■新書という小冊子ながら、著者があとがきで構想から2年間かけて執筆してきたと振り返る書物を、ほとんど動かぬ姿勢のままわずか数時間のうちに読み終えるという読書経験そのものについて、どうしても自らに問いかけざるを得ない意識が働く。しかも、その書物が、20世紀という百年を、すなわち一個人の生命の時間を凌駕する「歴史」を扱っており、しかもその20世紀の「戦争」という、個人の日常の時間を超え、通常の想像力のはるかに及ばない、人間と物質との臨界に広がる極限の経験を扱っているとするなら、その思いはなおさらである。一世紀の歴史を思考しうる言葉を慎重に選びとり、戦争を思想の問題として語りうる枠組みを練り上げ、おそらくは著者(1928年生まれ)個人の私的記憶とのあいだで無数の認識的調停の作業を経たあとでついに書かれえたのであろうこれらの記述を前にして、私は数時間の読書によって自分が何を受け取り、何を著者に投げ返しうるのかを真摯に問わずにすますことができなかったのである。
書物とは、多木浩二の新著『戦争論』(岩波新書)である。まず文字通りの「戦争論」として、本書の記述は、近代以降の戦争がいかにして生じ、遂行され、そこに歴史と政治と経済と人間性の問題がどのように介入し、反映されてきたのかを、具体的事例に則しながら数多の鋭敏かつ深遠な議論によって見事に浮き彫りにする。近代の国民国家が戦争を予定されたものとして組み込んで成立したこと。徴兵制度が選挙制度とほぼ並行してはじまっていることを取り上げて、国民の主権化があってはじめて戦争が国家において本質的な行為となるという鮮やかな指摘。これに対して維新後の日本が、天皇主権のままに国民皆兵制度を急ぐことによって主体化されえない奴隷としての身体を生み出し、これが構成する軍隊モデルが先行して国家形成が枠づけられていったという精緻な分析。さらにベンヤミンやフーコーの歴史哲学的な論考を創造的に読み込みながら、アウシュヴィッツ、ヒロシマ・ナガサキのような極限のジェノサイドの経験を論じ、さらにはより近年のカンボジア、ルワンダ、ボスニア、コソヴォ等における錯綜した「内戦」のメカニズムのなかに潜伏する捏造された人種主義の暴力を冷静に告発する・・・。
だがこうした論述を背後で支えている著者の一貫した姿勢は、ここで20世紀の戦争の歴史とメカニズムそのものを語るのではなく、むしろ戦争と暴力を論ずる「言説」の歴史を省察し尽くそうという強い信念であるだろう。戦争とは政治におけるのとは異なる手段をもってする政治の継続である、と論じた一九世紀のクラウゼヴィッツの『戦争論』が近代の戦争観を支配してきた言説史を根底的に批判し、個別の利害関係にもとづく政治と戦争の関係を断ち切って、「世界性」の相のもとに戦争を「歴史の現在を生きる」ためにこそ考え抜こうとする意思。このような、政治的言説の引力圏の外で書かれた「戦争論」を、私たちはおそらく歴史上はじめて手にしたのである。今年の、コソヴォでのNATOとユーゴの戦争をめぐる西欧の論調のなかに、バルカンを結局は「ヨーロッパ」という「想像の共同体」に繰り込もうとする暗黙の地政学的言説を読み取り、この戦争はそうした言説がむしろ作りだしたという指摘は、「戦争の言説」を歴史的に徹底して相対化・対象化せねば生まれえない、独創的で限りなく刺激的な視点である。
本書には、南京大虐殺や従軍慰安婦、あるいは天皇の戦争責任といった現在の日本の論壇をかまびすしくさせる問題も言及されてはいるが、それらの指摘が戦争や政治を超える思想の水準においてなされることによって、議論には思いもかけない清新な風が当たっている。この未知の風を導入するためにこそ、著者には長い執筆の時間が必要だったにちがいない。一世紀という時間。戦争が継続されてゆく皮相な時間の流れ。それを経験し記憶するときの瞬間や時間の経過。戦争に思いをいたす刹那の、停止した時の深淵・・・。本書がいやおうなく惹起するこれらのさまざまな「時」を受けとめて思考するために、私は何度も何度も本書を開き直し、数時間の読書の経験を反復するだろう。そうした日常のねばりづよい思考の積み重ねのなかから、著者が戦争の言説の彼方に見定めようとしている未来の「希望」を、いつか共有するために。
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上記のように「北海道新聞」の読書欄に書いた(10月4日付)。多木さんより著書の寄贈を受けた翌日である。一読後驚嘆し、再読後ある種の戦慄が走るのを押さえられなかった。同タイトルの書物(ならざる漫画本)が読書界の話題をなし、賛否両 論入り乱れて生真面目に過ぎる論壇までが過剰反応しながら、すべてが「政治的言説」の罠にとらえられているとき、このようなかたちで「戦争論」を問う方法と可能性が残されていたことに、なにより心打たれた。だがはたして今の若い世代に、このような「戦争」の提示の仕方に反応しうる感受性があるのだろうか。思考のもっとも端緒に立ち戻り、そのうえで最も厳しいサビ落としの苦境を経ないかぎり、戦争の言説を冷静に対象化して語るこが不可能だとすれば、社会への批判意識を全く欠落させたいまの一般の大学生にこうした書物がコミュニケーションの回路を持ちうるのか。私の疑問は深かった。多木さん本人に早速私の感動と問いとを伝えると、すぐにこんな手紙が来た。一部無断で引用することを多木さんにはお許し願いたい。氏はこう書かれている。
「この本は私としてはじめて普通の人間の日常性に語りかけ、そこに私が希望を置いた本です。そのことが、若い人たちに伝わっているようです。この本で私ははじめて絶望ではなく、希望を語り、しかもこれから人生を生きようとする若い人びとに、そのことが伝わるようにと願って書いたものでした。無名の若者の心にしみこんでほしいので す・・・」
私は打たれ、絶句した。日本の若者にたいする深い失望を語る個所すら唐突に出現するこの書物を書き終えて、なおも多木さんの希望がその「若者たち」に強く向けられているとは・・・。ナショナリズムの偽装的な煽動でもない、「日本人」の詭弁的再建の浪花節でもない、しかもそれに対する理論的正義や公的倫理の優等生的自己表明でもない、ただ人々の日常の思いと感情にむけた、生きつづけるための「願い」を伝達すること。そうしたミニマルで真裸の思考のもとでこの希有な「戦争論」が生まれたことを、私は1999年という年の最大の僥倖であると感じたのだった。
今福龍太 Ryuta Imafuku October, 1999■
希望と憧れを色に託した最高の映像作品として、ブラジルの写真家ミゲル・リオ・ブランコの"Dialogues with Amau"以外の作品を知らない。壁の薔薇色になかば溶け込みながら毅然とポーズをとるゴロティレ族のインディオAmauの羞恥と憧憬の表情を見ていると、少年少女たちの未知の未来が希望を含んでいることを私は信じられる。今月のこのページを薔薇色で演出した理由である。
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