message board
Wed Sep 10 05:50:17 JST 1997
宮田和樹 ( kazuki@cafecreole.net )
デジタル・ストーリーテリング・フェスティバルをめぐるメッセージボードです。関連情報はhttp://www.cafecreole.net/bulletin.htmlにあります。
Wed Sep 10 07:23:45 JST 1997
Coyote ( aloha@u.washington.edu )
これはおもしろそうですね。フェスティバルのホームページを見ましたが、いったい何が起きるのかと思います。ぜひリアルタイムで途中経過や気付いたこと、インスピレーションの瞬間を、ここに刻みこんでいってください。マスターの晩夏の旅の途中報告も欲しいね。
Wed Sep 10 15:31:42 JST 1997
宮田和樹 ( kazuki@cafecreole.net )
これから搭乗手続きです。サンフランシスコ経由で、シアトルに向かいます。シアトル経由はゾーン制航空運賃制度にたいするたんなる思いつきだったのですが、多島海とアンダーグラウンドのシアトルはこの旅の最初の経由地としてもっとも適した場所ではないか、と今は考えています。14日まで滞在予定です。
となりからは中国語が鳴り響いてきます……。
Thu Sep 11 02:24:09 JST 1997
kazuki miyata ( kazuki@cafecreole.net )
夜を追いかけて、追い越して、サンフランシスコに到着。地帯としての夜を通過する感覚……。
Thu Sep 11 08:57:16 JST 1997
シアトルの空港から ( kazuki@cafecreole.net )
オーストラリア同様、空港でのモバイル・コンピューティングはここでも非常に快適。電源が取れるゆったりとした壁際のイス、ちょっとしたコンパートメントになっている公衆電話コーナーでは坐って回線を確保できる……。機内では、カフカの「火夫」を読んだ。ぼくとカールは、どちらも合衆国に行くのが初めてだったけれど、他の点でいろいろと異なっていた。カフカは彼が船で東部N.Y.に入ろうとするシーンを想像し、ぼくは飛行機で西海岸を目指していた。カールの乗ってきた船には、上級船室や、ボイラー室、厨房、船長室などが幾重にも層を成した迷宮であることの不気味さがあった。だが、主翼の下にむき出しにとりつけられた動力部分にみられるジャンボジェットの不気味さは、その船の場合とは異なっていた。うまく言えないけれど、そこにはすべてを均一な平面上へさらけ出そうとする意志が働いているような世界だった。表面しかないのだ。それは、システムとしての航空輸送を考えてみれば、そこではあらゆる要素がデータ化されて均一な平面上に可視化されている、ということかもしれない。そのシステムの拠点であり前線基地でもある空港の圏内にいるあいだは、ぼくはその世界のなかにとどまりつづける。ぼく自身が胞子をまとい前線を拡張する役割さえ担っていることの不気味さ。カールがそうだったような世界の断絶のないまま、ぼくはそこから逃れることができない。
Thu Sep 11 08:59:48 JST 1997
シアトルの空港から� ( kazuki@cafecreole.net )
国内線のなかはサンフランシスコの空港では感じられなかった臭いが嗅覚を刺激した。その臭いに導かれたのか、シアトルへのフライトはとても奇妙なものになった。ぼくは、とても眠くて起きていられないのだけど、疲れのためか断続的に耳のなかが痛くなり眠りつづけることもできなかった。眠りと覚醒のあいだで揺れつづけた。(ヤマシタさんの日本への旅は腰痛と結びついていたけれど、ぼくの場合は耳痛だったみたいだ。)そして、地下のモノレールをへてシアトルへ。そんなとき、ぼくはきまって成田空港ビル駅の地下の改札を近くに感ていた。
Thu Sep 11 14:52:01 JST 1997
YH in Seattle ( kazuki@cafecreole.net )
空港からダウンタウンへ。郊外の曲線を描く高架から、ローカルバスは地下トンネルへと潜行する。
ここではバスがメトロになる。トンネルの内部、バスストップの構内で、映画『アンダーグラウンド』の印象的な地下トンネルへと、
ぼくは連れていかれる……。エレベーターを浮上したさきにぼくを待っていたのを、海と坂とローカルバスのフロントで運ばれているマウンテンバイクたちだった。
シドニーに似ている、と思った。それとも、ぼくがどこへ行ってもみたい物しか見ようとしていないだけのことなのだろうか。
Fri Sep 12 09:46:32 JST 1997
imura toshiyoshi ( toshiyoshi@mtj.biglobe.ne.jp )
トラベル・ライティングの実践として大いに期待しています。ぼくはアメリカの南側の雰囲気はわかるのですが、シアトルは立ち寄ったことしかありません。この日本の残暑にシアトルの風を吹き込んでくれ!
Fri Sep 12 10:28:38 JST 1997
Summer is over ( aloha@u.washington.edu )
9月に入ってからも快晴つづきだったシアトルが、今日は空のもうひとつの顔であるつかみどころのない灰色に曇り、いよいよ秋がきた。この灰色の顔がこれから半年は続き、人々は強烈な憂鬱にうちのめされ、犬も猫も屋内にこもり、屋内をもたなければずぶぬれになって、溝で溺れたのと区別がつかなくなる。高緯度地方ならではのことだが、日々の日の出と日没の時間の移動は、すさまじい早さ。この町で暮らす以上は、夏のすさまじい快適さの裏面を、沈黙のうちに耐えなくてはならない。さあ、仕事に打ち込むか。
Fri Sep 12 18:17:37 JST 1997
DOWN UNDER - DOWN TOWN ( kazuki@cafecreole.net )
シアトル初日、朝の目覚めは午前4時。
6時ごろになって、窓から見える海に惹かれて散歩に出た。
さわやかな朝の海という希望的観測とは裏腹に、
冷たい風、いつまでもたってもどんよりとしたままの空と海。
けれども、それが秋のシアトルの姿だったというわけだ。
かもめの鳴く声も切なかった……
小雨のぱらつくなか、どうせ溝で溺れるなら進んで地下に潜ってやろうと、
「アンダーグラウンド・ツアー」に参加する。
シアトルの大火後の再開発で地下に残された、
旧市街地の一階部分を歩いたけれど、コース内の演出がちょっと興醒め。
観光だからしょうがないのだろうけど。
むしろぼくは、ふたつのとおりに挟まれた傾斜地に建てられた
シアトルのマーケットの半地下フロアを「ダウンアンダー」と
名づけたことのほうに、シアトルの秋のセンスを感じる……
夜になってから、ダウンタウンのLUXコーヒー・カフェの
ポエトリー・リーディングに出かけた。
夜の1stアベニューを行き交う人や車のライトをバックに詩を読む、
Sandra E Jonesはかなり素敵だ。
シアトルでは、大きすぎないダウンタウンで詩人たちは自然に
互いの存在を知り、
楽器の演奏あり、パフォーマンスあり、飛び込みありの、
ポエトリー・リーディングに集まってくるのだという……
このメッセージ・ボードにもそういったカフェになれる可能性はあると思う。
でも、顔見知りの詩人たちのように、
飛び込みでボードに書き込むことは難しい。
ネットワークが距離を超えてしまったため、
ここでは日常の距離感を、自覚的に再定義して用いていかなければならないからだ。
Fri Sep 12 18:27:35 JST 1997
Coyote ( aloha@u.washington.edu )
And the rain started. It's now raining jackrabbits and coyotes in Seattle. A strong sense of isolation at 2:OOam. Don't look outside. Outlook only. "I looked now upon the world as a thing remote, which I had nothing to do with, no expectation from, and, indeed, no desires about. In a word, I had nothing indeed to do with it" (Derek Walcott). But when the rain stops and the sun comes, there is always an outside waiting to be stepped in.
