管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ |
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鈴村和成・訳編『ランボー詩集』 (思潮社、1998)
小林秀雄訳の『地獄の季節』は岩波文庫のもっとも薄いカテゴリーで、ずいぶん昔
からある。ぼくも七〇年代の高校生のころ、それを買って読んだ。いちど読んで、遠
ざけた。その癖の強い訳文が、そのときはあまり好きになれなかったのだ。やがて大
学に入って、フランス語の勉強をはじめた。いきなりランボーを読みたかったが、も
ちろん歯が立たなかった。最初に通読したフランス語の本は(そういう人は多いと思
うが)カミュの『異邦人』で、この作品は驚いたことになんとか読めた。でも文章が
やさしくても、内容が平易だということにはならない。いま読んでも『異邦人』は読
むたびおもしろく、奇蹟的な文章だと思うし、この砂漠的な作品からは、まだまだ学
べることがありそうだ。
ランボーには粟津則雄や清岡卓行の渾身の訳もあったが、いずれもちらりと眺めて
、書棚に戻した。フランス語以外で読んでも仕方がないと思ったのだ。詩がはたして
翻訳可能かどうかという問いには「翻訳で失われるものが詩だ」という立場と「翻訳
しても残るものが詩だ」という正反対の答えがどうやらいずれも可能で、将来よく考
えてみなくてはならない。しかしぼくは、あまりに不十分なフランス語ではあっても
、そして読み方がいかに断片的なものではあっても、ともかく成人後の人生では、晴
れたり曇ったり降ったり止んだりながら、ずっとランボーとつきあってきた。
ついこのあいだ、インフルエンザに冒された冬の街で、鈴村和成の編になるランボ
ーの訳詩アンソロジーを見て、はじめて本格的に日本語でランボーを読むという経験
をした。いい経験だった。もちろん訳者それぞれの言葉に違和感を覚えるところがい
くらでもあるのは当たり前だが、日本語は黙読できるだけに、ものすごい速度で読め
る。フランス語や英語では、ぼくは本当に黙読するだけの力がない。このスピード感
をもって、ランボーの思念の紋様がページと自分の脳のちょうど中間あたりに浮上してくるのは、バッティング・センターで投球機械にむかうようなスリルがある。肉体をもつ投手ではないが、それに似た仕事をしてくれるというわけ。それで「少年の頃、ある種の空が俺の視力を磨いてくれた」とか「いっさいの諧調あり建築的な可能性がお前の滞留地の周囲で揺れ動くだろう」とか「さあ、行こう! 歩行、荷物、砂漠、倦怠と憤怒だ」などといったフレーズ(いずれも鈴村訳)がめくるめく速さでくりだされてくれば、それが訳詩であってもたしかにランボーその人の出現を感じずにはいられなくなる。また鈴村訳だけでなく、たとえば巻頭近くの中原中也訳の「おれの飢餓よ、アンヌ、アンヌ、/驢馬に乗つて失せろ」なども、すばらしい新鮮さに輝いている。
偉大なアフリカ歩行者、西江雅之は、若いころ小林訳の岩波文庫をいつも持ち歩い
ていた。その小さな本が、好きだったのだそうだ。この思潮社の『ランボー詩集』も
、ポケットには入らないが持ち歩くには便利な大きさで、いいと思う。ところでラン
ボーの生涯に関しては、小林秀雄的な「詩を捨ててアフリカに去った」という神話が
、いまだに広く語られているようだ。ぼくはずっと、それは変だと思ってきた。たと
え詩を書かなくなっても、生き方の論理として、それはある一時点での切断などでは
なかったのではないか。この点を鈴村は、解説で巧みに言い表している。「見ること
が終わって生きることが始まったのではない。そんなふうに簡単に人の生を分断でき
るものかどうか。分断はむしろ、見者の知覚、その三人称動詞 est のなかで、コギ
トが微塵に粉砕される錯乱のうちに行われたのではないか」と(143ページ)。
詩を書くことも商業的通信文を書くこともひとつと思うぼくは、基本的にはそれに
賛成だが、「コギトが微塵に粉砕される錯乱」となると、いいすぎのような気もする
。若いランボーの言葉は、錯乱からは遠い。どれほど灼熱した言葉、途方もない思考
の放浪を現出しようとも、ランボーの詩にあってすべては冷徹な制御下にあると、ぼ
くには思える。
(1999.02.21)
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