフレットに掲載する短いテキスト集のために、まず最初に抽出した。






他の響き――影響を受けたテクスト・映像作品の一覧

宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫、一九八四年)。

今福龍太『荒野のロマネスク』(岩波現代文庫、二〇〇一年[原著は、一九八九年])
今福龍太「消去のアート・内部への旅」(『移動溶液』、新書館、一九九八年)
Ryuta Imafuku, O Espirito do Nosso Tempo, Video, 2002.

カレン・テイ・ヤマシタ『ぶらじる丸』(みすず書房、近刊、今福龍太・淺野卓夫訳)
カレン・テイ・ヤマシタ「旅する声」(今福龍太編『「私」の探求』、岩波書店、二〇〇二年、今福龍太・淺野卓夫訳)
Karen Tei Yamashita, Copa do Dekassegui, “Index on Censorship”, 2002.

Valeria de Marcos, Comunidade Sinsei: (U)topia e Territorialidade, Dissertacao de Mestrado apresenta no curso de Pos-Graduacao em Geografia Humana da USP, 1996.

Betty Mindlin, Nos Paiter: os Suruí de Rondonia, Vozes, 1985.

吉増剛造・今福龍太『アーキペラゴ:千々石Islands』(岩波書店、二〇〇六年)