Fri Sep 12 22:00:36 JST 1997
Tetsuro Enokida ( kobetsu@gix.or.jp )
How is the weather in Seattle? And how is it going now?
Could you give us the way it is in Seattle? Because I visited it
eleven years ago. We are looking for your sending
detailed descriptions around you.
Mon Sep 15 08:16:50 JST 1997
Seattle-Tacoma Internatinal Airport I ( kazuki@cafecreole.net )
YHからAmerican Backpackers Hostelへ引っ越し。ここで、インターネットへはunreachableに。というわけで、ここ2日間の経過をシアトルの空港から書き込みます。
■12/09:Aloha St.を下ってLake Unionへ。シーカヤックに乗る。湖面を前景に広がるダウンタウンのビル群、右手に見えるスペース・ニードル、空には再び青空が戻っている。湖面から飛び立つセスナ機が波を残していく。その機体を追いかけて振り返り、びっくり。眺めていた空とは対照的に、背後の空には雨雲が垂れ込め縦横に走る稲妻が見える。急いで桟橋に戻ろうとするけれど、池の真ん中あたりで、風が船体を押し戻し大粒の雨が降り始める。なんとかパトロール船の世話にならずに帰り着いたけれど、ぼくは本当に「ずぶぬれ」になってしまった。それも上半身だけ……夜はキングドームへシアトル・マリナーズ対トロント・ブルージェイズ戦を見に行く。ドーム内であがる花火が華やか。試合は、途中、継投で苦しんだものの2本のホームランをはなったマリナーズが7対3で快勝。パートタイム・マリナーズ・ファンとして、ホームのチームが勝った球場の雰囲気を満喫。
Mon Sep 15 08:21:32 JST 1997
Seattle-Tacoma Internatinal Airport II ( kazuki@cafecreole.net )
■13/09:シアトル在住の管啓次郎さんのところで、ランチをご馳走になる。(ごちそうさまでした!) 管さんからは、カフェ・クレオールの新展開に向けていくつか提案を預かってきました。他にもいろいろ(distancing, Good Life, 最近出たブルース・チャトウィンの伝記 With Chatwin, electoric poetry center, etc.)と話をしました。帰りには、ダウンタウンまで車で送ってもらいました。ハイウェイの車窓から眺めるシアトル。シアトルの重層性がまたひとつ付け加わったという感じがします。帰ったら『リトル・ブッダ』に出てくる橋も見てみようと思います。
Mon Sep 15 08:23:53 JST 1997
Seattle-Tacoma Internatinal Airport III ( kazuki@cafecreole.net )
■14/09:Elliot Bay Book Companyで本を眺めた後、地下のカフェでブランチ。それから#194バスでシアトル・タコマ国際空港へ。偶然、乗ったバスはTHE POETRY BUS。ポエトリー・バスとは、"Glimpses: passing moment, captured thought / THE POETRY BUS / Every bus is the King County Metro system has ome poem and photograph on boad. Sixty buses, like this one, are completely filled with poety and photography. All the poems and photographs are by local artists. " In the Bus, I wrote down one of those. "The Hedgehogg Poem / When I am on the bus tap tap tap / Sometimes we bring food on the bus tap tap tap / Sometimes I sleep on the bus / When I get real tired of waiting / I saw others / I saw seals / They were sleeping over the water / They were sleeping so close that they switched places (以上3つ、デンバー発のUA搭乗前のシアトル・タコマ空港から)
Tue Sep 16 01:43:15 JST 1997
デンバー国際空港 ( kazuki@cafecreole.net )
着いたときは夜で分からなかったけど、朝になると空気がとってもさわやか。
ダウンタウンから空港まで走るあいだに、車窓から地平線が見える。
空港も光がいっぱい射し込んでいて、いい気持ち。
Tue Sep 16 18:27:11 JST 1997
Chattering Twins ( aloha@u.washington.edu )
チャトウィンの名前が出てきたのでひとこと。先週、サルマン・ラシュディが3回目の結婚をしました。妻となったのは3年越しのガールフレンドとのことで、命を守るためにその写真は公開されていませんが、名前は「エリザベス」だそうです。おやっと思った人も世界には数多くいることでしょう。ひょっとしたら、チャトウィン未亡人のエリザベスじゃないかのだろうか。1989年、ラシュディに対する「ファトワ」が布告されたのまさにブルースの葬儀がはじまる直前のことでした。ブルースとサルマンはその数年前にオーストラリアを一緒に旅行して以来の親しい友人で、死刑宣告下にあるラシュディと結婚する人はよほど作家稼業に理解のある人だとしか思えません。ところでラシュディは現在ニューヨークをベースにして暮らしていますが、もともとニューヨークの名家出身でロチェスター近郊に農場をもつエリザベスが、彼に隠れ家をいくつも提供できる立場にあることは想像にかたくない。別にこれがどうしたというわけではありませんが、単なるゴシップとして、憶測をしたためてみました。じゃましてごめん!
Sat Sep 20 09:41:07 JST 1997
Ryuta Imafuku ( archipel@mail.dddd.ne.jp )
サンフランシスコからネヴァーダの荒野を飛び越えてソルトレーク経由でアルバカーキ空港に夕刻降り立ったとき、あらたな緯度とあらたな高度の世界に自分がいることをただちに発見する。そこからコロラド・ロッキー山中のクレスティッド・ビュートまでほぼ500マイルの道をたどるあいだに、周囲の景色が、この緯度と高度の変容を、「色」として示してくれる。緯度と高度の変化が、植生の色彩の変化としてもっともはっきりと投影されるほんのわずかな季節のはざまに自分がいるのだということが納得される。
9月15日、サンタフェ。高度約7000フィート。北緯35度30分。日中は90度近い気温にもかかわらず、夕刻には涼風というにはやや身にこたえる風がプラーザ周囲を支配する。黒い皮のジャンパーの影と、石畳の街路に響くブーツの音が、褐色の荒野の短い秋の訪れを語る。とあるギャラリーで、グロリエッタの町に住むマリオン・マルティネスという女性のつくる、コンピュータ集積回路でできたグアダルーペの聖母像に出遭う。"Aztechno"の感性はこんなところにもあった。
9月16日、レイク・シティー。高度9770フィート。北緯38度00分。ニューメキシコの砂漠を抜けるうちに、木々の背はより高く、その色はますます黄色みを増してくる。リオグランデの最源流地帯、クリードの村からレイクシティーにいたる高原は、すでに紅葉(黄葉?)のピークと見える。リオグランデは、か細く途切れそうな流れになっても、あいかわらずゆったりと湿原のなかを蛇行して流れる。源流から河口まで、まったくおなじ流れとかたちをたもちながら大地を横切るこの壮大な光る大蛇に、あらためて畏敬の念すら感じる。レイク・シティーから、ダートの道を峡谷のなかに10マイルほど入ったところにあった宿は、孤絶した一軒家。大学教師を辞めて野性のなかに移り住んだ男とその妻と二人のまだ幼い娘とが、太陽熱発電と、衛星電話と、自力でポンプアップした水によって暮らしている。黄色と赤の饗宴のなか、朝の気温は20度まで下がった。一日のあいだに70度の温度変化を経験することがかつてあっただろうか。夜の庭に鹿の親子が訪れ、近くの流れをムースが渡り、19世紀末に廃坑になった銀坑の小屋の廃墟には無数のプレーリードッグが住み着いていた。こんどは水晶を探しに来てみよう。
9月17日、クレスティッド・ビュート。高度8885フィート。北緯39度00分。山々の紅葉の姿は変わらないが、わずかに高度を下げ、わずかに緯度を増したという地勢上の変化が、周囲の山岳の色を薄い黄緑のトーンに変えている。目的の町の低い甍のつらなりが、地平線から姿を現す。通りすぎる牧場の茶色の牛たちが、白い仮面をつけたような顔でこちらを見て笑うのが見えた。
Sun Sep 21 01:02:51 JST 1997
takao asano ( n97701@isc.chubu.ac.jp )
昨日、ロサンジェルスから日本へ帰国しました。でも、ぼくの意識はまだ太平洋を越えた旅の途上に漂っているような気がします。名古屋市内にある日系ブラジル人、アジアからの移民、そして日本人でにぎわう週末の商店街を歩いていると、数日前ロサンジェルスの韓国系やメキシコ系移民が集まるストリートをぶらぶら歩いていたときの断片的な記憶の数々が泡のように浮上してきて、雑然とした商店街の風景の中へ一気に飛び散ってゆく…そんな記憶と現在が混ざりあった風景の中でさまよい続けながら、マスターや料理人の旅やフェスティバルの報告を楽しみにしています。
Sun Sep 21 04:21:34 JST 1997
