管啓次郎
Keijiro Suga

コヨーテ読書 11
マリーズ・コンデの『生命の樹』


マリーズ・コンデ『生命の樹−あるカリブの家系の物語』(管啓次郎訳)が平凡社から刊行されました。以下の文章はその「訳者あとがき」を、本の出版に先行して掲載したものです。また、著者が来日した際の札幌セッションのまとめがこちらでご覧いただけます。

カリブ海の現代文学

 今世紀最後の四分の一、世界でもっとも新鮮で強烈な文学作品が次々に書かれてきた地域の一つとしてカリブ海があげられることには、その事実自体に、どこか感動を誘うものがあります。その理由をひとことでいえば、現代カリブ海文学が、小さな場所から生まれた大きな文化衝突の文学だからです。そしてこの性格は、書かれる言語が英語/フランス語/フランス語系クレオル語/スペイン語などのいずれであろうと、共通して見られる特色です。

 比較的大きな土地と人口をもつキューバ、イスパニオラ島(ハイチおよびドミニカ共和国が分有)、ジャマイカ、プエルト・リコを除けば、カリブの島々はどこもごく小さく、その多くはこの数世紀の歴史を反映して、いまも欧米諸国に領有されたままです。もちろんこれらの島々にも南北アメリカ両大陸の各地とおなじく、一四九二年のコロンブス到来のはるか以前から多くの人々が住んでいたのですが(ある推計ではイスパニオラ島だけでも八百万の人口がいたといいます)、ヨーロッパ人による殺戮とヨーロッパ人がもちこんだ疫病の流行などで、こうした先住民人口はほとんどが非常な短期間のうちに壊滅してしまいました。ヨーロッパ世界に侵略された当初は、新大陸からスペインがヨーロッパに持ち帰ろうとする金銀財宝を奪いあう海賊の戦いの場だったカリブ海域ですが、やがてその気候を利用して砂糖黍の単一耕作が巨大産業となり(砂糖生産はそれをイスラム諸国から学んだスペインが南米各地にひろめ生産の拡大とともにドライヴがかかって十八世紀をつうじてヨーロッパでは砂糖消費量が爆発的に増えました)、そのための労働力としてアフリカ西海岸から連れてこられたのが、ヨルバをはじめとする種々の言語・文化グループに属するアフリカの人々でした。少数のヨーロッパ人が支配し、白人と黒人の混血児が中間層を形成し、大多数の黒人は奴隷としてプランテーションで働かされるという構図が、こうしてでき上がります。やがて名目上の奴隷解放がおこなわれると(アフリカ系奴隷が世界で最初に解放されたのはフランス大革命後まもない一七九三年、やがてハイチとなるサン=ドマングでのことでした)、こんどはそれを補うものとしてインド系労働者や、数としてはわずかながら主として商業にたずさわる中国系および中東系の人々が流入し、白人の絶対的支配は変わらぬまま、島の人々の顔はいっそう多彩なものとなりました。

 ヨーロッパ資本の支配の意志により、熱帯の島々でむりやり出会わされることになった、先住アメリカとアフリカとアジア。こうした混住の植民地社会は、もちろんきびしい抑圧とさまざまなレベルでの葛藤にみちた、いたるところで軋む音をたてる苛酷な社会にはちがいありません。けれども同時に、種々の正統性(自分をささえるために「本来」のものと人が主張する「血」「土地」「言語」「資産」など)を徹底的に奪われた人々が物理的に隣あって暮らし、ときには反発し離反しときには融和し合流することから必ず生じずにはいない文化のまったく新しい位相が、陽だまりの水がゆったりと泡立つように人々の意識の表面に浮上しつづけるのも事実です。支配者のヨーロッパ人すら、そこでは世代を超えていつまでも「ヨーロッパのヨーロッパ人」でありつづけることはできません。「純血」による優位を主張する者たちには混血がその土台をゆるがし、規範的な言語で身を守る者たちには新たな文法・語彙・語法が攻撃をしかけ、みずからの利潤のために計画的労働を仕組む者たちには踊りと歌がまったく別の秩序を暮らしにもちこむ。各地の島社会が生んだ、アフリカ系のリズムを基盤とするいろいろなカリブ音楽が、どれほどのゆたかさと変形を世界音楽にもたらしたかは、改めていうまでもないでしょう。音楽の響きの中に、メディアのけばけばしい光の中に、現代のわれわれは世界のどこに住もうとカリブ海を日常的に体験している、とすらいえそうなくらいです。

