丹生谷貴志 中上健次は先年ガンで亡くなりまして、一部では昭和文学の最高峰であるといわれている。少なくとも四方田犬彦とか渡辺直己という、いわゆる若手のあいだではそうです。むしろ近代日本文学の奇跡とさえ彼らはいおうとしている。もちろん大江さんたちなどは、褒められすぎだというのですが、それはおいておくとして、中上健次さんが特殊な、あるいは特異な文学者であったことは間違いないだろうとおもいます。
そこで個人史は自分史ではないし、個人史学会などがあるわけではないですから、それぞれが個人史について考えねばならない。だから、中上さんのやろうとしたことが、個人史の記述の仕方のモデルではないかという仮説としてお話してみたい。
中上は新宮の被差別部落出身で、そこを路地と名づけて、そこに自分の分身である秋幸、あらゆる小説にでてる名前なんですけど、紀州と被差別部落というひとつの個人史をとおして世界を描こうとした作家です。
ここで余談になりますが、僕は東京生まれの東京育ちでして、村上龍の『限りなく透明に近いブル−』の舞台である福生で生まれたわけです。丹生谷という名前からおわかりのとおり、水銀の取れる谷という意味です。これはだいたい四国と九州の名字なんですけれど、僕の祖父の血筋はどうやら新宮らしい。らしいというのはこの祖父が、そこで粗相をやらかしまして、東京に追いだされるわけです。まあそれは、おそらく愛人問題だったらしくて、関西に来てみますと、僕のしらないおじとかいとこがやたらいるんですね。僕も聞くのは嫌だし、親たちも話すのはやめようということで、つまり僕は自分の個人史にはほとんど興味がない、という態度を取ることによって生きてきた男ですので、調べる気もない。ともかくそういう紀州に自分もつながっている。かつて白虎社という舞踏団とかかわりがありまして、毎年那智勝浦あたりにかなり長く滞在するということを繰り返していたわけです。中上健次という人間をしらないというのはある種当然のことで、単純に交通網が発達していないので、今も行くのが非常に不便な孤立した地区なんです。岩盤が固くて電車が直線に走れない、そして新幹線を通せない。勝浦の人は一時、観光業に燃えあがったんですが、結局誰も来ない。しかし、実際長くいると非常に不思議な土地なんですね。よくいわれる補陀落渡海、明治期まで行われていたといわれていますが、坊さんを小舟に乗せて那智勝浦の海岸から流してしまうんです。当然死んでしまいますが。補陀落とは一種の天国ですね、浄土ですけど。そこへ流してしまうという儀式が今でも昨日のことのように話したり、あるいはおじいさんが大逆事件をほとんど昨日のことのように話したりする。とにかく不思議な土地なんですね。
そこで中上健次に戻りますと、中上さんはどちらかといいますと、朝潮に似てまして、非常に濃密な迫力のあるイメ−ジをみんな抱くわけです。実際伝説の多い方なんですね。つまり、座談の最中に相手を飲み屋の窓から投げだしたとか、奥さんに巨大な冷蔵庫を投げつけたとか。中上さんに聞いたら、逆に奥さんは投げ返してきたとかいう話があるんですけども、とにかく非常に伝説の多い人です。実際、小説も濃密なわけです。
ところで、中上さんとそれ程親しかったわけではないけれども、最後に一度お会いしたことがあるんです。東京の飲み屋で飲んでいました。そこに中上さんが入ってきた。そのときの印象が非常に異様だったんですね。『軽蔑』という最後の小説を連載していたころで、つまり彼はもう癌だということはわかっておりまして、おそらくそのときも病院に治療で入院していたはずですが、彼はお酒が好きですから、あるいはさみしいからかもしれませんが、みんなが来るであろう飲み屋、バ−に来ていた。そのときの印象は以前からの印象もおなじなんですけれど、ほかのたとえば島田雅彦に聞くと、彼には殴られたとか、酒をかけられたとかばっかりいうんですけど、僕の会った印象、たまたま柄谷行人という彼の親友ないしは浅田彰という一種の独特な親友ですね、がいたからかもしれませんけど、非常に弱々しい人なんですね。弱々しいというより、透明な、あるいはがらんどうな感じがしたんです。つまり、非常に強い個性、キャラクタ−を持っているんではなくて、なにか輪郭が薄い、不思議な人なんですね。