Kazuki Miyata ( kazuki@cafecreole.net )
Crested Butte デンバーからグニソン=クレスティッド・ビュートへ。クレスティッド・ビュートはアスペンを小さくしたようなスキー・山岳リゾートです。それほど知名度も高くないためか、スキー・シーズンをはずれた今の時期にこの土地を訪れるのは、主にテキサスなどの南部からやってくる白人たち。ベッド・アンド・ブレックファーストに宿泊していたりすると、グレイハウンドのアクセスもなく、飛行機かレンタカーによるアプローチしかできない山々に囲まれたこの町のなかに、古き良き白人のアメリカ合衆国をヴァーチャルに構築するというゲームに、自分も参加しているような錯覚に陥る。9000メートル近い標高への適応障害が起きたからなのか、ぼくはホット・タブと自室のロッキング・チェアーとベッドのうえで、多くの時間を過ごす。クレスティッド・ビュート山にはどことなく神聖な雰囲気があって、そのことばかりが気にかかる。それとも、それは満月に近い月のせいだろか……空港からのシャトルバスのドライバーは、神聖な白いバッファローのこと、それからネイティブ・アメリカンとバッファローを絶滅に追い込んだ「悲しい」歴史のことをぼくに話して聞かせた。しかし、いまバッファローの人工繁殖という責任ある仕事に取り組んでいるのも彼女たちだという。(それができるのは、彼女たち=白人をおいて他にはいないと、言っているようにも聞こえた。)彼女たちの歴史に回収されない物語が、月光に照らされたクレスティッド・ビュート山の淡い輪郭に漂っているようだった。これから始まるフェスティバルで、その声を語るストーリーテラーと出会うことができるかどうか、楽しみだ。
Sun Sep 21 04:23:46 JST 1997
Ryuta Imafuku ( archipel@mail.dddd.ne.jp )
Digital Storytelling Festivalの全般的な印象。われわれはいつも、「物語を語る」という行為と、「歴史を書く」という行為のはざまで生きている。前者は、本質的には私的な環境のなかで生じる行為であり、そこで語られる物語は断片的・個人的・一回的・挿話的でありながら、それは統合的な「世界」を指向=思考することができる。一方、「歴史を書く」ことは公的な行為であり、われわれは、自らと社会とのあいだの公的・制度的関係のなかで、このhistorywritingの行為に荷担している。それは高度に集合的でナショナリスティックな性格をもつ行為で、公教育によって形成されたわれわれの文字化された言語世界に基礎をおく。いうまでもなくそれは、権力のヘゲモニーと深い関係にあり、historywritingが成立するインターフェイスは制度的歴史学や為政者による歴史認識といった狭い領域に限定されるものではない。わたしがこのフェスティヴァルにもっとも欠けていると思ったのは、「物語」という行為をとりあげるときに最低限必要とされる、historymakingという公的行為に対抗するカウンターヘジェモニックな装置としての「物語行為」への配慮である。ここでは、ソフトウェアの開発者やスポンサーであるコンピューターメーカーとの安易な共同の上に立って、stroytellingという民衆的批判行為の政治学的意味が、まったく過小評価されている。ここにあるのは、やや厳しくいえば、テクノロジーにたいする無自覚の楽天主義と、「物語」がもつとされる通俗精神分析的治癒能力にたいする安易なオプティミズムとの癒着である。storytellingの可能性は、つねにhistorywritingの政治学との微妙なバランスのなかで探求されるべきなのではないか。ゴシップが社会を癒すことは無論できない。この集まりにおいては例外的といわざるをえない、より本質的なストーリーテラーたちとの出会いについては、あらためてゆっくり報告したい。
Sun Sep 21 17:23:26 JST 1997
Coyote ( aloha@u.washington.edu )
フェスティヴァルに関するマスターの報告、おもりそく読みました。そうだよなー。だいたデジタル・テクノロジーが遠隔通信のために生まれたんだったら、わざわざおなじ場所に集って何の意味があるだろうか。それにトライバルな語りが成立しなくなっている日々を一度でも自覚したなら、もう帰る昔などどこにもないのもあたりまえ。語る語らず語れば語られ、何を語るにせよ、個人の語り替えにまさる跳躍の契機はないし、その語り替えは必ずなんらかの美学的判断にもとづかないわけにはゆかないし、美学的語り替えによるカタリ派的異端化は、それこそモダニズムにほかならない。モダニズムというフェーズにいったん移行したら、もはやあと戻りはない。しかし人類ははじめから「世界文化」を生きてきたモダニストだったと考えてきたぼくにいわせれば、トライバルな定常状態こそ例外なのであり、そうした状態へのノスタルジアに集うやつらこそニューエイジ主義者で、なんかこっちとは根本的に無縁な気がするんだけど。マスターのいう「本質的ストーリーテラー」たちの姿を、もっと知りたいね。宮田くん、何か発見はありましたか?
Mon Sep 22 02:16:17 JST 1997
Jun Sakai ( n95181js@sfc.keio.ac.jp )
Hello!
Are U O.k.??
Wed Sep 24 10:08:38 JST 1997
Ryuta Imafuku ( archipel@mail.dddd.ne.jp )
Here in Portland, Oregon, I met an incredible traveller from Cuba. Actually she is the one who is making up my hotel room every day. This middle aged lady was forced to travel across different types of borders in a very short period of time. She left Cuba boading on a poor "barsa" with her husband and a son in late 1994. After three days of desparate "naufragio", a coastal guard of USA found them somewhere in the ocean between Cuba and the Florida peninsula. They landed on Miami finally, but after a few days of inspection, they were sent back to Guantanamo in Cuban island which is occupied by the US since the beggining of the century and is used as a US military base. They spent fearful three months there, and when the period of their stay expired, they were now sent to Panama. But obviously Panama was not their final destination. Soon they were taken back to Guantanamo again where they hated to stay any longer. Then something happened in the US immigration bureaucracy related to Cuba, and they were suddenly told to choose one of three different entries to the US territory: New York, Chicago, and Oregon. As her husband was a geography teacher in a Cuban junior high school, he knew that Oregon is one of the most "tranquilo" place in the US. They decided to choose Portland as their first place to live and start their new life. She remembers a lot of her native town of Guanabacoa,which I know is a beautiful beach town of Habana province. She told me her old stories. It was only 3 years ago that she left her town, but after consecutive, violent transfers from one place to another without experiencing any essential local life, she just lost a sense of time. She told me about the "carnaval" in 1990 in Havana which was actually the last one took place in the normal calender, but as an already old memory like something happened 20 years ago. I remember the same "carnaval" because I was there at that time, and I still have some reminisences of the taste of "cerveza Atuey" in my mouth. Time can be lived so differently.