 そして音楽に対応する強烈さと躍動は、文学にも、たしかに存在します。以下にいくつかの人名を列挙するだけで、それはうかがえるでしょう。名前をいくつあげようとそれだけでは何にもなりませんが、少なくともそれらは、ぼくらの視界を遮る壁の「向こう側」をしめしてくれるにはちがいありませんから。名前とは、いわば壁に加えられる一撃、壁にうがたれる穴の役目をはたすものなのです。

 一九九二年、コロンブスによる新大陸侵略五百周年の年、セント・ルーシャ出身の英語詩人・劇作家のデレク・ウォルコットがノーベル文学賞を受賞し大きな注目を集めました。峻厳な声調と驚異的な語彙をもち壮大な歴史感覚につらぬかれたウォルコットの作品が、高い評価を受けるのは当然です。しかし作品の規模と水準を考えると、このとき同賞は彼と同世代で友人でもあるマルティニックのフランス語詩人・小説家のエドゥアール・グリッサンが受けてもおかしくないものでしたし、何よりもこの二人のすぐれた先達にあたるマルティニックのフランス語詩人エメ・セゼールにこそ、それよりもずっと以前に与えられるべきだったという声も強くあるのです。もちろんノーベル賞が文学の絶頂だなどというつもりはありません。けれどもそれは文学の地勢を目測するためのある目印にはなり、賞により作品の流通ぶりが確実に変わることは否定できません。

 以上の三人はいずれも「黒人」ですが(そして黒人といいアフリカ系といってもその「黒さ」や「アフリカ」自体非常に多くの系列をなし層をなした混成的なものであることを忘れるわけにはゆきませんが)すでに一九六〇年にはグアドループのフランス人植民者の家系出身の白人詩人サン=ジョン・ペルスが、主として長らく住んだアメリカで書いた作品群の名声によって、カリブ生まれの詩人としてははじめてノーベル賞を受賞していました。おもしろいことに、きわめて端正で華麗なフランス語で書かれたように見えるサン=ジョン・ペルスの作品にしても、その表現の多くがクレオル語を下敷きにしていることは、読む人が読めば明らかだといいます。つまり規範的なフランス語からは逃れてゆく線が、そこにはいくつも潜んでいるのです。セゼール、グリッサンという複合的な線を中継し延長し批判し革新しつつ、さらに若い世代のパトリック・シャモワゾーやラファエル・コンフィアン(いずれもマルティニック出身)が粘り強い創作をつづけていることは、すでに日本語に訳されているかれらの著作のいくつかから知られるでしょう。ウォルコットの他にも英語圏では、カリブ社会に対する批判的な見方のせいで政治的攻撃を浴びることが多くともトリニダードのインド系作家V・S・ナイポールが疑いなく現代英語最大の作家の一人ですし、島国ではありませんが南米大陸のカリブ海沿岸にあるガイアナ出身の混血作家ウィルソン・ハリスも、その圧倒的な力量が広く認められています。スペイン語圏には今世紀初頭生まれのニコラス・ギリェン、アレホ・カルペンティエール、ホセ・レサマ・リマといった巨星とともに眩い星座をなす一世代後のギリェルモ・カブレラ・インファンテやレイナルド・アレナスといった特異な作家を次々に生んでいる文学大国キューバを中心とした独自の流れがありますし、世界最初の黒人独立国の栄光と悲惨にみちたハイチでは、ずっと亡命生活を送ってきたルネ・デペストルの他に、偉大なシャバン(白い肌の黒人)の作家/劇作家/俳優フランケチエンヌが、あらゆる政変を超えてあえてハイチに踏みとどまり、孤立の中からハイチ・クレオル語とフランス語の両言語で旺盛に実験的作品を書きつづけています。