のちに、四方田犬彦が中上論を書いてますけど、四方田に聞いたら、要するに中上さん、口癖があるらしいんです。特に飲んでると、「おれはここにいない。ここにおれはいないんだ」、と繰り返したらしいんです。それは機嫌がいいとき、暴れださないときの中上さんの飲むときの口癖で、そういう人だった。そういうところが、中上さんにあると気付いた、というかそのことにむしろ打たれたんです。中上さんはその次の年に死んじゃったんですが、僕は中上さんという人は、一般におもわれているような我が強いキャラクタ−の人ではなくて、むしろもとからがらんどうであって、それをどうすべきかどうしたらよいか、ということだけを考えていた、というかそれにおいて書いていた、とおもったわけです。
中上さんは被差別の問題、あるいは補陀落的な新宮の実家に帰って死ぬわけです。ご存知のように、これはある時期からなんですね、つまり『岬』という小説、それ以外にも小さい短編に新宮という名前はでてくるんですけど、たんにそれは自分の生まれ故郷という問題だけであって、被差別の問題はでてこないし、新宮に特殊な重みを与えることは必ずしもない。ところが『岬』あたりから、突然、彼は秋幸という自分の分身をだして、彼が路地と総称する被差別部落、それからそれを取り囲む新宮という土地、それから熊野、紀州全体、紀州といっても和歌山ではない、南紀の方です、和歌山は大阪に近いんでむしろ雰囲気としては南紀ですね、南紀に入り込んでいく。『枯木灘』あたりからぐるっとまわるわけです。次第に大作家となっていくんですけど、ところが前期の作品はそれと関係ないわけです。
吉本隆明という評論家がいまして、吉本ばななのお父さんといったほうがわかりやすいのかもしれませんが、隆明さんがこれも四方田との対談のなかでこういうわけです、「『岬』以降の作品がなければ、中上健次はよくあるビ−トニックの若手作家にすぎなかった」。これはどういうことかというと、前期の小説は、自分のがらんどうという性格をどうやってぬぐい切れるか、あるいはがらんどうをどうやって埋めるかを基本的に主題にしていたとおもうんです。要するに、ドラッグ,酒、喧嘩、ジャズ。ともかく、初期の小説たとえば『十九歳の地図』あれは殺人事件ですけど、自分の空洞から発した行動を自己充足の身振りとして書いていた。まあ、石原慎太郎みたいなもんです。肉体を使うことで自己確認を行うということです。
吉本さんの評価をどう考えるかという問題がありますが、おそらく僕は違うだろうとおもいます。というのは、中上健次のがらんどうはただものではなかった。その程度のことで埋まるようながらんどうではなかった。だから、前期の小説ですら、がらんどうの状態が結局埋められない、ということを繰り返す小説群であった。ともかく、『岬』からはじまって『枯木灘』は最高傑作といわれてますけど、是非とも読んでいただきたい。僕も『枯木灘』は戦後文学の最高傑作のひとつと実際おもっています。これは普通に考えれば、中上さんがそういう小説を書くことによって大作家という飛躍を起こすということは、今まで隠してきた被差別という問題を隠すのをやめてそして自分の生まれた新宮という土地と被差別部落に生まれた者としての自分を確認しそれを積極的に小説化すること、つまり私小説です、自分を明かす、自分史を書く、ここではあえて自分史といいますが、そのことを決意をしたことによって、作家としての飛躍をしたということです。ところが、『枯木灘』が一番わかりやすいんですが、読んでみますと、さきほどいった秋幸という男、彼のモデル、完全な私小説はないのでモデルというのはちょっと微妙なんですけど、秋幸は弱々しい、透明ながらんどうな感じがする。