Thu Sep 25 10:46:22 JST 1997
Kazuki Miyata ( kazuki@cafecreole.net )
Crested Butteから陸路、大陸分水嶺を越えてデンバーへ、そこからTurismos Rapidosに乗ってSnta Fe経由で、El Pasoに到着。そのあいだに、Digital Storytelling Festivalについては、カフェ・マスターから本質的なコメントが届いていた。ここで、よりトレード・ショウ的傾向の強いメジャーなイベントにたいするフェスティバルの比較優位を述べることは、むしろ後戻りにしかならないだろう。ただ、ブレイクのあいだや打ち上げのパーティといったフェスティバルの周辺的なざわめきのなかで、ぼくが出会った印象的な人をふたりだけ紹介することで、料理人からのフェスティバルの報告としたい。◇◇◇Maja Kuzmanovic(マヤ・クズマイノリッチ):会場に来ていた数少ない同世代のなかのひとりで、イタリアで学びオランダで活動し、文章を書くのは英語が一番楽だという彼女の祖国はすでに地球上から消えてしまっている。そう、旧ユーゴスラビアで彼女は育ったのだ。ぼくが会場のなかで一歩引いた醒めた視線を保っていることに気づいた彼女とは、フェスティバルの感想を率直に話し合うことができた。MacWorld Expoやシーグラフと比べてこのフェスティバルの”すばらしさ”を楽観的に語る、時間も金も自由になるおじさん・おばさんたちのいささか空疎な会話に、ぼくも彼女も辟易していたからだ。ちなみに彼女のビジネス・カードには、Content Development, Storytelling, Visual Design, Media Theoryと書かれている。このあと彼女はシカゴとシアトルでプレゼンテーションをこなし、途中MITでインタビューがあるとかないとか。◇◇◇Joe Lambert(ジョン・ランバート):最終日前日、主催者周辺の打ち上げパーティ会場に紛れ込んだぼくは、第一回目のペドロ・メイヤーの報告を例にあげながら、今回=第3回のフェスティバルの批評的テンションの低さをについてどう思うかを聞いてみた。実際に疑問をぶつけてみると、自己規定や他者規定に関わる語りと権力とのあいだにある問題について、関係者ははっきりとした認識を持っている。無知なわけでも楽観的なわけでもない。フェスティバルをプロモーションしていくうえで、それらの問題を敢えてマイナーなものとして位置づけているのだ。「そういった問題意識をもっているなら、メイヤーを紹介するよ」と言うジョンは、60年代からサンフランシスコを中心にアジア系マイノリティ・グループの政治活動を地域のアーティストたちと連携しながら支援してきた活動家としてのバックグラウンドをもっていた。カフェ・マスターが日本に紹介しているメキシコ系の作家=パフォーマンス・アーティストギリェルモ・ゴメス=ペーニャとも個人的に親交がある。(ギリェルモはジョンの息子のゴッド・ファーザーにあたる存在だそうだ。)マスターの研究室のビデオで見たそのクレイジーでクレバーなパフォーマンスにどれだけ感動したかを話すと、彼はギリェルモにもぼくを紹介するという……サンフランシスコの引力に引かれて、ぼくの旅のLatitudeが動きはじめる。
Thu Sep 25 16:19:24 JST 1997
Kazuki Miyata ( kazuki@cafecreole.net )
9/20:バーで働くウエイトレスはカリフォルニア州の出身。しかし、ここCrested Butteの住民のほとんどは南部の州からやってきた白人だと彼女は言う。そして西海岸で育った彼女には信じられないような人種差別的な発言を公言してはばからない人たちもいるという。◇◇◇9/21:フェスティバル最終日。参加者から開催地についての質問が相次ぐ。午後、フェスティバルの参加者、スーザン・クラークのレガシーの助手席に滑り込み、黄色いアスペンツリーの林を抜けてデンバーへ。途中、大陸分水嶺で記念写真を撮る。パシフィックとアトランティックを、この峠へと浮上させて接合する地理学の想像力。スーザン曰く、ここまでがよりアジアに関心を向ける合衆国なのだ。◇◇◇9/22:デンバーからサンタフェまで、メキシカン・バスの旅。デンバーにあるTurismos Rapidosのバス・ディーポは、おそらくもっとも高緯度に位置するメキシコ的世界のひとつではないだろうか。ラテン・アメリカ化するロサンジェルスを描いたカレン・テイ・ヤマシタの『オレンジ回帰線』がこちらでは出版されたけれど、そこで描かれた文化のLatitude(緯度=自由度)のひとつはデンバーまで到達していることをぼくは発見する。バスの車内はあたかも高速で走り抜けることによって浮上するバス交通列島であるかのごとく周囲の国家主権にもとづく土地から切り離されていた。不動産のような恒常性こそもたないけれど、その姿を断続的に合衆国のハイウェイに焼き付ける。サンタフェの郊外のガス・ステーションからは、スペイン語を話す若者の運転する年代物の車に乗ってダウンタウンへ、ダウンタウンの反対側の外れからプエブロの親切な女性の車でユース・ホステルへ。◇◇◇9/23:サンタフェに今年に入ってからできたジョージア・オキーフ・ミュージアムへ。アドービ=日干し煉瓦の建物から見上げる印象的な青空。しかし、彼女の空はときにPelvisのシリーズのように色を変えて地面の窪地に映し出される赤や黄色の空の反射であり、Sky above Cloudsにみられるような裏側の空でもある。それにしても、オキーフとはこれほどまでに艶かしいものだったのだろうか。◇◇◇9/24:HURRICANE NORAがバハ・カリフォルニア半島に上陸しつつある。ラパスは水浸し、アリゾナの各町では人々が土嚢を積み上げ風雨に備える様子がTVに繰り返し映しだされる。明日からの旅の予定が見えてこない。明日の朝、もう一度、天気予報を見て決めることにしよう。
Thu Sep 25 21:03:55 JST 1997
Coyote ( aloha@u.washington.edu )
オレゴンのキューバ人、コロラドのメキシカン・バス、なぜわれわれは「場違い」な存在ばかりにひかれるのだろう?
