今福龍太 | |||||||||
心と書いてウラと読む。心悲しい、心淋しい、心思い、というときのウラは、意識の内奥、すなわち表に見えない心中の微妙な機微にかかわる音=ことばである。「心安」(ウラヤス)とは、心中安らかな、という意で万葉集にも見える用法であるが、地名ではこれを「浦安」と書く。ウラという音をなかだちに、心は浦に通じる。
この浦=ウラは、日本の海岸部に特有の深い入り江のことで、古来よりリアス式沿岸部の村々の地名にはしばしば「浦」が付く。今年九月で没後百周年を迎えるラフカディオ・ハーンは、山陰は加賀(かか)の潜戸(くけど)を小舟で訪ねた名エッセイ「子供たちの死霊の岩屋で」の冒頭で、通りがかった御津浦(みつうら)という小邑の様子を「山を背にして高い断崖に取り囲まれた、小さな入り江の奥にある村である。崖の下に幅狭い浜がわずかに開けていて、そのおかげでこの村も存在しているのだ」と書いたが、浦という地形の景観学的な定義として簡潔でつけ加えることがない。 私の心が、このところ私に「浦巡り」を誘いかける。たとえば、奄美群島、加計呂麻島の浦浦。呑ノ浦、知ノ浦、三浦。あるいは天草下島の久玉浦、亀浦、浦越浦。表(外海)には見えない入り江の内奥部で、浦=心が人間の意識と行動を律してきたその理(ことわり)を考える「裏の旅」でもある。そもそも、少年の私が泳ぎを初めて覚えたのは、三浦半島田浦に近い小さな明るい入り江だった。塩辛い海水を必死で掻きながら、私は最初の浦旅に出ようとしていたのだ。 * 奄美、加計呂麻島の呑ノ浦(ぬんみゅら、と島人は発音する)は、浦浦が果てしなくつづく大島海峡沿岸のなかでもとりわけ奥深く、内に折れ釘のように曲がった細長い入り江である。いまだに不思議にくすんだ群青色の水を湛えて、戦時中にここに震洋特攻隊基地が置かれていた記憶を静かに分泌している。のちの作家島尾敏雄が若き隊長としてここに赴任したことはよく知られている。外洋を巡る敵艦へと絶望的な突進をはかるために準備された張りぼてのような小艇は、表側からの目を遮断するこうした深い浦浦の深奥部に隠されていた。そして多くのボートは待機命令を受けて宙づり状態に置かれたまま、敗戦を迎えることになった。 |
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初出:「朝日新聞」(夕刊)2004年9月6日〜8日 | |||||||||