といいますのは、中上さんをみて以来、その秋幸にそっくりだとおもいはじめたわけです。このモデルとして生産された秋幸という男は、のちに中上さんのオブセッションとなるんですけど、つねに自分のことをがらんどう、からっぽと繰り返すんです。おれはからっぽだ、と。実際彼は非常に複雑な路地のなかに生まれると設定される。それは事実なんです。ところが、そのなかで強力な動きをするのに、もっともキャラクタ−のない人間なんです。彼自身がに積極的に部落問題、被差別問題を引き受けるわけではないんです。彼はたんに土方、土を掘るのが好きだった。なぜなら、彼はからっぽだから、そうしているときが一番気持ちいいと繰り返すわけです。彼の被差別、血の問題は周囲のしらないうちに起こってくる、というかからみついてくる。彼はそれにたいして基本的には受動的にしか動かないんです。
柄谷行人はこれをギリシア悲劇的な行動といったりするんですけど、重要なのは秋幸というモデルを設定したときに、かりに彼が中上健次本人であるとしたときに、けっして充実した自分というものが構成されるわけではないんですね。むしろ逆に、もはやその人間は充実しないということ、つまり充実しないがらんどうであることを引き受けることによって、まわりの事態がなだれこんでくるんです。結局、中上健次さんが『岬』以降を書きはじめたとき、自己確認、自分史確認ではなく、がらんどうである自分を事件の真ん中におくということ、空虚であるということによって、逆に自分を取り巻いていた事件を引き受ける。中上さんの方法というのは要するに、がらんどうである自分を自分の出自を認めることで、それを埋める操作ではないんですね。自分はこうであった、私は被差別部落の生まれであった、こう生きてきた、という小説ではないんです。
『枯木灘』を読んでいますと、異様なのは、秋幸についてがらんどう、からっぽという言葉が何回もでてくるんです、しつこいように。ほとんど間違ったように何回もでてくる。あれ、さっきもでてきた、またおなじ文字だ、と。たえず自分がからっぽであったということを彼は繰り返すわけです。
僕の勝手な仮説ですが、自分史ではなく、個人史というのは自分を充実させるために過去を振り返る、あるいは自分に起こったことを記述するということではなくて、自分ががらんどうであること、すべての事件の受容体でしかないこと、あるいは、でこそあることを彼は試みたのではないかということなんです。
じつは彼には奇妙な口癖がありまして、先ほどいった口癖のあとにつづく言葉なんですね。四方田が本にも書いてますけど、「おれはここにいない」といったあとに、必ずつけ加えたそうです。「そして、路地はいたるところにある」。つまり、がらんどうである自分を埋める、という作業をやめて、がらんどうの自分の個人史を被差別部落におき直してみるわけです。
中上さんのいう被差別世界というのは、穢多・非人というような単一なそれではなくて、もう少し複雑、柄谷さんにいわせると、政治的状況をもっている。つまり、一向宗部落の混合体なんですね。中上さんの生まれた非差別部落は、いわゆる穢多・非人だけから成るものではなくて、一向一揆によって生じた者たちの部落なんです。中上さんの部落というのは、ひとつの政治的世界の結果であった。被差別という単純な問題ではなくて、それを越えた政治問題、さらにそこには紀州独特の反乱、大逆事件などさまざまな政治的な動き、さらには『枯木灘』でみられるような奇妙な人間集団の分裂……。
紀州というのは日本でもっとも独自の移民が多かった土地のひとつなんです。たとえば、アメリカ村というといまは大阪になるんですが、出稼ぎして帰ってきた英語を話せる人たちが住んでいる不思議な村があったり、さらには全体が海の交通路ですから、朝鮮半島に開かれていたり、さまざまなものがからまっていて、中上さんが引き受ける、がらんどうの個人史には世界全体が導かれてくる。「おれはいない、路地はどこにでもある」、これは差別はどこにでもあるという意味ではなくて、がらんどうの自分がそこにおかれたときに、あらゆる世界が自分を取り巻いていて、現実の路地、つまり個人史的な路地に、おなじようにしてそこに連鎖してくるということです。