Sat Sep 27 16:07:24 JST 1997
Kazuki Miyata ( kazuki@cafecreole.net )
黄色の、白の花が埋める路肩を走りアリゾナ州ツーソンを経て再び国境の町ノガレスに到着。◇◇◇25SEP:エル・パソからリオ・グランデ対岸の町、シウダー・フアレスにサンタ・フェ橋を歩いて渡る。橋を歩いて渡る人の流れに浮き沈む、黒い、白い、黄色い、黄土色の、プラスティックの袋たち。袋から顔をだすぬいぐるみ、人形、腰や背中に負担の少ないという腹筋鍛錬用のフレーム・キットの箱。薄いプラスティックの柔らかなふくらみから透けてみえる色鮮やかなシャツの柄、各種布製品。あの角張った箱はきっと靴箱サイズ。シリアルの、コーンフレークの、そのほかいろいろのお菓子の箱。パックの卵。ホットドック用のパンをたくさんとスチロール製のカップもたくさん。バドワイザーの赤い缶がいっぱい、でも中身は空。なぜならカラカラと軽い音をたてて通りすぎていくから。白地に青い文字の描かれた円筒形はなに? 何度も通りすぎるから、誰もが使うもの、きっとそれはトイレットペーパーのロール。古いラジオ(は壊れている?)、カップラーメン、食器、"JUST DO IT"、洗剤、食品いろいろ。◇◇◇リオ・グランデの夕暮れ。18:00サンタ・フェ橋のバックに傾く太陽の光が薄い雲に遮られたためか、空の雲が虹色に輝く。ガードレールの向こう側、コンクリートで護岸工事を施された川の斜面で、こどもがふたり遊んでいる。こちら側を自転車が一台、それからジョギングをする人がひとり通りすぎる。18:15こどもたちが川に浸かる、泳ぐ。親子連れが犬をともなって走る。緑のラインの入ったボーダー・パトロールの車両が対岸を通りすぎる。それから対岸の列車が動き出す。18:30サンタ・フェ橋の中程に掲げられた四本の国旗のあいだに太陽が沈む。橋を渡る人の疎らなシルエット。どこかのチームのユニホームを着た青年が走る。二回目のボーダー・パトロールがすぐに越えられるこちら側のガードレールとは対照的に高く刺々しい金網の向こう側を通過する。その向こうにはエル・パソのダウンタウンのビルが見える。そのひとつには合衆国の小さな国旗も。振り返ると、こちら側では巨大なメキシコの国旗がゆっくり風になびいている。サンタ・フェ橋のメキシコ側の国旗が下りる。18:45太陽が橋と川面のあいだにあらわれる。対岸では3回目のボーダー・パトロール。こちらでは、最初に通りすぎていったランナーがどこかで折り返して再び通過する。川に沿って走る道路の外灯が灯る。こどもたちが川から上がりコンクリートの斜面で服の水をしぼる。18:50太陽が沈む。対岸の道路に明かりが灯る。ダウンタウンの背後の山に星形の大きなイルミネーションがあらわれる。腕にとまった蚊を殺す。18:55かなり暗くなる。こどもたちが帰る、紺色のシャツ、黒いズボン、緑のトレーナーを腰にまいている男の子と赤いシャツとグレーのズボンの男の子。サンタ・フェ橋の合衆国の国旗が風になびいている。
Sat Sep 27 17:48:56 JST 1997
Coyote ( aloha@u.washington.edu )
Ciudad Juarez の日没にむかう記述、非常におもしろいと思った。旅の記述にも(他のあらゆる記述とおなじく)リアルタイムはありえないけれど、何かを捉え、刻み、それを伝え、伝えられた側にあるコンクリートな印象がうけとめられるという経験は、もちろん可能だ。鍵を握るのは名詞の豊富さだろう。形容詞は必要だが、よく選ばなくてはならないだろう。心理の形容は、しばしば外面の徹底的描写の、単なる回避につながる。しかしこのフアレスの数十分は、遠くまで届いた。プエンテネグロの鉄道橋の壁画を見たかった。この大陸でもっとも危険な街、フアレスの街路に、どんな物が露出しているのか、知らせてほしい。そして長く、長く、長く、長く、ひたすら長く書いてみてほしい。誰も読まないかもしれない。そんなことは問題じゃない。誰かが読むかもしれない。真に恐ろしいのは、それなんじゃないか。
Sun Sep 28 04:08:59 JST 1997
Kazuki Miyata ( kazuki@cafecreole.net )
「場違い」な存在がわたしの地図を揺さぶるから、わたしはそれが気になる。その振幅が新しい製図法を希求するから、わたしはそれを書いてみる。
Sun Sep 28 04:10:08 JST 1997
Kazuki Miyata ( kazuki@cafecreole.net )
El Pasoはダウンタウンこそさえない商店街のおもむきだったけれど、昼間の街は光が満ちていて、その背後には郊外が広がっている。車に乗ったり、SUN METRO=市バスにのれば、典型的な郊外型のショッピングセンターや日本食や中華を含む飲食店が立ち並ぶ道路に抜けでることができる。そのエル・パソからフアレスに入ったときに感じたのは、汚くて暗いものにたいする生理的な嫌悪感だった。ぼくはこの町を歩けないすら思った。だからタクシーで1時間ほど町を見てまわったのだけれど、実際、車で走るのも困難だと思われた。道路は穴だらけで、いたるところでタクシーは立ち止まり迂回した。煤けたり剥がれたりした壁面のなかにあらわれては消えていく眼の白い部分のほかには(そしてたびたび視界にあらわれる巨大な国旗以外には)、車窓の風景を分節することができなかった。タクシーのドライバーは、ぼくが止めろいう場所では決して車をとめようとしなかったのに、そのくせいかがわしいバーの脇では車を止めてみせる。そして最後には値段のことで口論になるのだ。◇◇◇そのあたりのリオ・グランデ沿いの地帯は公園だったりグラウンドだったりする。フットボール・チームが練習をしていたりする。そこから川のあいだの赤茶けた地帯には、髑髏マークにPELIGROと書かれた看板が林立していてちょっとびっくりするけれど、どうやらそこには地下に配管があるらしく、掘ったり、建てたり、衝撃を与えたりするべからず、という意味のことが書いてあったようだ。サンタ・フェ橋の反対側には刑務所や警察がある。夜は、穴のあいた天井を眺めながら、困惑を抱えたまま眠りについた。翌朝、ぼくは逃げるようにしてフアレスを出た。起きたときにはまだホテルの外は暗くて、明るくなるまで待った。明け方、トイレの窓からオキーフの空を見た。大通りを選んで歩きできるだけ早く橋へと向かった。まわりの人と歩調を合わせて足早に橋を渡った。車は渋滞していた。車両の隙間に物を売る人間が立つ。そのさきに待っていたのは合衆国側ゲート前の長い列だった。列が動き出すまで、どれくらい時間は経ったのだろうか。◇◇◇それに対して、ツーソンで乗り換えてバスとバンで8時間、ノガレスの国境ゲートをメキシコ側へと越えたときの気分の昂揚をどう言ってあらわしたらいいのだろうか。そこには人びとの活気があふれ、クラクションと音楽があちこちから聞こえてきて、お金を集める人たちもその音楽のリズムに乗って腰を振り、男と女は抱き合い、小さな男の子は放尿する。小さな家が林立する丘が両脇から迫り、そのあいだのさまざまな商店が立ち並ぶ通りの先へ先へと、ぼくの足はどんどん引き込まれていく。金曜日だからだろうか? 合衆国側のNogalesのおとなしい町並みと違って、ゲートをくぐるとそこにはカーニバル空間が広がっている。コロナ・ビールに1/2にカットされた小さな柑橘類を搾る。(それはちょうどビールの瓶の口に上手く重なる大きさなのだ。)この町に乾杯するような気持ちでビールを飲む。
Sun Sep 28 18:18:50 JST 1997
Ryuta Imafuku ( archipel@mail.dddd.ne.jp )