 そしてこうしたすべてのカリブ海文学は、書かれる「言語」のちがいを超えて、どうやらたしかにある共通の精神をもっているようなのです。その精神のもっとも端的な現れは、多言語性の意識です。グリッサンは、晩年の個人的な会話でカルペンティエールが述べた言葉として、次のような言葉を紹介していました。「われわれカリブ人は四つか五つの言語(ラング)で書いているが、おなじ一つの言語的態度(ランガージュ)をもっているね」と(『<さまざまなもの>の詩学・入門』)。それは言い換えれば、自分が書く言葉のかたわらに、つねに他のいくつかの言語がたたずんでいることの自覚であり、自分がそれらの他の言語を知っているかいないかにはかかわらず、私の言語は必ずそれらとのあいだに関係をむすび、すでに響きあっているという認識です。それは欧米諸国による島々の奪い合いの数百年のはてに、分断された「アフリカ」と「アメリカ」と「アジア」が信じがたいモザイクを形成しそれぞれの界面で融合と離反の実験をくりかえしている状況において、カリブの人々の集合的な感受性が到達した、最良の認識だといえるでしょう。

 さきほど名前をあげたのは男性の作家ばかりになってしまいましたが、女性作家はどうでしょうか(作家を語るのに男性/女性の区別をもちこむのは一面ではばかげていますが、一面では一社会での性関係が作品の中でどう扱われるか、女性が作品を書くための物質的条件がどのように整えられるのかなど、たしかに作家自身の現実生活上の性別と性差意識を反映した部分も大きいわけですから、ここでは「女性作家」という範疇を避けることなく使います)。英語圏では、最大の島であるジャマイカ(英語で行政がおこなわれているという便宜的な意味から「英語圏」と呼びますが大部分の島民が話すのはジャマイカ・クレオール英語)がアーナ・ブロドバーやミシェル・クリフといった興味深い作家たちを生み、ガイアナからはベリル・ギルロイ、アンティーガからはジャメイカ・キンケイドが出ています。さらに、アメリカ合衆国内のバルバドス移民社会で生まれ育ったポール・マーシャルや、ニューヨークのハイチ移民の子で英語で書く注目すべき若手(一九六九年生まれ)のエドウィッジ・ダンティカットも、やはりまぎれもなく「カリブ海の作家」と呼ぶべき存在です(ここで英語作家の存在が、特にアメリカの文学市場と連動していることは、よく考えてみなくてはならない点です)。一方、フランス語圏(これは「英語圏」以上に便宜的な枠ですが)ではグアドループが、二人のすばらしい小説家を生んでいます。まず、ぜひ日本語訳が現れることを期待したい、『奇跡のテリュメに雨と風』および『水平線のティ=ジャン』という二冊の傑作で知られるシモーヌ・シュヴァルツ=バルト。そしてここに『生命の樹』をお贈りする、フランス語における現在もっとも充実した作家の一人、マリーズ・コンデです。

「悪辣な生」/「生命の樹」

 本書はそのマリーズ・コンデの長篇第六作にあたる La vie sc四屍ate (1987)の全訳です。原題を直訳するなら「悪辣な生」。いたるところで人に不意打ちを食わせ、あらゆる辛いこと悲しいことを準備して人をいじめぬくこの「人生」という得体の知れぬものをさして、そう呼んでいるのだと考えていいでしょう。しかしそれは同時に、この物語がかたる家系の最初の登場人物であるアルベールにはじまるルイ家の人々それぞれが二十世紀をつうじて生きた、けっして普通の意味で「良い」とはいえない人生、その苦くさびしい後味を残す生き方をいうものでもあり、いわばこれはカリブ海の一つの家系全体を主人公とするピカレスク小説(悪漢小説)だといってもいいでしょう。作者によれば、このタイトルの着想を得たのは、母親がよく口にしていたクレオル語の「ラ・ヴィ・セ・アン・セレワ」(人生というのはひどいワルだよ)、あるいは「フー・ラ・ヴィ・セレワ」(こんな意地の悪い人生はもうごめんだ)といった言い回しからだそうです(フランソワーズ・プファフによるインタヴューから)。どうあがいても勝ち目のない不幸に見舞われる人々が、せめて当の相手の「人生」にむかって毒づいてみせる文句でしょうか。ただ「悪辣な生」という題名ではやや抽象的すぎると感じられるため、ここではイメージのはっきりした英訳のタイトルを借り『生命の樹』と呼ぶことにし「あるカリブの家系の物語」とサブタイトルを付しました。『生命の樹』とはすなわち家系の樹木でもあり、むせるように濃い緑を噴出する島のゆたかな自然力を連想させるものでもあります。