彼は三島由紀夫を非常に崇拝しておりまして、これはちょうど三島由紀夫とは逆の方向ですよね。野坂昭如は「三島はがらんどうであった」、といいましたけど、三島さんの場合はがらんどうを壊してたくてしょうがなかった。つまり、がらんどうを引き受けて、世界を引き受けるのではなくて、それをぶっ壊す機会を狙っていた。それで、『天人五衰』を書いてぶっ壊した。ところが、中上さんは、四方田にいわせれば、そこに発想するんだと。まさに、中上は『天人五衰』という短編を書いているんです。それはなにかというと、がらんどうにおいて語りはじめること、を語った小説なんですね。非常に複雑な小説ですけど。文章が複雑なんです。そういう意味で中上さんはがらんどうであるという格好で自分の個人史を秋幸という人間に託して全部引き受けようとしたのではないかとおもうんです。部落民にたいして、自分の運命を私小説のように語っているわけでもないし、アイデンティティのように語ったわけでもない。いつまでたってもアイデンティティは部落を誕生させるとおもったわけです。中上さんは最終的には自分の経験・出自を離れて書くことができなくなってしまう、というか、離れようとした瞬間に彼は死んでしまったわけです。つまり、『軽蔑』という小説です。秋幸が一回もでてこない小説で、これは失敗策といわれていますけど。
欧米にもここでいう個人史ではなく、自分史、自分の現実経験がなければ書けない作家がいっぱいいるわけです。たとえばアンドレ・マルロ−、ヘミングウェイ。アンドレ・マルロ−は、極限経験、戦争経験がないと書けない。戦争が終わってしまうと、書けなくなるんです。のちに、『反回顧録』なんて書いてますが、要するに彼は、戦後政治家になったけれど、政治家の経験は彼にとって小説にはならないわけです。俺はこういう人であったという文章しか書けなくなってしまう。もう一人はヘミングウェイ。ヘミングウェイも現実経験がなければ書けない男だった。意外とつくっているようにみえても全部現実経験なんですね。おもしろいことに、『誰がために鐘が鳴る』などは、アンドレ・マルロ−に命令されて書くんです。スペイン市民戦争にでかけたやつです。マルロ−は『希望』という小説を書くんですが、ノ−ベル賞はマルロ−にいかずに、ヘミングウェイにいってしまう、という結構複雑な問題があるんですが。実際、現実経験がなくなるから、遺作と呼ばれている『海流のなかの島々』を読んでみるとわかりますけど、これは全体としては、彼のバハマの経験を下地にしてるんですね、バハマでは彼は釣りをしていて戦争はしていない、つまり彼はどうしたかというと、その主人公はヘミングウェイではないんです、主人公の経験を調べたらアンドレ・マルロ−なんです。つまり、息子が4人交通事故で死んだとかです。つまり、ヘミングウェイは最後には、他人の経験を自分の経験であるかのように使って、かろうじて小説を書いた。それによって、自殺するのを避けたわけです。ここでいいたいのは、中上さんとはべつに、経験がなければ書けない作家というのがいることです。この場合、自分のことをひたすら自己確認として書いていく。