ボーダーは近代国家に住むすべての住民にとって一つの大きな裂傷で、だからこそ、そこを通過する際に何者かの血液に身をさらされることを誰も免れえない。政治的・経済的・金融的・言語的切断の規範が、その裏をかく幾重にも張り巡らされたClandestineな構造(賄賂、密通、隠匿、脱税・・・)とのあいだで日々抗争をくりかえし、人々は矛盾する原理の狭間に生きることを余儀なくされる。その傷跡の深さは、アメリカ・メキシコの国境のどの地点に立つかよって、外見上はいくらか異なって見えるかもしれない。私が知る限りティファナとフアレスにおいてこの裂傷はとりわけ深く、レイノーサとマタモロスがこれに続く。カマルゴやパローマスのような小さな町は、あるいはじゅうぶんに大きいヌエボ・ラレードでさえ、そののどかでメキシコ的な祝祭性によって、旅人の目からこの傷跡を巧みに隠蔽することに成功しているかもしれない。だがいかなる町も、最後までこの傷の存在を隠し通すことは無論できない。だからこそ傷を発見せよ。発見したら、それを凝視せよ。ボーダーは、渡る橋の下の水の流れのなかに思わせぶりに存在するのではない。きみが町で見いだす、目を背けたくさえなるものの露出のなかから、ボーダーの血は流れ出している。町に充満する凶器はきみを襲う道具ではなく、あらかじめ人々の肉体と心に刻まれた裂傷が社会空間のなかに出現させた幻影のような対応物だ。裏路地を覆いつくす死の兆候は、人々の生存への強い希求が生み出した、鮮烈な生への意志の影にすぎない。
おそれることなく傷の返り血を浴び、きみの靴底に異なった土と小石の感触を覚え込ませよ。橋を北から南に渡るときの畏れに満ちた昂揚が、南から北に渡るときの後ろめたい安堵をはるかに凌駕するようになるまで。
Mon Sep 29 02:52:57 JST 1997
Kazuki Miyata ( kazuki@cafecreole.net )
Nogales, Sonoraの歩き方◇◇◇東西から迫り出した小高い丘の傾斜地のあいだにノガレスのメインストリートと幹線道路は配置されている。北側から入国するときに気になるのは、粗末な家々散在する南側の斜面だ。北側に設けられた無人の緩衝地帯はそこにはなく、家々は国境のフェンスぎりぎりのところまで迫っている。メインストリートから外れてこの傾斜地を歩くことで、自分だけのノガレスの旅づくりをスタートさせることができる。初心者はまず、道路の西側に設けられたメイン・ゲートではなく、幹線道路と鉄道線路を越えた東側の小さなゲートから入国するところからはじめてほしい。ボーダー・パトロールが周囲を固めるこの小さなゲートでは人の流れに押し流されてところてん式に通過するメインゲートとは違った気分が味わえるだろう。そこから左手のメキシコ側の肌茶色に着色された重厚な壁��その壁はそれほどたいしたつくりではないのだが、壁につくられた装飾的な大きな四角い穴から見える合衆国側の有刺鉄線状の神経質な華奢な壁と比べればの話だが��に沿ってしばらく歩いてほしい。行き止まりかと思える民家と壁のあいだの急な斜面に敷設されたコンクリートの階段を見つけることができる。そのまま国境の壁��ここまでくると壁は背丈を越える鋼鉄のメッシュ状の素材で強化された艶消しの黒鉄色になっていて、それでもところどころでこのメッシュ状の素材に加えられた大きな力の後を見つけることができる��と、そのすぐ脇まで迫る家々の軒先とのあいだの小さな緩衝地帯を斜面のピーク手前まで歩くことができ、そこにメキシコ領の限界を示す角柱の碑を見つけることができる。そこから先はコンクリートの階段はなく、陥没した斜面には各種生活廃棄物が投棄されていて歩きづらく、民家側から聞こえる声や犬の鳴き声そしてときに旅行者を見据える憂いをたたえた視線に足下がおぼつかなくなることもあるが、ピークまで登りつめると、東側には万里の長城よろしく丘陵地を分断する鉄の壁の眺めを堪能することができる。西側を振り返る場合も同様。なお、壁の向こう側にマクドナルドやバーガーキングの看板を確認することも忘れないようにしたい。なお、初心者は忘れがちだが、斜面は登るよりも降りる方が難しいことが多い。勢いにまかせて登ってくると、後で自分がどれだけの勾配を経てきたかに驚くことも少なくない。もちろんここには階段が敷設されているのでそれほど心配することはないが、上からかいま見る民家の壁のなかの様子などに気を取られて、足を踏み外すことのないように注意したい。(他人の家の中を必要以上にのぞき込むこともあまり勧められない。)バランスを崩したときには、決して前のめりにならず腰を落とすようにしたい。◇◇◇これにものたりないという人にもノガレス・ソノラは無限の斜面ウォーキングの可能性を提供する。中・上級者は、メインストリートや幹線道路を歩きながら、好みの丘の頂上を自分で探してみよう。それぞれの丘の形や、そこに張り付くように、またそこからこぼれ落ちそうになりながら集散して配置されている民家のパターンなどから、自分の気に入った丘を選ぶことができる。おもしろそうな斜面はメインストリートから幹線道路と鉄道線を越えた東側に広がっている。だいたいの目標が定まったら、適当な脇道を選んで入り坂を上り始める。丘の頂上はどれも目前に展開していて、すぐにも手が届きそうだが、そこにたどり着くことはそれほど簡単ではない。国境に近い場所でいきなり階段からアプローチする場合をのぞけば、はじめは比較的緩やかな舗装道路から斜面歩きは始まる。このあたりには商店があったり、地元の人たちが話をしていたり、子供たちが好奇の視線を投げかけてきたりする。また、家のみすぼらしさとは対称的に、青空を背景にきれいに洗い上げられた大量の洗濯物を見つけることができる。できるだけ舗道らしき部分を歩きたいが、その部分も断続しているので道路に出るときには注意が必要。かなりの傾斜のも関わらずタクシーや自動車の交通量はけっこうある。実力が問われるのはここからのルーティングだ。道路が未舗装路へとかわり頂上へと通じそうな小道や階段を登り始めると、そのほとんどが最後には誰かの民家へとたどり着いてしまう。誰もいなければそのまま引き返すだけだが、誰か、とくに老女がいたりすると、かなりばつの悪い思いをすることになる。こうして登っては降りて、をくり返すうちに、最初の目標とは異なる奥の方へと次第に誘い込まれることになる。そこでは階段や梯子ではなく、荒れた斜面のなかから人が歩いて踏み固めた跡を探しながら歩くことになる。それでも、こうして道を歩き続けている限りは、やはり誰かの家へとたどり着いてしまう。高度が上がるほど家々はバラック化していることは確認しておきたい。適当な高さに達したと思ったら、小道をそれて自分の場所を見つけるのも良いだろう。ただしくれぐれも注意を怠らないようにしたい。基本的に足を踏み入れた直後にバッタが一斉に飛び跳ねたら、それは道を外れたという信号だと思ってよい。足下には、壊れて打ち捨てられたタイプライター、割れたビン・ガラス類の破片、さびた有刺鉄線の断片、それに刺のある植物がある可能性がある。また、一見そう見えなくても誰かが占有を主張している場合もある。たとえば黒い細糸で囲いが設けられていることもあり、そういったものをむやみに壊さないようにしたい。そうして場所を決めたらしばらく腰を下ろしてすわってみるとよいだろう。ここまで登ってくると、視界はいっそう開けてくるにもかかわらず、北側に合衆国の痕跡をみつけることはできなくなってしまっている。それが旅行者を不安にさせるかもしれないが、斜面の上からかいま見られる人々の暮らしを見つめる自分と、その自分をさらに斜面の上から眺めている誰かの視線を感じることの緊張感のほうが実際は遥かに大きい。鶏の鳴き声、犬の遠吠え、こどもたちのはしゃぎ声、ブレーキの軋む音、工作機械のあげるうなりが、したから上がってくるし、黄色や赤や紺の服を着たこどもたちが通りを駆ける姿や、軒下で編み物をする母親の小さなシルエットを見つけることができるだろう。斜面を吹き下ろす風は心地よい。ただし、気温はこの時期100度近いので、暑さ対策が必用。帽子をかぶり水くらいは持ち歩くようにしたい。また、誰かの家に入り込んで主と対面してしまった場合は、敵意のないことを示し帰り道を��まだアタックの途中であったとしても��教えてもらおう。そして道を教えてもらったら、Graciasを忘れずに言うようにしたい。そして一度は素直に斜面を降りよう。しばらく下ってから振り返ってみると、旅行者の足どりを見据える主の視線があるはずだ。
