管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ |
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中村和恵『キミハドコニイルノ』 (彩流社、1998)
歩いているとき、人は何を考えるのだろう。そもそも、何かを「考えている」のだ
ろうか。ぼくは昔から「考える」ということがよくわからなくて、中学生のころから
何度もその問いをくりかえしてきたが、いまだにどうもよくわからない。ある「文」
を頭の中で作ること? 「文」以前の衝動というか襞というかわだかまりにみちた、
イメージや沈黙の混沌のこと? 答えがいずれであれ、仮に「歩きながら考える」と
いう事態を想定するとき、それではいま現に歩いている場所と、その風景と、その歩
調と、この「考え」には、いったい何らかの関係があるのだろうか。
その答えはひとまずおいても、文章によって歩行の経験をなぞるとき、たしかにそ
こには歩く人の姿と動く頭脳の思考が、映しだされることになる。比較文学者にして
作家である中村和恵の鋭い歩行感覚にあふれたこのエセー集は、何か「考え」の萌芽
になるような傷、というか棘、というか種子、というか遠くからは鳥とも島とも見え
るものの影、のようなものを紙片のあちこちに「粒焼いて」(吉増剛造語を無断で借
用)いる。その覆されたラムネ玉のようにばらまかれた影のつらなりを眺めていると
、浮かび上がるかたちが文京区にもオーストラリアにも、カリブ海にも、北海道にも
、大阪にも似ているのがふしぎだ。つぶやきに耳をすませば、「標準」日本語にも白
英語にも黒英語にも褐色英語にも黄色英語にも屯田兵語にも大阪弁にも聞こえるのが
ふしぎだ。
歩行は、別に自分の足にばかり頼らなくたっていい。バスでも地下鉄でも折り畳
み式自転車でもスケートボードでも空き缶ポックリでも、とりあえず使えるものは使
えばいい。「ウォ−クアバウトの習性を、わたしは多分モンゴルか、北極圏あたりの
部族から受け継いでいるのだろう。長距離バスに揺られ、ユーカリのくねる枝、砂岩
の崖、枯れて骨と化した木の幹、空、空、空の続く単調な風景を十時間以上眺め続け
るうちに、なにかが<治って>くる」(83ページ)。さまよいつつ住処と生き方を
探し、自分と人々の境界線を見つめなおし、言葉を学び、機会があればダンス好きな
アフリカ系の大男の頭にだってさわってみる。
その「豪気」(オーストラリア気分、のつもり)な文章の歩きっぷりを追ううちに
、読者であるぼくらも、何かが治ってくる気がする(ぼくは、した)。
(1999.02.15)
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