 ピカレスク小説とは、高貴な血筋や家名やゆたかな資産に守られないどこの誰とも知れない出自の主人公が、自分の才覚と運命の助力だけを頼りに各地を巡歴し、ゆく先々でいろいろな冒険をくりかえし、憎めない悪事を重ね、ひどい目に会ったり笑いものになったりしながらもやがては成功をおさめる、といった定型をもつジャンルです。読者はゼロから出発して荒々しい世界を生きてゆくその主人公の才覚に共感し、ときにはその悪ぶりにげんなりし、冒険にはらはらし、小さな成功に喝采し、ついには主人公が達した高みから、単純に良いとも悪いともいえない遍歴の人生そのものをふりかえる視点を手に入れることになる。そこにあるのは「時がたしかに流れた」という感覚、「この人はたしかにこう生きた」という感覚であり、小説の語りという純粋に言語的な冒険にみちびかれて、読者がある波瀾にみちた他人の人生を想像的に見通し、それに同一化し、そこから自分自身の生きる世界に立ち向かうために必要な勇気を汲み上げられるということが、このジャンルがいつも変わらぬ魅惑をもつことの大きな理由です。

 砂糖黍の単一耕作が島の畑をおおいつくしているという典型的な植民地経済のもと、もはや奴隷ではないといっても実質的に奴隷と大差ないプランテーションの単純労働者であることを強いられたアフリカ系住民の一人、屈強な大男アルベールが、「もうこんな暮らしはごめんだ」と島を出てゆく決意をする。彼の目の前にあった大きなチャンスは、パナマ運河建設でした。一八八〇年代にレセップスの率いたフランスの失敗をうけて、アメリカの指揮下に本格的な建設工事がはじまったのが一九〇四年、その開通は一九一四年。ある意味では二十世紀の両アメリカを文字どおり分断することによってかえって一体化させたといってもいい、この途方もなく「新大陸的」な事業は、多くの賃金労働者を雇い入れることでカリブ海全域の人々に大きな影響を及ぼしました。グアドループでも人々にたずねるなら驚くほど多くの家庭に「おじいちゃんはパナマに働きにいった」という家系の伝説が残っているそうですが、そういえばアンティーガ出身の作家ジャメイカ・キンケイドもまた、自分の義父からその父親がパナマ運河建設にたずさわっていたという話を何度も聞かされながら育ったという思い出を語っていました。危険と引換えの、プランテーションでのあまりに安い賃金とは比べものにならない金額の給料を、アメリカ・ドルで蓄えることによって、アルベールのその後の人生、ひいては彼の子供たち孫たちといったルイ家の人々の人生は、がらりと変わります。ルイ家は島の小都会に住む黒人都市中産階級となり、人からは守銭奴と嫌われ、子供たちはフランス「本土」に留学し、高等教育をおさめて専門職につく。あるいは物語の語り手であるココの母親、アルベールの孫娘にあたるテクラのように、もてあますほどの頭の良さと矜持をもちつつ、夢想と目先の欲望にふりまわされ、自分が何を求めているのかもわからぬまま世界じゅうを流浪して生きることになる。