Thu Oct 2 01:43:02 JST 1997
Kazuki Miyata ( kazuki@cafecreole.net )
ロサンジェルスから◇◇◇ノガレス滞在中はヘリコプターの音で目が覚めたような気がする。27日の朝には、合衆国側の路上で男がふたりボーダーパトロールに連行されるところに出くわす。ハッチバックが開かないので、男たちは開けたリア・ウィンドウから車両に乗り込んだ。翌28日の朝、ゲートを越えたメキシコ側の路上で男が女を強打している。女はなにかを叫んでいる。うつむいていて、殴られている顔は見えない。ふたりの物売りの視線が遠巻きにのぞき込んでいる。そのすぐ脇をぼくは真っ直ぐ前を向いて歩いた。◇◇◇9/28:ノガレスのメキシコ側の郊外にあるバス・ターミナルでティファナ行きのバスを待つ。バスが出発する8:45PMまで、まだ6時間はあった。そのあいだにぼくは2人の男と英語で話をした。Jacobはときどき待合い室の外に電話をかけにやってきた。友人が迎えに来るのを待っているという。24歳。メキシコシティさらに南のオアハカからバスで60時間あまりかけてノガレスにやってきた。これから妻と3人の子供のいるワシントン州のシアトルまで向かうという。Joseはときどきタバコを吸うために建物の外にやってきた。26歳。フアレスからやってきた。まだ目的地は決まっていないが、シアトルかポートランド、ソルトレイクシティあたりに行くことを想像している。言うまでもなく彼らは合衆国内で仕事をすることを望んでいた。たとえばタクシーなどの運転手の仕事だ。そして就業ビザやグリーンカードは持っていなかった。イリーガルだ。そのことを尋ねるとホセはこう答えた。「それじゃあ聞くが、合衆国にいるときグリーンカードをもってたのか? ビザはもってたのか?」たしかに90日以内の観光・商用を目的とした日本人が合衆国内を旅行する場合、ビザの必用はない。結果だけみれば、どちらもビザなしの渡米だった。「そうか、ぼくらは同じってわけか」と苦笑いしながら口にしてみた。なんだかとても嫌な後味が残った。彼らは荷物らしいものをほとんど持たなかった。(ホセは、もしかするとヤコブも、実はメキシコ側を流しているだけかもしれなかったけど、)一瞬、それが羨ましく思えるほど身軽そうに見えた。ぼくは肩に食い込むほど重たい荷物を持ち歩いていた。そして実際にはほとんど重さを感じさせない、クレジットカードや帰りのエア・チケット。◇◇◇NORTE DE SONORAバス、合衆国側との時差に気づくのが遅かったら、このバスには乗り過ごしていたところだった。バス停でぼくの腕時計を見ていった人たちには悪いことをした。時間を聞いてきたひとりが「これはメキシコの時間?」と言う。オフィスの時計を見ると、ぼくの時計は一時間遅れていた。この日は車中泊、なかなかうまく眠れない。車窓から見える星空が、かなり低い高度まで確認できる。途中、人と車の全くいないメキシコの夜の町のいくつかで停車する。昼間の町の様子を想像しようとするが、全く上手くいかない。あるところからジーンズが急に湿っぽくなった。車内の湿度が一気に上がったのだ。29日、6:15AM、ティファナ着。市バスで一旦、町の中心街へでて、かすんだ空のした、しばらく朝の町を散策したあと、バスに乗って太平洋沿岸の町、エンセナーダへ。バスの移動中に車窓から見えるティファナの町は茫漠として広がっていた。一時間あまりバスに揺られて、最初に窓から見えた海には太平洋の波が打ち寄せていたのに、エンセナーダの港の海面は静かで動きがなかかった。ネルーダの詩集から抜き出してきた海の詩を読もうと思っていたのだけど、やめてしまった。エンセナーダ泊。◇◇◇9/30:昨日も町で見かけた、車椅子ではなく、ペダルを手で回すように改造した自転車にのる男を今日も見かける。偶然、居合わせた彼の甥(甥はバイクに乗っていた)が英語で男の話をしてくれる。「おじさんは、この自転車でラパスまで行ったんだぜ、14日間かけて。」正面から見る男の瞳は、ふたつとも白く濁っていた。後ろの荷台には孫が乗っていた。そして自転車に付けられた小さなメキシコ国旗がは風に揺れていた。エンセナーダからロサンジェルスまで再びバスに乗る。途中、ティファナで乗り換え。待合い室で出会ったSantosはシアトルから、カボ・サンルーカスの実家に帰る途中だった。「ああ、シアトルはいい街だね」というと、彼は写真を見せてくれた。そこにはシアトルでの彼の友人たちがいる。中国人とベトナム人。職場の同僚でもある。「(彼らは)マクドナルド、それからデニーズで働いているんだ。」彼の合衆国での就労は合法的なものだった。英語はアジア系の友人たちのレッスンを受けて学んだ。ぼくはスペイン語の読み方を彼に聞いてみた。はじめに一語づつ丁寧に区切って読んでから、もう一度一語づつ後についてリピートをする。それからフレーズ単位でリピートしてから、ワン・センテンスとおしてリピート。
Sat Oct 4 07:36:30 JST 1997
Kazuki Miyata ( kazuki@cafecreole.net )
サンフランシスコ・デジタル・メディア・センターから。(ここでの報告はまたのちほど。)◇◇◇1OCT:ロサンジェルスのバスの中で、最初にぼくの隣に座ったのはインド系の女性。それから中国系の顔、そしてメキシコ系の顔、顔、顔。一度は、その顔がどこから来た顔なのかを考えるのに夢中になりながらも、そうしたレッテル貼りが急に無意味に思えてすぐにやめてしまった。それよりも、ここでは瞳を閉じて耳を澄ました方がおもしろい。(立ち聞きをするのは、あまり良い趣味とはいえないけれど。)「・・・シィ、シィ・・・」(スペイン語だぁ。)「・・・・トゥイ・・・・・シェンマ……・・・・・ウォーメン・・・プーシー・・」(中国語。)「・・・ダァ、ダァ、ダァ、・・・・・ニィエハラショー・・ニェ・・」(これはロシア語かな。)それらの言語が互いのステレオタイプな顔から離れて、(カレンが描くように)たとえば中国系の顔がチカーノのスペイン語を話しだす。◇◇◇改装中?の日系人博物館に立ち寄ってから、ヤオハンの脇を抜けて、グレイハンドのバス・ディーポまで歩いていく。ガイドブックには「L.A.でもとりわけ治安の良くない」場所だと書かれていて、身構えてしまったけれど、ぼくは無事にたどり着くことができた。だいたい人がほとんどいない。しゃがんでいる人たちは、やばそうには見えても、恐さは感じない。眼に精気がない。まぁ、そういう場所だから危険なんだろうけれど。バスの待合所でひとりのチェコスロバキア人のおばさんが険しい顔つきで声をかけてくる。たいそう大きなトランクを心配そうに気にかけながら、さっきから何度も電話をかけていたこの女性は「ニューヨークのエリアコード知らないか?」という。航空会社にオープン・チケットの帰りの日程を知らせたいのだという。番号を聞くとフリーダイアルで、エリアコードは必要なく最初に"1"をダイヤルすればよいはずだった。彼女は疑い深そうな眼でぼくを見ていたけれど、他の人に確認するでもなく、しばらくすると再び受話器をとった。話し終えた彼女の顔から緊張感は消えていたけれど、とても疲れた感じだった。「まだ、6日以上あるから、もう一度かけなおさないとダメだって。でも、このあとニューヨークまでバスで移動だから、できればここで済ませておきたかった。途中で上手く連絡できるか心配で。。。」大変ですね、荷物も大きいし。「最初は郵便で送ろうと思っていた。でも、チェコ人の知人が忠告してくれたの。チェコの役人がめぼしいものは着服してしまうから、自分でもって帰った方がいいって。そう、昔の話じゃなくてね。」しばらくしてから、出発ゲートの前に人が集まり始めた。ぼくが列の真ん中あたりにならんでいると、さっきの彼女が声をかけてきた。彼女は大きな荷物とともに列の最後尾にならんだところだった。「バスの座席数は全部で40だと思う。でも、これだと自分のところまで席があるか心配。バスに乗ったら、私の分の席をとっておいてほしい。」……わかった、努力はしてみるよ。