さらにもっと悪質な例をもうひとつあげます。今度は日本の例をあげますと、開高健という作家がいる。好き嫌いはおきます。下品なりにもっとも美しい文章を書く人といわれています。なぜ悪質かといいますと、開高健という人も現実経験がなければ書けない人だった。三島由紀夫が生前、非常に開高健のことを嫌ったんですね。それはなにかといいますと、開高健の場合は書くために経験を探すんです。たとえば、彼は芥川賞が欲しくて欲しくてしょうがなくて、もらうわけです。じつはその後書けなくなってしまう。そこで彼はなにをしたかというと、大阪の乞食部落での経験を小説に書くわけです。また書けなくなる。そうすると、彼はベトナムに新聞記者の特派員として行くわけです。実際彼はそこでひどい経験をするわけです。百数十人中数人しか生き残れない戦争に巻き込まれるわけです。でもそれは立派なものだといってもいい。そこでベトコンの銃殺もみる。ところが三島由紀夫は怒るわけです。戦争経験を小説にしなければならぬのであろうアンドレ・マルロ−は許すと三島はいってませんが、ところが開高健は小説の題材を探しに戦争へ行った。つまり、小説に利用するためだけに経験を使っていった、ということです。これは晩年までつづくわけです。たとえば、『夏の闇』などは、わざとタイで放蕩生活をするわけです。その経験を小説にする。彼は現実を利用することで自分史を書きあげるタイプの作家になっていった。
あえて名前をあげたのは、中上さんがいかにそれと違うかということを想像していただきたかったからなんです。つまり中上さんは現実を利用したことは一度もないわけです。現実は押し寄せてくる、というタイプの男だった。だから、彼の文章はどんどん難しくなっていく。現実を利用できないからです。自分の空洞のなかにからまってくる現実のあらゆる綾をルポルタ−ジュできないんです。たとえば、「彼は立った。銃に打たれた。血が流れた」、これでいいわけです。ところが、中上さんの文章を読んだ方ならわかるように、これを中上さんの文章にする能力はまったくありませんけど、延々と十数行にわたって句読点ゼロの文章を書くんです。じ−っと読んでいても主語がわからなくなってしまう。四方田に聞いたら、中上さん、自分でも時々わからなくなっていた、ということです。それは困ったことだと。ところが実際直しようがないんですね。大作家といわれるような人にしては奇妙というか、不幸というか、僥倖であるというか、彼の生原稿はほとんど焼けてしまったんです。八王子の実家が焼けまして、焼けて燃えてしまった。つまり、彼の文章はもう直しようがないけど、とにかくそれであるがゆえに余計印象が残るかもしれないけど、けっして埋められないんですね。結局、なにも報告されないんですから。文章はともかく、どんどんそういうふうになっていく。さきほど述べたマルロ−やヘミングウェイとは違って、いまは小説家としての質はあえていいません。彼らが偉大かどうかは関係ありません。ただ、自分を使って書くというときの中上さんとのスタンスの違いですね。結局自分を書くことが広い意味での自己救済、自分史にしかつながらないような書き方しかできていない。ヘンリ−・ミラ−のような脳天気な男は自分のことを語っても、幸福なエゴティズムになりえた、という不思議な例です。それもやっぱり、中上さんとは違うわけです。
では、大江健三郎はどうかという問題がでてくる。じつは大江さんと中上さんは仲が悪いんです。死んでから 大江さんは「中上君」なんていってますが、中上健次を生前から許してなかった。ただ中上さんは不思議な人で、年長の作家には非常に礼儀正しい人で、大江さんにも一応礼儀正しくしている。ただ対談なんかを読みますと、大江さんにそうはいったが、本当は賛成してなかった、とあとでいってるんですけど、それは三島由紀夫の解釈で喧嘩になったらしいんですね。つまり、大江さんはどういう人かというと、彼も自分のことを題材に書くんですね。少なくとも『個人的な体験』以降は露骨に自分の体験だけで小説を書ける。彼の場合は中上さんとどこが違うかといいますと光ちゃんを巡っての自分にとっての歴史ですね。あれは非常に真摯だし、ある意味美しい小説といっても構わないんですけど、ただ要するに大江さんのあれも中上さんと違って自己確認なんですね。大江さんという人は自分の人生になにかが起こって、たとえば問いとしてあらわれて、問いを自分の人生のジャンプとしてそれを使う作家。逆にいえば、そういう問いが現れたら書かずにいられない作家なんですね。