管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ |
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「コヨーテ読書」の新シリーズをはじめることにしました。といっても、旧来の「コヨーテ読書」をやめてしまうわけでもないんだ。並行した二つの流れで、しばらくやってゆこうと思います。九年ぶりに日本列島に漂着したコヨーテが、都会や村、野原や海岸を歩きながらぶつかった、あれこれの本や文やそれらの断片について、一回あたり四百字から八百字くらいで、感想や連想を記してゆく。ひょいと舞いこんできた葉書を眺めるように、気楽に読み捨ててください。
津野海太郎『新・本とつきあう法』 (中公新書、1998)
「はじめに」をぱっと開くと、こんな文章が目に飛びこんできた。「本は風呂場や布団の中で、飲み屋や喫茶店で、電車の吊革にぶらさがって、そして、しばしば道を
歩きながら読む。持ちはこびに不便な大冊は平気で破いてしまう。学問や学者をすな
おに尊敬することもむずかしくなった」(とここでページが終わる)。うんうん、と
ぼくはうなずく。そのまま書店のレジでお金を払い、地下街を歩き、地表に出て、バ
スに乗り、その間ずっと読みつづけた。
歩行や、移動や、街路とむすびついている、そんな読書を、ぼくも心がけてきた。ぼくにとって、そうしたスタイルの師匠は、まず植草甚一さんだった。「本は天下の
まわりもの」とうそぶきつつ、バナナ(手が汚れていても食べられる完全食品)をか
じりながらひたすら歩き、古本屋をめぐる。下北沢を歩いているうちに、ひょっこり
グリニッジヴィレッジに出てしまう。あてどなく歩きながら、ひたすら本を読む。読
み終えれば、売る。二十歳のころは、それが生活だった。
そのころ、ぼくの本棚の大半の本は、晶文社のそれだった。片岡義男に西江雅之、
ベンヤミンにパヴェーゼ。その晶文社の名編集者として知られた津野海太郎が、いま
「インターネット魂」と本気でつきあい、書物以後の読書を考えている。ぐんぐん増
殖をとげる惑星規模の電子図書館を、どう解放的に使えばいいかを探っている。「文
」がめざすものの本質を見すえずに、コンピュータ文化をただ目の敵にする旧弊なラ
ッダイト(機械破壊主義者)たちには、特に一読をすすめたい。
ぼくらのこのサイトも、まだまだはじまったばかり。踏査すべき大地はひろく、蒔
くべき種は多い。読書の形態がどのように変化しようとも、歩く感覚、発見の感覚、
時空の変容の感覚が、文章に深い魅力を与えることは、変わらない。ぼくらは結局、
「魅力的な文」を求めているのだ。そして読むことは書くことに、書くことは読むこ
とに、ぐるぐると循環し、静止を知らない。
歩き読み、読み歩き。これだけは、個人の体験だ。でも個々の人間における循環が
、相互にぶつかりあい干渉しあって、そのときどきの言葉はつむがれる。時代の言葉
? おおげさに響くが、そう呼ぶことを避けてばかりでもいけないだろう。それは途
方もないざわめきだが、ざわめきの中にどんなささやきを、どんな紋様を浮上させる
かは、じつはぼくらひとりひとりの、読書と歩行にかかっている。
(1999.02.12)
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