Mon Oct 6 11:52:14 JST 1997
Coyote ( aloha@u.washington.edu )
旅行でおもしろいのは、外国人は外国人と知り合うということだ。もちろん、おなじ回路に乗っているのだから当然ともいえるが、なんとなく「地元」からはずれた匂いをお互いにかぎつけるのがおもしろい。すべての異邦人=違法人の都LAでも、やはり地元を構成する人々はいて、そこからはじきだされる外国人がいる。ま、旅の楽しみだね。危険も多々あるけど。
Tue Oct 7 02:34:00 JST 1997
Kazuki Miyata ( kazuki@cafecreole.net )
朝を迎えたLAXから◇◇◇3OCT:サンフランシスコ・デジタル・メディア・センターはArmy St.とValencia St.のコーナーにある大きなビルの2Fにある。かつてはシアーズ・ローバックの店舗だったというそのビルには、いまでは周辺に暮らすアーティストのスタジオがいくつも入っている。(Guillerm Gomez-Penaのスタジオも、このビルにある。)ジョン・ランバートはチャイニーズ・アメリカン・コミュニティのためのビデオのセリフをとる準備をしているところだった。◇◇◇ジョンの話:大学(UCバークレー)では政治学と演劇の専攻した。演劇に夢中だったから、シアターで政治学のレポートを書いたりもしたよ。大学を出た後は、Fort Maisonのシアターを手伝うようになった。ダイナ(=Digital Storytelling Festivalのプロデューサー)とはそのときからのつき合いさ。彼のデジタル・ストーリーテリングのプロジェクトを手伝うあいだに、コンピュータについてどんどん詳しくなっていったね。それから、シアターでの仕事からは手を引いて、デジタル・ストーリーテリングを教えるクラスをつくった。最初は幅広くいろいろな人に呼びかけたんだけど、実際集まってくる人たちはたとえば、「母の誕生日に彼女の物語をつくりたい」といった小さくて閉じた動機づけの人たちが多くてね、ちょっとうんざりしたさ。ぼくはもっと生きていくうえでの困難や葛藤や社会的な問題が語られる必用を感じていたからね。だから方向性を少しはっきりと打ち出して、女性や老人、マイノリティ・グループやディスアビリィエィを抱えたひとたちの物語を伝える支援をしていくことにした。具体的には、チカーノやフィリピン系アメリカ人の若い人たちに、コンピュータ・ツールの使い方を教える機会をづくりを始めたりした。そうやって、コミュニティ問題に関心をもつ人たちやアーティストの活動を支援するNPOのアート団体としてサンフランシスコ・デジタル・メディア・センターをたちあげていったんだ。(ダイナのところは”コマーシャル”団体だけどね。)ストーリーテリングにおいてコンピュータを使うのは、ひとつには(映画の製作などとくらべて)コストが安いということがあげられる。でも、コンピュータをつかうことで、人が自分自身でストーリーづくりを行えることのほうが重要だと思う。映画の撮影を学ぶよりもコンピュータで作品をつくるのははるかに簡単だよ。もちろん、まだまだいろいろと制約は多いし、完成度の高い作品をつくるのはやはりコンピュータを使った場合でも困難だけど(そうした試みはアーティストと呼ばれる人たちが行っているわけだけど)、それでも自分たちでストーリーを語る道具を手にして、そのプロセスを自分たちで行えるということが、たとえばマイノリティ・グループの人たちには大切なことなんだ。そこでは、高度な技術やテクニックは問題じゃないと思う。人が物語を語る意味を考えると、人には誰かに覚えていてもらいたいという欲求を多くの文化が持っていることから出発することができる。人は自分の存在を他者に知って欲しがっているんだ。それから、人と人とが理解し合うために、人は物語を語らなければならないと思う。人の属している文化に特有の考え方というのは、その人の内面に深く刻み込まれていて、それは外から見ただけでは分からない。たとえば日本人が何にプライオリティをおいているのか、アメリカ人の僕には分からない。だから、問題なのは何を見たのかではなく、何を理解しのかということなんだと思う。たとえば君は、ボーダー・グロッシングをしてきたけれど、そこでモノ・リンガル、モノ・カルチャーではない在り方を体験し理解してきたはずだ。そういったボーダーをめぐる、マルチ・アイデンティティの問題はまさに僕がギアモ=Guillermと繰り返し語り合っていることだけど、形式的な多言語・多文化主義や楽観的なコンピュータ信仰では事態は乗り越えられなくなってきているのかもしれない。実際、ぼくたちがデジタル・ストーリテリングのクラスを持つのは今年が最後だよ。来年からは旅に重点をおいた暮らしをはじめる予定だからね。
Sat Oct 11 20:50:41 JST 1997
Ryuta Imafuku ( archipel@mail.dddd.ne.jp )
10月11日。与那国島久部良港。日本国領土最西端。台湾からわずかに110km。水平線の彼方にFORMOSAの淡い島影がはるかに高く望まれるこの地に、突然せきたてられるようにしてやってきた。■赤瓦の家のアカバナーの咲く宿の庭先から数十歩あるけば、緑色に透きとおった波が珊瑚の砂浜をひたすら静かにあらっている。昨夜遅く、砂を積んだ台湾からの船が港に入り、国家原理のもとでは認められていない、ボーダーそのものの法秩序にもとづくわずかな交易をすばやくすませて、夜明けを待たずに立ち去っていった。離島、僻地、最果て、国境。さまざまに呼ばれるこの南海の孤島は、しかしかならずしも本土から遠く離れた場所ともいえない。名古屋から石垣島まで直行便で2時間40分。石垣からはYS11のプロペラ機に乗り換えて与那国まで40分。待ち時間をのぞけば、名古屋からわずかに3時間半たらずで、アダンとクバの鬱蒼たる茂みに覆われた海岸段丘にひろがる与那国空港に降り立つことができる。この時間距離の短さは素直な驚きだ。名古屋-石垣間の運航区間距離は1,872km。エアーニッポンの就航するあらゆる国内ルートにおける最長距離である。この地理的距離は鹿児島-札幌間の1,753kmよりも長い。あらためて、南西・八重山諸島の点々とした連なりがつくる空間的広がりを実感するとともに、しかしそこを3時間半で飛び越えてくることの不可思議はさらに新鮮な驚きだ。■「ガイドライン」という名の一つの符丁のような言葉が、日本の世俗化された政治空間と文化的言説のあいだを飛び交っている。内地の、ヤマトの、首都の、霞ヶ関の論理のなかでもてあそばれつつ、市民の知らぬ間に新らしい好戦的な名実を与えられようとしている、日米間の安全保障という名の再軍備計画。その議論のなかで具体的に名指されながら、最後にはこのガイドラインという名のロジックが機能する領域から疎外されていく沖縄・台湾。その不可視化されようとしてるはざまの風景をボーダーの海に探しあて、それによって日本国という、唯一の外交・軍事的主体として振る舞う権力機構の位置を、より多様な地域的連携・群島的地理学のなかに置き直せないだろうか。それがこの旅の一つの目的である。■昨日から何人もの人に会った。おのずから口をついて出てくる声がゆるやかにかたちづくる話を聞いた。意図的な物語ではない。紋切り型のストーリーへと収斂してゆく舌をそもそもこの島の人々は持たない。ドゥナン(渡難)の島へとたやすく渡ってきたつかの間の旅人を、彼ら・彼女らは土地の言葉で言う「旅の世(ゆ)」から来た本質的な外来者として、自然に、つつましやかに、はにかみ、ほほえみながら迎え入れてくれる。(以下続報)
Sun Oct 12 10:45:33 JST 1997
Coyote ( aloha@u.washington.edu )
与那国。その奇妙な名前が驚きだった。ヨナクニサンの飛行に睡眠がかき乱されることもあるのだろうか。遠い。領土という観念がいかに恣意的なものかを改めて思う。北半球は急速に冬にむかい、ぼくはこれからオタワに。今週はカレン・ヤマシタがシアトルに来るのだけれど、残念ながらすれちがい。