 グアドループ、パナマ、サンフランシスコで暮らし流浪のうちに金銭を蓄えたアルベールの人生と、それをうけるように、パリに留学しロンドンにゆきニューヨークに移りジャマイカに飛び、そのたびごとに生き方のスタイルを変え、変えたつもりで変わらず、やがてはすべての夢と恋に破れ逃げるようにフランスの白人の夫の下に帰ってゆくテクラの生涯を二つの焦点として、このカリブの家系は小さな島を出発点に、ほとんど惑星規模といっていい拡がりを生きることになります。そのとき改めて明らかになるのは、カリブ海とはつくづく不思議な場所だ、という感覚です。そこはいわば、広い意味での「アメリカ」(南北アメリカの統一体)と「ヨーロッパ」と「アフリカ」に、同時に所属している。そしてすべてに同時に所属しているということは、そのどれからも、じつは弾きだされているということです。その拠り所のなさ、あらかじめ強いられた流浪が、この本の基調をなしていることは、いうまでもないでしょう。この作品が作者コンデとその家系をそのまま描いたものだと考えることはあまりに素朴なまちがいですが、それでもいろいろな点でこのルイ家と作者自身の家系とのあいだに平行し呼応する部分があるとは、見てもよさそうです。コンデの作品の中で、ぼくがまずこの小説を翻訳しようと思った理由は、それに関係します。以下、現代のカリブ人ならではの惑星的彷徨を身をもって生きてきた作者の経歴をふりかえりつつ、そのことを述べておきましょう。

マリーズ・コンデについて

 マリーズ・ブーコロンは一九三七年、グアドループの首都ポワン=タ=ピートルの黒人都市中産階級家庭の八人の子供たちの末子として生まれました。十六歳でパリに留学した彼女はそのままパリ大学に進学し、やがてギニア出身のママドゥ・コンデと知り合い結婚します。夫は一九五九年、ジャン・ジュネの有名な作品『黒人たち』(ロジェ・ブラン演出)で主演をつとめた俳優でした。一九六〇年、マリーズはアフリカに移り、以後の十二年、象牙海岸、ギニア、ガーナ、セネガルを転々としながらフランス語教師として生計を立てます。ママドゥとはほどなく別居し、子供を育てながらの異郷での流浪の暮らしは楽なものではなかったでしょう。正式に離婚したのはかなり後なので、作家としてはデビュー時に使ったコンデの名を、そのまま使っているそうです。

 アフリカでは、彼女は完全な他所者でした。「フランスのフランス語」を話し、イスラム教徒ではなく、土地の文化に染まることもしなかった彼女を、人は「白人女」とすら呼びました。独立後まもないアフリカの新しい国々はどこも政治的問題が山積みでした。当初は自分も観念的に支持していたギニアの初代大統領セク・トゥレの非道な独裁ぶりを実地に見て、彼女が強い嫌悪感を抱いたのは、この時期です。

 一九七二年、コンデはパリに戻ります。有名な比較文学者ルネ・エチアンブルのもとで博士号を取得して大学教師への道を歩み、かたわら劇作を試み、ついで末の娘が大きくなって子育てが一段落してから小説を書きはじめた彼女ですが、初期の作品ではカリブ海の人間が混乱したアフリカに自分自身の「根」を探ろうとする帰還と探究が、大きな主題となっていました。

 『エレマコノン』(一九七六年)が彼女の最初の小説です。タイトルは西アフリカのマリンケ語で「幸福を待ちながら」という意味。魅力的なアンティーユ女性の主人公が、遠い父祖の地であるアフリカの大地にむかって自分は何者なのかという謎を問いかけつつ、現実のアフリカ社会にはまるで場所を見いだせずにいるという姿が、前面に現れてきます。つづく『リハタの一季節』(一九八一年)もその延長上にあり、いずれも独立後のアフリカの現実を安易に美化したりせずに容赦なく描いて、特にアフリカの読者たちには強い衝撃を与えました。ついで彼女自身の先祖が属していたバンバラ族の、十八世紀の王朝に題材を得た歴史小説『セグ−−土の壁』(一九八四年)とその続編『セグ−−崩れた大地』(一九八五年)がフランスで三十万部を超えるベストセラーとなり、マリーズ・コンデは作家としての地位を確立しました。東からおしよせる世界宗教イスラムと、西からおしよせる奴隷貿易の圧力のはざまで崩壊してゆく王国の姿を物語る『セグ』はやがて英訳も高く評価され、すでにブラック・ディアスポラ(世界に分散したアフリカ系の人々全体)の現代の古典となっていますが、多くの人々からその語り手としての才能が絶賛を集めた作品であるにもかかわらず、ふりかえって見るコンデ自身にはそれは作家的冒険にとぼしい、やや安易なところのある作品だとも映っているようです。

