今福 龍太 シェイクスピアと"Americas" 7  
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一九三○年、ソンの交響

 

 わたしはヨルバ、ヨルバ語で泣く
 ルクミ語で。
 わたしはキューバに生まれたヨルバだから、
 このヨルバの叫びがキューバに響きわたることを願う、
 わたしのなかからほとばしりでる、
 このヨルバの歓喜に満ちた叫びが。

 わたしはヨルバ、
 歌いながらゆく、
 泣きながら、
 もしわたしがヨルバでなければ、
 わたしはコンゴ、マンディンガ、カラバリ。
 ・・・・・・・
 遠い昔からわたしたちは一緒だった、 
 若い者も年寄りも、
 黒人も白人も、すべての混血児も
 (ニコラス・ギリェン「ソン 第6番」)

 ソン(Son)という、キューバ文化の混血性を象徴する音楽/舞踊形式のリズム、抑揚、そしてそのトータルな身体的・音声的アンビエンスを言語形式に移植することによって、文学表現としてのソンを確立した特筆すべき黒人詩人が、ニコラス・ギリェン(1902-1989)である。右に引用した「ソン 第6番」のなかほど、「わたしはヨルバ(Yoruba soy)/歌いながらゆく(Cantando voy)/泣きながら(Llolando estoy)」といった部分のリズミカルな脚韻にもっとも典型的に示されているように、ギリェンの<詩によるソン>(poemas-son)とは、キューバ人がソンという音楽形式のなかに見いだすもっとも凝縮された混淆文化的な自己意識を、スペイン語を主体とした文学伝統の形式のなかに奇蹟的に憑依させたともいうべき、まったく新しい韻律的な<混血黒人詩>(Poema mulato)であった。
 「ソン 第6番」では、ヨルバというアフリカの一部族的出自にたいする自己意識は、そのキューバにおける同義語たるルクミへと、そして部族的同一性を超越して、コンゴ、マンディンガ、カラバリ族へと浮遊し、ついには黒人も白人も混血(ムラート)もがともに帰属する、ある共同意識の地平へと接続されてゆく。そしてこうした汎人種的な共同意識を宣揚する二○世紀におけるはじめてともいうべき言語表現が行われた舞台が、キューバにおけるスペイン語という環境であった事実に私たちは注目すべきであろう。同時代のキューバにおける作家や詩人のなかで、ある意味で誰よりもスペインの文学伝統に深く学んだギリェンが、その「主人の言葉」(=スペイン語)によって、スペイン的文化伝統から離脱してアフリカを体内に宿した混血「キューバ」を語り直す、という言語実践は、カリブ的文脈において、見事に、プロスペロの言語教育に罵倒をもって反旗を翻すキャリバンの身振りをダイナミックに反復する。その意味で、ギリェンの創造した<詩によるソン>は植民地の奴隷の末裔たる混血児たちによる「言語的トランスカルチュレイション」の、もっとも鮮明な事例であると考えられるのである。
 ギリェンが、ソンという形式を媒介にして混血黒人詩のリズムを発見する瞬間は、まさに突然彼のもとに褐色の女神が降誕するかのようにもたらされた。それが一九三○年に書かれた連作詩「ソンのモティーフ」(Motivos de Son)である。この八編の詩(のちに三編が加えられて翌三一年刊行の詩集『ソンゴロ・コソンゴ』に収録された)は、たった一日の、熱にうなされたかのような半憑依状態で書きとめられたものであったが、その熱を生み出した、前夜の幻覚的な体験についてギリェンはこう興味深く回想している。
 一九三○年四月のある夜、わたしはもう寝床についていて、覚醒と夢のあいだに引かれた曖昧な一線を、うとうととしながら行き来していた。そのとき、どこかから声が立ち上がった。そしてわたしの耳元に向けて、精妙ではっきりとした声で、こんな二つの言葉を告げたのである---「ネグロ ベンボン」。あれはなんだったのか? もちろん、その声に満足な答えを返すこともできず、わたしは眠られぬ一夜を過ごした。独特のリズムによって特徴づけられたこの一節は、わたしにとってまったく未知のもので、声は夜のあいだじゅうわたしのまわりをぐるぐると徘徊して歩き、どんどん強烈で横柄な態度になっていった。「ネグロ ベンボン、ネグロ ベンボン、ネグロ ベンボン・・・」朝早く起き出したわたしはすぐに机に向かった。すでに知っていたなにかを突然思い出したように、わたしは一気に詩の一編を書き上げた。そこではあの夢のなかの声が、詩の全体の構造を補うように繰り返し登場した。

 どうしてそんなに怒るんだい
 おまえをネグロ ベンボンって呼んだからって、
 そのお人好しの唇がついていりゃ、
 やっぱりネグロ ベンボンだろ?
 ・・・・・
 まだ怒ってるのかい ネグロ ベンボン。
 べたべたしないよう、粉まみれになって ネグロ ベンボン。
 真っ白な太綾織りの綿の服(「綿の服」にルビ:マハグア)を着て ネグロ ベンボン。
 濃淡二色の靴を履いて ネグロ ベンボン。
 ・・・・・
わたしは書きつづけた。一日中机に向かって。自分が発見したものの大きさを感じながら。午後にはすでに一握りの詩を書き上げていた。八編か、十編あったろうか。漠然とした直感にうながされて、わたしはこれらの作品に「ソンのモティーフ」と表題をつけた・・・
(Samuel Feijoo, El son cubano: poesia general, pp.296-7)

