管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ 
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コヨーテ歩き読み8
佐藤文則『ハイチ−目覚めたカリブの黒人共和国』
(凱風社、1999)

 

 そのときはプエルト・リコの首都サン・フアンから、ほぼ真西にむかって飛んだ。 トルコ石の青の海をわたれば、まもなくまた、したたるような緑の島が見えてくる。 イスパニオラ島だ。1492年、コロンブスが「新世界」への最初の足跡を記した島 。この島の東三分の二をしめるドミニカ共和国の、緑の山岳地帯上空を飛んでいった 。すると卒然と、景観が一変するのだ。森の緑は茶色いむきだしの土に替わり、どう にも荒涼とした不自然な裸の地面がつづくようになる。それがハイチだった。西半球 ではアメリカ合衆国につづく二番目の独立国(1804年1月1日独立)。そしてア フリカ系黒人の、世界初の独立共和国だ。

 その見るも無残な森林破壊は、独立以後ずっと進行してきたものだった。はじめは 砂糖黍プランテーションから解放された元奴隷の農民たちが、畑を求めて森を伐採し 土地を開拓した。現在では炭を焼き、あるいは薪に使う燃料源としての木々が、手当 たりしだいに切り倒される。徹底した森林破壊は雨の降るパターンすら変えてしまい 、砂漠化はいよいよ進行する。たとえばこの景観の人為的破壊にも、そもそものはじ まりから「不自然」きわまりなかったこの島嶼国家の「無理」が、顔をのぞかせてい る。

 それはヨーロッパが強いた無理だ。先住民を殺しつくし(かれらタイノ族の言葉は ただハイチ「高い山々の土地」という国名にのみ残っている)、土地を砂糖という嗜 好商品のための単一耕作地帯とし、アフリカで大量に買いつけた人々を輸入して、生 産に従事させる。やがて移植された人々は反抗し、解放を求め、それに成功した。し かし、その「成功」を計る基準となったのは、近代ヨーロッパ型国家をみずから建国 すること以外ではなかった。今日、ぼくらが「国家」と呼び、国際法と交易慣習をも つ「国際社会」をかたち作っているのは、すべて近代ヨーロッパ型の「国家」だ。そ こから、すべての「国家」の悲劇と喜劇が生まれる。ハイチはその悲劇と喜劇を、他 のどこにも増して、歴史において一身に実演してきた。芝居のように現実感を欠いた 悲劇、背筋が寒くなるほど悪辣で陰惨な喜劇を。

 

 本書は報道写真家の著者が、1988年の軍部によるクーデタ以後のハイチの現代 史をつぶさに見ながら撮りためた写真と、首都ポルト・プランスのスラム街シテ・ソ レイユに住む友人たちとのつきあいを絡めたルポルタージュの文章からなる、貴重な 一冊だ。ハイチを主題として書かれた日本語の単行本は、これ以前に例があるのだろ うか。十年以上の歳月をかけて、うつろう歴史の貌を追ってきた写真はいずれも強烈 で、見るものを引きつける力と絶対に拒む力を、合わせもっている。文章も写真の非 情な客観性によく拮抗するよう、抑制され丁寧に書かれていて、そこから惨憺たる事 実が浮かび上がる。

 全編が死の影におおわれている。ヴードゥー教の死神バロン・サムディ(土曜男爵 )の格好に巧みに自己演出し、私設の秘密警察トントン・マクートを使って徹底した 恐怖政治をしいた独裁者パパ・ドック(フランソワ・デュヴァリエ、1957年から 71年の死去まで大統領)の時代以来、政治的殺人はハイチの伝統だった。解放の神 学派の神父アリスティドの大統領当選にはじまり軍部によるクーデタへとつづく90 年代にも、首都の、町中の空き地に、上半身を犬や豚に食いつくされた男の死体がこ ろがっていて、軍政派に殺されたその亡骸を、関わりを恐れて誰も片づけることがで きない。流れ弾にあたって一般市民が死ねば、それも警察の検死がすむまで一日でも 二日でも動かすことができない。一方にこれらの暴力的な死を見つめ、他方では自分 が出会いよく知るようになった人々が年齢にはかかわらず極貧の中で病死してゆく姿 を見つめながら、写真家は淡々とその島を訪れつづける。

 

 ボストン地区に通い始めて10年が過ぎた。ウィリー、エリック、マリヨール、チ ・ポール、そしてジャン。友人が死んで私の手元に写真が残った。彼らの死を聞くた びに思うのは、どんなに良い写真やどんなに多くの写真を撮ろうと、彼らの「生」は 写真に収めきれないほど大きく、そして私が想像するよりもっと複雑で遠いところに あった、ということだ。(300ページ)

 

 その生の複雑さのひとつの例証が、ここに名前の上がったチ・ポールという人物の 場合だろう。「チ・マクート(小悪党)のウンガン(ヴ−ドゥーの司祭)」である彼 は、スラム街シテ・ソレイユに外国の援助団体が送る食糧配給プログラムの管理人で 、送られてくる物資を着服し市場で売ってお金を儲けていた。それに気づき言いふら した少年たちを、彼は学校の前で殺す。この殺人の犯人が彼だということは誰でも知 っているのに、軍政支持派フラップ党員で拳銃をもつチ・ポールには、手出しができ ない。しかしチ・ポール自身、亡命中のアリスティドが帰国し、力関係が変われば自 分の身が危うくなることはよく知っているのだ。94年10月のアリスティド帰国の 半年後、はたしてチ・ポールは町の給水タンクの近くで、棍棒とマシェテ(山刀)を もった一団により惨殺される。男をよく知っていた友人の次の言葉を聞いて、著者は とまどう。

 

 「一年前だったら、チ・ポールが殺人者なんて怖くて言えなかったよ。悪党だけど 、いい奴だった」
 不思議な共存関係である。「小悪党」や「殺人者」と知りながら、アヘやアンソニ ーたちは、しばしば彼のヴードゥー寺に出かけ、ドミノに興じていた。友人としてか 、金回りが良かったからか、それとも保護を期待したのか、理由はわからない。しか し、彼らにとってはごく普通の人間関係だった。(287ページ)

 

 酷薄な力の論理を日常生活に埋めこみ、死のかたわらで生きる人々。だが脅え震え るそのおなじ人々が、目をみはるような絵画を生み、耳を虜にする音楽を生み、舞踊 の動きで、明るい笑い声とともに、活力にあふれた混乱の日常を営んでいるのだ。  ハイチは遠く、この東アジアの列島との関わりは希薄だが、そこに関わりを見いだ すことではじめて見えてくる人間の姿が、たしかにある。本書が紹介する、ハイチで 栄養失調の子供たちに対する治療活動や識字教育を推進する日本人シスターたちや、 がんばり屋の駐日ハイチ大使マルセル・ドゥエといった人々の姿は、まるでぽっかり と開けた窓のようだ。その窓のむこうの強烈に明るい闇に、著者は何度でも、しずか に果敢に飛びこんでゆく。この旅はこれからもつづくだろうし、そこから生じる映像 と言葉に−−さしあたっては彼がいま準備中だというヴードゥーについてのドキュメ ンタリーに−−ぼくはこれからも目をさらし耳をかたむけたいと思う。

(1999.03.24)

 

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