 この間、イギリス人でコダック社の翻訳者として働いていたリチャード・フィルコックスと再婚。フィルコックスはその後、彼女の代表的作品の英訳を手がけます。八〇年代初頭からは、コンデはアメリカの大学で教えるようになっていましたが、あるとき偶然に図書館で、二十人もの人々がまったくの濡れ衣で処刑された一六九二年の陰惨な「マサチューセッツ州セイラムの魔女狩り」事件の際、魔女の一人とされ投獄されたティチューバが、カリブ海のバルバドス出身の黒人女だったことを知りました。興味をひかれた彼女は、このティチューバの架空の自伝というかたちをとって『わたしはティチューバ−−セイラムの黒人魔女』(一九八六年、女性文学大賞受賞)を書きます(風呂本惇子・西井のぶ子による日本語訳が新水社より近刊)。ヨーロッパ、アフリカを巡歴した彼女が、さらに北アメリカの、それもニュー・イングランド地方という迂回を経て、カリブに帰還してゆこうとする行程が、これではっきりと輪郭をとってきました。

 『わたしはティチューバ』刊行の年、コンデは二十六年ぶりにグアドループに帰ります。以後、アメリカとグアドループをゆききしながら暮らす体制を作った彼女は、まるで自分の放浪の総決算のように、本書『生命の樹』を書き上げるのです。『セグ』までは作品の舞台をなしていた「アフリカ」が、ここではたえず参照されながらけっして到達されることのない土地として現れていることは、明らかにわかるでしょう。かといって、故郷グアドループもまた、本当に帰ってゆく場所ではありません。『生命の樹』の印象的な登場人物の一人に、ココのフランス語の先生として赴任してくるオーレリアがいます。父親の「血」によりその島につながることを信じ、まだ見ぬグアドループに心からあこがれて、私もすぐにその故郷に帰るわ、と涙をどっとあふれさせながらいう彼女の純真な姿は、けっして「いい」登場人物ばかりではないこの物語の中では稀な無垢の輝きをもつ瞬間ですが、そのオーレリアには、島への「帰還」はありえない。あらゆる「本質」への帰還、帰属の断念はコンデの作品の周囲をおおう薄い膜のように存在しますが、現実生活におけるコンデ自身、たしかに故郷だった島で最初にラジオ・インタヴューを受けたとき、グアドループの人々に彼女はフランスの白人女にちがいないと思われたそうです。その理由は、「フランスのフランス語」を話すから! アフリカでも、故郷でも、もちろんヨーロッパやアメリカでも、自分は結局は他所者。このことをはっきりと自覚したとき、彼女はあくまでも個人的な想像力の中で呼びかわし響きあうさまざまな場所の総体を、世界と呼び故郷とする決意がついたのではないでしょうか。現実の彼女が島に帰ったのと平行して書かれた、この帰還の断念の物語としての『生命の樹』こそ、作家マリーズ・コンデの二度めの大きな出発点だったといえるでしょう。この作品でコンデは一九八八年、アカデミー・フランセーズからアナイス・ニン賞を授与されています。

 その着想に関しては、非常におもしろい逸話があります。あるときロスアンジェルスの大学で講演をおこなったコンデは、赤毛で明るい色の肌をした黒人の若い男から、いきなりクレオル語で声をかけられます。「カ・ウ・フェ、マリズ・コンデ?」。(元気ですか、マリーズ・コンデ?)驚いたコンデはそれからさらにクレオル語で彼と話をし、いったいきみはどこの出身なの、とたずねます。すると男、アルバート(フランス語読みならアルベール)は、自分はパナマ人だと答える。フランス領アンティーユ出身の彼の曾祖父がパナマ運河建設に参加し、そのままその土地にいついたというのです。それで一家は、スペイン語、英語、クレオル語を話すのだけれど、フランス語はもう家族の舌には残っていない。この話に興味を覚えたコンデは、それからサンフランシスコにゆき、パナマ運河建設の記録を所蔵する博物館でさらに当時のようすを調べます。こうして、小説の最初の人物、「アルベール・ルイ」が造形されたのでした(ちなみに物語の語り手ココの生年月日はコンデのいちばん上の娘のそれを借りたそうです)。

