or read Moon of Turquoise, January 1999
---このあいだ、面白い本を見つけた。昨年出た、Kwame Anthony Appiah と Henry Louis Gates, Jr. 編の The dictionary of global culture という700ページを超す 事典だ。非西欧世界の文化的達成に特別の力点をおいた、来世紀に向けての「世界文 化」の総目録といった感じだろうか。
---編者の二人は、ハーヴァード大学のアフロ・アメリカン研究をリードする学者 たちですね。
---なによりその項目の選定が興味深い。冒頭のAは、Abakwa (アバクワ。キュー バのアフリカ系憑霊宗教の秘密結社。カトリックとの習合をへた混淆的な文化の産物 )という項目からはじまり、最後のZの項目は zydeco (ザディコ。ルイジアナ、テ キサス両州において行われているケイジャン/アフロカリブ/アフロアメリカ文化混 合のヴァナキュラー・ミュージック)で終わっている。象徴的にいっても、アバクワ とザディコのあいだに世界を俯瞰するという試みじたい、とてつもなくスリリングだ。
---たしかに。Mのあるページでは、モンテスキューと、モンテスマと、トニ・モリ スンが同じ空間に同居していますね。Pではプルーストのつぎにプエブロ・インディ アンがあり、そのつぎにパンクがある。偶然とは思えない配列です。
---そう。アルファベット順という一見機械的な配列の偶然性を破って、ある必然 が分泌している。まさにこれらのエントリーのあいだに無数の補助線や接続線を引く ことで、私たちはそのつど「世界」のイメージを更新しながら、あらたなグローバル ・カルチュアのヴィジョンを発見できるはずだ。
---アバクワ、ザディコ、モンテスキュー、モンテスマ、モリスン、プルースト、 プエブロ、パンク・・・。見事ですね。こうした言葉や人物がある見通しのなかでひ と思いに接続される地平に人類が住みはじめていることは、もう否定できないのでは?
---そう思うなら、そちらの方向にむかって吹いていこうか。
サイバーウェブの網目のなかにカフェを開店することの最大のメリットは、経済原理 の束縛から限りなく自由でいられることです。ページを作成するための最低限の経費 や労力はあるにしても、このカフェでサーヴされるものには地代がかかっていません 。材料費もアイディアと想像力と探求心といういたって曖昧なもので、これらは貨幣 経済の機構のなかでひどく過少評価されている「安い」ものです。さらに幸いなこと に、能力と熱意ある料理人や給仕人が参集し、ノーチップで奉仕しようと言っていま す。食器やインテリアにはほとんど投資していませんが、サーヴされるもの(ほとん どもっぱらテクストの形状をしています)の質感や気配が、おのずからカフェの雰囲 気をつくりだしていくでしょう。
というわけで、既存の経済原理からできるかぎり自由になったカフェに飛び交う言葉 もまた、従来の書物や雑誌という出版メディアが活字に要求した「商品」としての制 約を可能なかぎりふりすてた、とても自由なものになるはずです。自由で、ときにエ キセントリックで、ときに破壊的。商品経済にさえ支配されなければ、言葉はその本 来の起爆力をすぐにも回復するに違いないと私は信じたいのです。
言葉が、生きた言葉として発生する渾沌とした表現の現場に寄り添いながら、純粋性 や一貫性でなく、混淆(クレオール)の力をたのみとして、このカフェはさまざまな テクストやイメージをサーヴしていきます。制度化され、自動化され、日常の無数の 規制のなかで閉塞する言葉や知識に、もういちど接触による異種交配と再生の契機を 与えることで、「カフェ・クレオール」は来たるべき言語空間の未来のひとつの姿を 暗示するものになるかもしれません。そしてそれはまた、ディジタルな書字能力をい ままさに獲得し、活用しようとしている人類の、未知の表現可能性を拓いてゆく実験 へとつながってゆくにちがいありません。
たとえば「バイリンガル」あるいは「マルチリンガル」という概念も、このカフェ では、あらたな発想のものとに再定義されます。当カフェで使用される言語には制約 を設けません。当面、外形的には日本語とみなしうる言語が大勢を占めるかもしれま せんが、その日本語ですら、「国語」としての純正な外形を保とうとする自動的・無 意識的な規制が解かれてしまえば、すぐにもピジン/クレオール化をはじめます(す でに海外帰国子女や、外国人定住者によって、内部からのそうした日本語の流動化は 始まっています)。おなじように、英語、フランス語、スペイン語、マンダリン、カ ントニーズ、コリアン、スワヒリ・・・といった、これから登場するかも知れないあ らゆる言語も、それがかならずしも特定国家との自明の帰属関係によって定義される ものではないことを、ここで確認しておきましょう。なぜなら、言語を外形的に「国 語」として封鎖していたイデオロギーそのものを、このカフェが批判し、乗り越えよ うとしているからです。そのためには、できる限りバイリンガル/マルチリンガルで あることが必要なのです。
だからこそ、バイリンガルを、二言語の完璧な同時使用とみなす、個々の言語の完
結性を前提とした通常の定義は、受け入れることができません。このカフェが念頭に
おくバイリンガル/マルチリンガルとは、一つ一つの言語についてパーフェクトな能
力を想定するものではなく、ある個人の表現行為のなかに不可避的に侵入する多言語
の並存を意識的に問題化したときに獲得される、ある言語感覚のことです。言葉の境
界を渡り歩くことが、コミュニケーションの未知の回路を開くことへのある種の確信
だといってもいいでしょう。マルチリンガルとは、じつは、多くの言語をスイッチし
ながら巧みに操る能力のことではなく、表面的には一つの言語のように見えるテクス
トのなかに、いくつもの「ことば」の繋がりや紛争を読み解いてゆく、言語的政治学
の技術のことにほかならないのです。
copyleft 1997 IMAFUKU Ryuta