だから、唐突ですけど、『燃え上がる緑の木』を書いたら小説を書くのはやめるといいながら、突然書くといいだした。それはなぜかといいますと、武満徹という大親友というか、マエストロといっている大先生が死んだということが、彼の人生の問いになった。彼は自分の人生に答えをださなきゃいられない人なんです。中吊りの状態には耐えられない人なんです。だから書くといっている。これは悪口いってるわけではないんです。大江さんは非常にすぐれた人です。けれども大江さんの自分を題材にした書くこと、個人史という以上、我々は結局書くことが題材とならざるをえないんで、だから個人史を書くことはなにかというひとつの文学的な問いというか、大げさにいえば存在論的な問いになるからだろうとおもってこうしてしゃべってきたわけですが、大江さんの場合も結局自己救済という問題を一生懸命引用しながら、普遍的な問題に広げようとする力を持った人で、自分という問いを充満させることによってすべてを自分に収斂させてしまう。大江さんという現実の個人はどうかは別にして、そういうタイプだろうとおもいます。
要するに、個人史として中上健次を特権視するかどうかは別問題として、一番危険なのは個人史が自分の人生を書くような自分史であってはならないというごく単純なことです。どこが違うのかは難しくて、ここではあえて自分自身を満たすべきものとして外部を使わない、あるいは使えない状態に自分を追い込む、つまり自分はがらんどうであるという状態、そのがらんどうが決して埋めるための自己救済として世界が現れてくるわけではないという状態であるべきではないか。
なぜそう考えるかというと、僕は一方でミッシェル・フ−コ−という男を研究、というか読んでおりまして、彼は『狂気の歴史』とか『監獄の誕生』のような歴史の格好をとった哲学を書くわけです。ところが最終晩年に、彼はエイズで死んじゃうんですけど、突然方向転換するわけです。私の問題です。語る私の問題です。そこに帰ってくるわけで、この場合どういう転換が起こるかというと、汚辱にまみれた人々の性を書くということを、晩年に一回主題化するんですが、結局それを放棄してしまう。それはどういうことかというと、汚辱にまみれた人々の性について書く私は彼らではない、という単純な問題がでてくるわけです。つまり、最後のフ−コ−は汚辱にまみれた自分を語るとはなにかという問いを自己への配慮、他者への配慮といった格好でテ−マ化しようとする。おそらく、成功したのか失敗したのか実はわかりません。というのは、最終巻を直している最中にフ−コ−が死んじゃったんで、フ−コ−の遺言に従って出版されてないんです。結論部分ですね。結論部分はどうなっているかわからない。でも結局フ−コ−がいおうとしたことは、充実した私はサルトル的実存主義的な私の自己決意ではなくて、まさに汚辱にまみれた絶対に満たされない充実されない、つまり英雄のように語ることのできない者たちとしての私が語るとはなにか、ということです。
最近サバルタンスタディ−ズが注目されています。昔からあったわけですけど、カルチュラルスタディ−ズと一緒にでてきた。このサバルタンスタディ−ズはインドでいえばハリジャン、アンタッチャブル、最低階級みたいな人たちといっていいです。女性とかインディアン、あるいはもっと簡単にいえば、少数民族に関わることなんだけれども、そういった者たちを歴史のなかに参加させるにはどうしたらいいか、位置づけ直すにはどうしたらいいかというのがサバルタンスタディ−ズなんです。日本にもいらしたスピヴァクというインド系のすぐれた学者もいますが、最大の問題は、どこまで書いてもサバルタンスタディ−ズを書く私たちというのが、サバルタンの外部に位置づけられてしまうんですね。つまり、サバルタンスタディ−ズをする学者たちがでてしまう。研究者たち、ボランティアでもいいです、自分たちは結局サバルタンではないわけです。一切言葉を持っていないがらんどうはサバルタンたちであって、自分たちは言葉を持っているわけです。それではどう語るか、という問題が残るんです。