 以後、グアドループを舞台にしフォークナーの『死の床に横たわりて』に語りの技法上の着想を借りた『マングローヴわたり』(一九八九年)、フランス植民地主義に抵抗してマルティニックに島流しにされたダホメ王国最後の王ベアンツィンの末裔たちを追う『最後の王たち』(一九九二年)、南米コロンビアを主な舞台として宗教的コミューンの挫折を描いた『新世界のコロニー』(一九九三年)、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を下敷きにドミニカ生まれの白人女性作家ジーン・リースの『広大なサルガッソ海』(この作品自体シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』のカリブ海的読み替え=書き換えとして構想されているものですが)とも対話するような作品である『移り住む心』(一九九五年)、そして最新作の、グアドループに付随した小島の一つラ・デジラッドで育った女性マリー=ノエルを中心に三世代の女たちの足跡をたどりながらカリブ海の近現代史を浮き彫りにする『デジラーダ』(一九九七年)にいたるまで、一作ごとにそれまでの自分自身の方法と限界を乗り越えようという強い意志をもって、六十歳をむかえていよいよソウルフルに、コンデは作家として油の乗り切った活動をつづけています。

 人は誰でも、いまいる場所いま生きる暮らしを離れて未知の世界を探し新しい生活をはじめたいという欲望と、現実の世界の嵐にさらされ翻弄される自分を守り暖かくつつみ根底からささえてくれるはずの(結局は想像的な)土地や言語や集団に帰ってゆきたいという欲望とのあいだで、いつも迷い揺れ動いているものではないでしょうか。故郷グアドループをあとにして二十六年の放浪を経たマリーズ・コンデは、肉体上の「帰還」と意識上の「帰還の断念」を同時に経験することで、現実のグアドループに重ね描きされた彼女自身の語るべき「グアドループ」さらには「カリブ海」を見いだしたにちがいないと、ぼくは思います。そんな彼女が、どんな小さな場所にも世界の他のすべての場所が響きわたっているというエドゥアール・グリッサンのヴィジョンや、複数の言語と文化の圧倒的混沌の中から抑圧された声を救出し可能なかぎりその鋭敏な意識化を試みるシャモワゾーとコンフィアン、自分自身こそ国境と多層的な言語のせめぎあいを内面化した十字路にして戦場にほかならないと考えるチカーナ(メキシコ系アメリカ人女性)詩人グロリア・アンサルドゥーアらに強い共感を覚えるのは、当然でしょう。

 混沌の中に秩序の螺旋的な発生を探り、それ自体としてはどんな方向にもむかいうる文化のクレオール化の中に新しい、解放的な文化創造の糸口を求めるのは、すでに「作家」の立場です。フランス小説は深くペシミスト的かつ観念的で、生を作りだすよりははるかに生の批判だ、とドゥルーズ=ガタリはいっていましたが、一見ペシミスト的にも思える生の疲労と悲しさ、さびしさを描きながら、コンデの作品にはその彼方にひろがった明るさ、強さ、広大さが感じられます。つまり、それは人がいまあるそれとは別のかたちで生を作りだすための、手がかりとなるということです。『生命の樹』の場合、何よりも数奇な運命に翻弄されて育った語り手の少女ココに最後に訪れた、「家系の物語」と「世界史」の発見が、海岸に立ちつくすような視界の拡がりと希望を、彼女自身のみならず読者の未来のためにも、準備しているといっていいでしょう。

 流浪と混乱のはてに「生」の創造を追求する作家の、あくまでも個人的な冒険の軌跡が、さまざまな線の集積した作品としてかたちをとり、それが読者の生という線に接続されてゆく。この接続に関して、人にはもはや出自も所属もなく、身をまもる神話も資産もなく、われわれはただ徹底して裸で、言語そのものに身をさらすしかありません。コンデがフランス語で書いた作品を、訳者であるぼくは日本語へと中継しました。さらにその先に、まったく予想もつかなかった転身と放浪の可能性が読者のみなさんによって延長されてゆくとき、カリブ海の列島と東アジアの列島も突然に接続され、まるでかけ離れた異質の言語が互いに響きあう世界は、その空間をまた少し拡大することになるでしょう。

 

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