 淡々とした回想にも読めるが、これはある意味で二○世紀のアメリカスに起こった一つの重大な文学的事件として記憶せねばならない、特別のできごとであった。なぜならば、「混血黒人詩」という自覚的な言語表現が、まさにこの瞬間、ギリェンによってかたちを与えられようとしていたからである。ギリェンの詩法は、キューバの、ひいてはカリブ海クレオール社会全体の現実を言葉によって受け止める、まったく新しい言語的方法論をきりひらいた。何ものかがのりうつったかのように、ギリェンは「ネグロ ベンボン」(字義的には「厚い唇の黒人」を意味するキューバ風スペイン語の日常表現)という啓示のように到来した日常語を、詩的言語へと置換する通路を発見する。だから、ギリェンにとっての未知は言葉そのものにあるのではなく、街路にあふれる人種主義的で性的な含意をもったヴァナキュラーな言葉が、軽快で輝かしい美と批判力を備えた「詩の言葉」として再生する、その不思議なプロセスにあったというべきだろう。そしてこの置換のプロセスこそが、言語に起こるトランスカルチュレイションが作動する局面であった。
 カリブ海文学・芸術表現におけるネグリスモ(黒人主義)の系譜を文学史的にたどることはここでの目的ではないが、ギリェンに先行して自覚的な黒人詩の探求や黒人芸術の創造を進めていたカリブ海の黒人作家・アーティストの先駆者がいなかったわけではない。キューバのアルフォンソ・カミンやプエルト・リコのルイス・パレス・マトス、さらにジャマイカからニューヨークのハーレム・ルネッサンスへと参入したクロード・マッケイといった詩人たちの作品は、たしかにアフロ・アメリカ、アフロ・カリビアンの文化生成への自覚に立って生み出された先駆的な「黒人詩」を指向していた。しかし誰も、ギリェンのようなセンセーショナルなヴァナキュラー言語をもって、黒人詩の美と抑揚と批評意識とをひと思いに創造しえた詩人はいなかった。
 一九三○年四月、ネグリスモの中心的な機関誌となりつつあった、キューバの新聞「ディアリオ・デ・マリーナ」の日曜文芸付録(若きカルペンティエールも定期寄稿者であった)に、ギリェンの「ソンのモティーフ」が掲載されるやいなや、人々はこの連作に驚倒し、その驚きは瞬く間に賞賛へとかわっていった。優れた批評家フアン・マリネーリョも、人類学者フェルナンド・オルティスも、この作品の登場をアフロキューバ文化探求における特別の画期として歓迎した。しかし一方で、ハバナの貧しい黒人社会の日常語の氾濫と、それを、これまた世俗的な民衆音楽/舞踊の形式としてのソンになぞらえて提示したギリェンのスタイルは、規範的な文学観を持つ白人や、黒人エリート層にとって眉をしかめる対象でもあった。
 だがまさにそうしたスペイン語詩というジャンルの規範にたいする日常語による逆襲こそが、ギリェンの詩の思想性と批判意識を支える基本だったのである。すでに考察したように、ソンがキューバにおける先住民、アフリカ、そしてスペインという三要素の混成体として成立したのだとすれば、「ソンのモティーフ」はまさに、キューバおよびキューバ人にたいしてそうした混淆的アイデンティティ意識をめぐる一つの決定的な問いかけを、あらためて突きつける作品でもあった。そしてさらに、そこにはアメリカ合衆国の傀儡政権として不正を恣にしたマチャード独裁政権当時のキューバの社会的現実を特徴づける否定的要素、すなわち人種主義の残存、貧困、売春の横行、経済的不正、ヤンキー帝国主義の抑圧、といったものにたいする民衆的な批判が、強い政治的隠喩によって語られてもいた。とりわけ、アメリカ合衆国の政治・経済的介入によって荒廃したキューバの文化風土への批判は厳しく、それらは『ソンゴロ・コソンゴ』に収められた「おまえは英語がしゃべれない」「サトウキビ」といった詩に顕著に示されている。ヤンキー帝国主義を突くエピグラムのような強烈な短詩「サトウキビ」はつぎのような四行である。
 黒人は サトウキビ畑のかたわらにいる。
 ヤンキーは サトウキビ畑の上に君臨する。
 大地は サトウキビ畑の下に広がる。
 血が おれたちの身体からしたたり落ちる。
 (Guillen, Songoro Cosongo, p.32)
 ホセ・マルティからギリェンを経てフェルナンデス=レタマールへとつづく「キャリバン」の系譜がここに見事に浮かび上がる。キューバ社会のおかれた現実を、スペイン語による韻律的な黒人詩という形式に置換して表現するギリェンの方法は、アメリカスという環境において、ポストコロニアルな世界の微細な政治学を透視し聴取するための、いかなる目と耳の装備が可能であったかをわれわれに示しているからだ。「ソンのモティーフ」の出現とまったく同じ一九三○年四月、ニューヨークを経由してハバナを訪れたスペインの天才詩人フェデリコ・ガルシーア=ロルカは、ギリェンやオルティスとの交流ののちに、ソンの題を持つ一編の詩を書く。「満月になったら、サンティアゴ・デ・クーバへ行こう。サンティアゴへ。黒い水の車に乗って・・・」ではじまり、「おお、サトウキビ畑をわたる涼風。おお、キューバ。おお、吐息と粘土のカーヴ。サンティアゴへ行こう。」で終わる有名な「キューバ黒人のソン」(Son de negros en Cuba)は、そのロマンティシズムとエキゾティシズムの抒情性がいかに陶酔的に美しくとも、ギリェンのキャリバネスクな批評性を微塵も持ちえない、まったく異なる「ソン」の解釈でしかなかった。サトウキビ畑をはさんだ、一九三○年四月のギリェンとガルシーア・ロルカの視線のすれ違いのなかに私たちが透視するのは、スペインではなく、まさにアメリカスだけが生み出しえたキャリバンの「トランスカルチュラル」な方法論にほかならないのである。   

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