そのときに、さきほどのフ−コ−とおなじテ−マですが、いろいろな考えがありますが、私を介してやる、つまり自分史ですね、ひとつの慈愛に満ちた態度がある一方で、サバルタンという者が私を得た瞬間にサバルタンを作る主体にもなりかねない可能性があるわけですね。簡単にいえば、一種の理論ですが、生産という概念ができてプロレタリアが独裁を起こした場合、プロレタリアは子供を生むという意味ですから、子供を生むしかない階級というロ−マ・ラテンの言葉なんですけど、最低階級として世界を支配したとしますね。ひとつの仮説ですよ。そうすると、子供を生まない人間は差別されます。もちろん子供を生めない女性もそうでしょうし、同性愛者も差別されるしかない。その場合に彼らをもう一回世界に参加させるにはどうしたらいいか。ところが個人史は、可能性としてからっぽであることが、世界の言葉をからっぽであることによって、書きつづけることのひとつの方法です。つまり、自分という主体を持つんじゃなくて、まさにサバルタンとして、あるいは私のない空虚な汚辱にまみれた私として、書きだすひとつの態度ではないか、ひとつのモデルケ−スとして中上健次が使えるのではないか、つまり中上健次という独特な作家のがらんどう性が、おそらく若い評論家たちに受けるのではなく、反応するからこそ、旧小説評論家たちに、中上は褒められすぎだといわれながらも、若手の作家たちがあとに引くまいとするのは、中上の持っていたがらんどうのまま書く、自己救済ゼロで書くこと、そしてそれが私小説的な私に返ってこないという事態が恐るべきことかもしれないと予想しているからです。
秋幸は三部作のラストで消えてしまうわけです。というのは新宮へ行けばわかりますように、じつは新宮部落はいまは存在しません。というか中上さんがこっちに来た頃消えるんですね、市街地調整で。しかも路地なんて呼ばれていなかったんです。路地というのも中上さんがつくった言葉です。本当は山の人、山の向こうの人と呼ばれた。ともかく実際そのなかで小説から秋幸は消えてしまうわけです。つまり秋幸が消えたということは、ある意味では中上さんは消えてしまったんですね。中上さんは消えた。自分はまた別のがらんどうの小説家になれるかという実験をやっているときに死んじゃったわけです。最後に実際中上さんは悩むわけです。当たり前ですけど。結構真面目な人ですから。みんなにいっていたそうなんですが、「また秋幸を書く」と彼はいっていたらしい。消えたはずの秋幸はどこにあらわれるのか。すると「ソウルだ、まずソウルにおろそう。そこから世界を歩きまわらせよう。なぜなら秋幸はすべてを書かせるためのモ−タ−だから。そして、最後に彼はまた新宮に帰ってくる」と四方田に向かっていったそうです。それを聞いたときに四方田は、「ああ、駄目だ」とおもったそうです。というのは中上さんは自分の書く小説のことをいったためしがないんですね、書く前に。というかいえたためしがない。ところがいまいっている。おそらく小説は絶対書かれることはないだろう、とおもったらしいです。彼は大逆事件を書きたいといろいろいったあとに、計画をいっぱい友達にしゃべりながら結局死んでいってしまうわけです。
私の希望としては中上健次のすべてを読んでくれとはいいませんから、せめて『枯木灘』あたりをいまいったことを仮説として一回読んでいただくとありがたい。違ったとおもったら、馬鹿野郎、といってくれて結構です。
どうも長くなりました。終わります。
(鄭暎恵さんのパートは、次回アップデート時に掲載)
・イントロダクション(今福龍太)を読む
Special thanks to Toshiyoshi Imura for transcripiton.
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